32話
「こんどこそ安静になさってください。責任はとりませんよ」
イーダ女史の怒りの表現は冷笑らしい。背筋がうそ寒くなるような笑顔が釘をさす。もちろん俺は従順に頷き、クロドーニスを不機嫌にさせていた。手早くケガを診ようとしたイーダ女史がヤツの退室を求めたこともその一因だ。
クロドーニスは嫌だと言い、女史は肩をすくめて治療をはじめ、俺はさんざんふたりから絞られた。クロドーニスは始終仏頂面で、イーダ女史はそれに輪をかけた不機嫌な顔つきだ。正直空気が悪すぎる。間がもたないな、と思いはじめたところ、イーダ女史は真顔で血の臭いが変わっているといってきた。
「誓約をされたでしょう」
疑問でさえなく言いきりだった。
「龍の血が外にまで臭っておりましたから、もしやとは思ったのです。わたくしを案内された副官どのは青い顔をなさって引き返されましたよ、このままですむとお思いか」
前半は俺に、後半はクロドーニスへのようだ。口調が微妙にちがう。威圧的だ。それに気圧されちょっとのけぞる俺なんかにおかまいなしに挑むように男を見据え、女史は俺の腕をとった。固まった血糊のうえを女史が撫でるとぱらぱらと乾燥した血がはがれ落ちた。傷はもう跡形もない。
俺の横に未練がましくひっついている男からひっかかれた右手首の傷はほぼふさがっているようだ。女史がくる前に確認してある。
奇妙なことにもう痛みの片鱗さえ覚えず、300Mを一気に疾走したみたいなだるさが全身にあった。
「ああ」
女史がちいさく歎息した。
「やはり手遅れでしたのね。あとあと鏡をのぞかれるといい。それを隠すか隠さないのかはあなたしだいですが、その選択はあなたをこのうえなく縛るでしょう」
手当を終えた女史は俺の額をなぞる。示された場所に俺もふれた。指先にはなんの変化も感じとれないが、彼女はここに陰影が刻まれているといった。ことのほか深刻な顔で。
首をめぐらせ見あげた元凶の顔は薄闇のせいでよく見えない。
入口に目をやると外は暗く、遠くに篝火が見える。入室した女史の背後には黄昏が深まっていたのを思いだす。冬至を越えているとはいえ、まだ日は短い。天幕の内部も例外ではなく、俺はもうひとつふたつ灯りをつくるために火打ち石を取りだした。目測で目をつけていた油皿を引きよせようと身じろぎすると、「危ないですから」と女史が持参したカンテラを調節した。薄暗かった室内がいくぶん華やぐ。
鬱々とした顔つきの女史のくちぶりといい、ありえない治癒速度をみせた腕の傷といい、聞きたいことは山ほどあった。もう一度額に手をやって、この膚の上になにがされたんだろうとか、その印とやらはこの俺にどんな厄災を呼びこむんだろうとか考えれば考えるほど不安を増した。
だがたぶん元凶に聞いても答える気はないだろう。目があった相手はうっすらと笑んだが俺がなにかことばを発する前にすっと視線を逸らすのだ。
(この××野郎が)
ちょっと女の子には聞かされない罵倒を口中でだけすると、居住まいをただし女史に向き直った。
「女史、血の誓約ってなんです」
「ご存じなかったのですか」
気のせいかさっきほどよりは肩の痛みも治まっている。渡された上着を着こみ、叶うならクロドーニスから距離をとりたいと尻をあげた俺だったが、悲鳴のような女史の声に気をとられ、気づけば長い腕に巻き取られてまたもや腕のなかに逆もどり。ささやかな攻防に敗れ意気消沈の俺は意趣返しもふくめて肯いた。
「ちっとも」
イーダ女史の顔色がみるまに変わった。俺好みのやわらかい印象がたちまち強ばり、なんとも剣呑な気配が全身から噴きだしている。
「ゲルクトーニ、いいえ、イゴルの息子よ」
姿形からは不似合いなかすれた声が桜色のくちびるからもれだすやいなや、女史の印象はがらりと変わった。いまここに立っているのは食えない医者の助手をしている異種族の小娘なんかじゃない。なにかもっと大きく高い地位にある女だ。しゃんと伸びた背筋が侵しがたい威厳を発していた。
「これはゆゆしき問題です。血の誓約だけでも大事。ましてやそれをまったく知らぬ異種族に強要するということは、われら少数種への冒涜だと思うてよろしいか!」
一喝。しかしそれにひるむかわいげはクロドーニスにはないようだった。尊大に冷笑で返してきた。
「好きにすればいい、ツアンギークイの娘。僕は龍だ。おまえたちごとき黒獣が何匹束になってこようと不覚をとる僕ではない」
「その慢心が徒になることもありましょうな」
憎々しげに睨みあう二対の目。それに挟まれて内心脂汗だらりの俺。たのむ、解放してくれ。言えるものなら言いたかった。だがふたりのあいだに流れる緊迫感は、身じろぎひとつで破裂するぎりぎりのラインで踏みとどまっているようだった。
「小賢しい女だ」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
「その本性をあれの前にも見せてやったらどうだ、獣の女王。効果的な手駒が増えたとあれもたいそう喜ぶぞ」
「必要ありますまい。あのかたに、わたくしの力など不要なのです」
「いかな亜種とはいえあれもまた龍だ。おまえのきらう誓約を望むかもしれない。そのときおまえはどうする、期待を裏切ったあれをを捨てるのか?」
小馬鹿にしたクロドーニスのことばを女史は鼻白み、押しのけた。
「わたくしはツアンギークイの娘。そのわたくしを侮辱するということは、わたくしの種族全体への侮辱だということをお忘れか」
「好きにするがいい」 |