九階建てのマンション
久しぶりに旧市街を抜けて下町の青空市場が立ち並ぶ入り組んだ狭い路地をぶらぶらと散歩してみると、そこは以前の懐かしい風景とは随分と様変わりしていた。突き当たりにあるはずの錆びついた平たいプレハブ工場はなくなっていて、代わりに完成を間近に控えた新築マンションが建設されていた。
ピンと立てた人差し指を一階の窓枠に合わせると、重力に逆らう方向に、おれは窓枠の個数をゆっくりとかぞえ始める。
十一、一二、十三階建てか……。
新しいマンションを見かければ、いつも条件反射的にこうするのがおれの癖となっている。別にクリスチャンではないから、十三という数字に特別な感情を抱いているわけではない。かぞえた理由は、単にその建てものが九階建てでないことを確かめるためであって、それ以上にことさら理由などはなかった。
九階建てか……。
あの一件以来、おれは九階建ての建てものの中に入ったことはないし、今後二度と訪れるつもりもない。
わけはすこぶる単純。おれは九階建ての建てものが怖いのだ!
大の男がなさけないと思うなら、大いに笑ってもらって結構。ただ、これから語るおれの話を、まずは黙って聞いてもらいたい。笑うのはそれからでも遅くはなかろう。
おれの名は、劉 翔毅。
通称、何でも屋――しがない請負人だ。仕事ぶりはそつがないので、それなりに繁盛はしている。
とはいっても現実に頼まれる仕事は、退屈以外に何不自由のない金持ちご婦人たちからの、亭主の浮気調査がほとんど。こんなことなら、いっその事、探偵業とはっきり名乗ってしまえばよさそうに思われるが、そこはそこで、おれなりのプライドと断固としたこだわりとがある。
何でも屋というのは、単なる浮気調査にとどまらず、あらゆる困難に変幻自在に対処する極めて創造的な職種であり、才能がなければ決して務まりはしない、ということだ。
今回の依頼は、上海市内のとあるマンションの住民からであった。
地下鉄の常熟路駅四番出口から、異国情緒が漂う街並みを横目にしばらく歩くと、間もなく目的の場所は見つかった。そこは、喧騒な大都会居住区の一角で、すぐとなりには、某名門音楽大学の緑色豊かなキャンパスが広がっている。
真上にかかげられた『希望園高級公寓(マンション望み)』という錆びかけた銅の飾り板がしいてあげれば印象的な、高級とは名ばかりのどこにでもある平凡なマンションである。
見た目はそこそこに新しいのに、レモン色の漆喰が塗り込まれた建てものからは、どことなく異様な雰囲気が悶々と醸し出されていた。よく見てみれば、どのベランダにも洗濯物が干されておらず、どの窓にもカーテンがかかっていなかった。一瞬戸惑いはしたものの、これから入居者を募集する段階なのであろうと、おれは勝手にそう解釈しておいた。
ガラス張りの正面玄関には電子錠式の自動ドアがあり、部外者の侵入を強固に阻んでいる。外にある操作盤に部屋番号を打ち込んで、その部屋の住民から遠隔操作で開錠してもらわなければ、決して建てものの中に入ることができないシステムだ。
あらかじめ教えてもらった住所に間違いはなさそうなので、ためらうことなく『九〇九』と部屋番号を打ち込んでみた。すると、しばらくして拡声器を通して落ちついた女の声が流れてきた。
「はい、エンドウです――」
応答する相手がいてくれたことに、ひとまず安堵した。
「ご依頼を受けました、小菊花的公司の劉翔毅と申します」
「ああ、何でも屋さんですね。少々お待ちくださいませ。今お迎えにあがりますわ」
見知らぬ来訪者のためにわざわざ九階から降りてこられるのもしのびないから、おれは慌てて断った。
「いえいえ、そんなご足労はいりません。こちらから伺いますよ」
「そうですか。とても大変なのに……。
ご迷惑おかけして、本当にすみません」
拡声器からの声が途絶えると同時に、真向いの自動ドアがすっと開いた。それはさながら、獲物を待ち構えるハエトリソウの動きのようでもあった。
空っぽの守衛室の前を通り過ぎれば、容易にエレベーターは発見できたが、そばに近づいてみると、ランプが消えていて、『故障中』と書かれたはり紙が貼ってあった。
どうやら非常階段を歩いてのぼるしか手はなさそうだな……。
通路を突き当たりまで進んでいくと、黄色い鉄製の扉があった。そっと押してみると、非常用に設置された階段が姿を現した。中は真っ暗で採光窓はどこにもなかった。手探りでようやく見つけた照明スイッチを押してみたものの、蛍光灯は一向に点灯する気配がない。仕方なく、おれは鞄の奥から懐中電灯を取り出した。
閉ざされた通路はじめじめと湿っていて、空気は不気味な静寂に包まれていた。屋外のきれいなレモン色の外壁とは対照的に、ねずみ色をしたコンクリートの壁は、ところどころにひび割れが見られ、雨水がしみ込んだ痕が残っていた。ひどい個所はモルタルで目止めがなされている。
足元に気を配りながら、おれは一歩一歩階段をのぼっていった。さすがに九階ともなると骨が折れるが、それもまあ覚悟の内だ。
出だしはすこぶる順調だった。しかし、四階を過ぎたあたりで異変が起こった。鼓動がしだいに激しくなり、身体じゅうの毛穴から冷や汗がだくだくと湧き出してきた。
何か変だ……?
そう思ったのもつかの間――。突然、耳をつんざくキーンという高周波音がどこからともなく鳴り響いてきた。すると、平衡感覚がふっと抜け落ちて、視界がぐるぐるとまわり出した。両手をついてしゃがみ込んだおれを、生ぬるい空気が包み込んで、舐めまわすようにゆっくりと流れていった。
ぱつぱつぱつぱつ――
雨音? いや、そんなはずはない。たしかここは建てものの中だ。
しかし、冷たい雨がさっきから容赦なく打ちつけている。おれはその場から逃げ出したかったが、両脚が麻痺していて立ち上がることができない。しびれるような寒さに、意識はしだいに遠のいていった……。
どのくらいの時間が経過したのだろう。気が付けば、おれは非常階段の最上階手前の踊り場で四つんばいになってうずくまっていた。
ありったけの力を込めて目の前の黄色い鉄扉を押しのけ、渡り通路に転がり込むと、途端にあの嫌な耳鳴りがふっと消え失せ、身体が嘘のように軽くなった。びしょ濡れのはずだったスーツも、何ごともなかったかのように、すっかり乾いていた。
夢でもみていたのだろうか?
釈然とはしなかったが、おれはよろよろと立ち上がると、上着に付着したほこりを払い落した。
九階の一番奥にある九〇九号室の表札には、『S.Endo』と横文字が並んでいた。呼び鈴を押すと間もなくドアが開き、白いガーベラの飾られた玄関口に今回の依頼主がたたずんでいた。
「エンドウ サキ、と申します」
化粧っ気がないのか、唇はリップクリームを塗っただけのように見える。その代わりに、清潔感のある長い黒髪が、後ろで結わいてポニーテールになっていた。グレーの襟付きニットブラウスを羽織って、つま先まですっぽりと覆い隠すベージュのレギンスパンツを履いている。仕草はおどおどとしていて、表情はうつろだ。唯一印象的なのが赤い縁取り眼鏡という、いたって地味な感じのする若い女であった。
「はじめまして、劉翔毅です。エンドウ サキさんでしたね。変わったお名前ですが、中国人ですか?」
「いえ――、日本人です」
女は恥ずかしそうにうつむいたままで答えた。
「お仕事は?」
「ここの管理人です」
「管理人? お若いのにねえ」
と、おれは素直に本音を表した。「ところで、ご家族は?」
「今は、わたし一人です。ひと昔前に祖父が事業で成功いたしまして、不動産の一部を、たった一人の肉親であるわたしに、委託してくれたのです」
流暢な北京語で女は事情を説明した。家族は、彼女を除いて、誰もいなくなってしまったそうだが、詳しく訊ねるのも野暮なので、それ以上の追及はやめにしておいた。
「さっそくですが、ご依頼の内容を伺わせてください」
催促された瞬間、女はぴくりと小さな肩を震わせた。
「は、はい、何でも屋さんにお願いしたいお仕事はですね……」
ところどころ発言が途切れるのは、言葉が浮かばないわけではなく、控えめで用心深い彼女の性格のせいであろう。
「――このマンションの除霊です!」
一瞬、おれは我が耳を疑った。
「除霊? その……、浮かばれない霊魂を鎮めるという意味の、あの除霊のことですか?」
「はい、その通りです」
もちろん、そんな仕事いまだかつて頼まれたことがない。
「しかし、私は超能力者ではありませんから、除霊といわれましてもねえ。そういったことは、祈祷とか占いのお偉い先生に頼むほうがよろしくないですか?」
「つまり、何でも屋さんにこのお仕事はできない、ということなのでしょうか?」
さりげない一言ながらこれほど効果的な発言もそうはあるまい。こうまでいわれておめおめと引き下がることは、誇り高きおれにはできない選択だ。
「わかりましたよ! 専門外ですが、私なりに精一杯問題解決に努めてまいりましょう」
ふと気付けば、おれはこの妙ちきりんな依頼を承諾していた。
青茶を入れるサキの指先は優美な弧を描いていた。落ち着いて見れば、色白のきれいな肌をしたそれなりの美少女だ。眼鏡を外し、化粧さえ整えれば、テレビに出ていてもおかしくない……。
そうこう考えていると、サキがそろそろと近づいてきた。しとやかな歩き方はまるで氷の上を滑っているかのようで、無駄な上下動が一切なかった。彼女はなみなみと注がれた茶杯を静かに差し出した。
「そういえば、ここに上がって来る途中、誰にも会いませんでしたね」
身近な世間話からさりげなく切り出すことが、この業界の定石である。
「はい。わたし以外に、ここに住んでいる人はいませんよ」
「えっ、誰も住んでいない?」
「正確には、今は誰も、ということですが……」
彼女は大きなため息をふっと吐いた。
「一年前までは、ほとんどの家が埋まっておりましたの。でも、気味の悪い幽霊が出没するとのうわさが立ってしまい、それからというもの、徐々に住民は減っていって、つい先日、最後となったご夫婦が、申し訳ないですが、といい残して去っていかれました」
「そうですか。これだけの部屋数がありながら、全員が退去ね……」
予想外の不憫な現状に、おれは適当な言葉が浮かばなかった。
「だから、館内の電気はここを除いて止めてしまいましたわ。それにしても、何でも屋さん、よくおひとりでここまで来ることができましたね」
と、なぐさめる立場であるはずのおれが、逆にサキに褒められている。たしかに自分でもよく来たなとは思ったが、そのことを彼女の前で口に出すのはやめておこう。
「しかし、エレベーターが故障していて、こんな最上階にお住まいだと、何かとご苦労多くありませんか? どうせなら、もっと低い階にあるお部屋に住まれたほうが……」
的を射た忠告だと思ったが、意外にもサキはくすくすと笑い出した。
「何でも屋さんって、ときどきおかしなことをおっしゃいますのね。だって、九階ってとても安全じゃないですか? たとえ、大地震が起きてビルが崩壊したとしても、押しつぶされてしまう心配がありませんのよ――」
逆に火事になったら一番危険なのが最上階だと思われるが、ここはじっと堪えた。代わりに、おれは話の核心に踏み込むことにした。
「先ほど、ちらっと話にあった、このマンションに出没する幽霊って、いったいなんですか?」
唐突な質問に、サキはしばらく黙っていたが、やがて表情があきらめに変わっていった。
「やはり、何でも屋さんにお話ししないわけにはまいりませんね。かつてここで起こったあの忌まわしい出来事を……」
「もう、三年も昔のことになります。当時ここには、同じ九階建てですが、今よりもずっと立派なマンションが建っていました。もちろん、祖父の不動産です。
でも、建てものの老朽化が進み、入居者もまばらになってきたため、取り壊して新築ビルを建て直すことにしたのです」
「前のビルも九階建てですか?」
「はい。祖父は重陽の節句(九月九日の祝日)に生まれたこともあって、九という数字には人一倍執着しておりました。大切な取り引きは九が付く日に必ず行っていましたし、建てものの階数や部屋数は必ず九の倍数となるよう、常に気をつかっていました」
「九がお好きとね……」
おれは壁に飾ってある悪趣味な絵画にちらっと目を向けた。中央に伝説の九尾の妖狐が横たわり、臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前、の呪文を表す九つの文字がそのまわりを円形に取り囲んでいる。
「業者の方から、ビルの解体工事は、ダイナマイトで一気に爆破するほうが、費用が安く済むと勧められまして、祖父は迷わずそれを選択しました」
欧米では比較的よく行われている爆破解体も、我が国ではまだまだめずらしい。確かに屋上に持ち上げた重機で上から順番に解体していく従来の手法よりも、爆破で解体する方が乱暴だが手間はかからない気もする。しかし、技術的に問題はないのだろうか?
「爆破工事自体はとてもうまくいきましたのよ――」
おれのささやかなる不安などどこ吹く風で、サキの説明は続いた。
「当日には、ビルのまわりを防塵シートで取り囲んで、人々を退去させ、立ち入り禁止にしました。熟練した作業員の方々によって、綿密に計算された地点に適度な量のダイナマイトが、手際よく仕込まれていきます。爆破が行われる時刻には、解体の瞬間を一目見ようと、ちょっとした人だかりができました。間もなく、ロケット打ち上げのように、秒読みの声が響き渡り、爆破のスイッチが押されました。
爆破の直後は、それはドラマチックな光景でした。中央に縦のひびが入ったかと思うと、二つに割れた建てものが中央に狭まってぶつかり、上から順にドミノ倒しのように秩序正しく崩壊していきました。わずか数秒の間に、九階建てビルが、ものの見事に、跡形もなく解体されてしまったのです。聴衆からは、大きな歓声が沸きあがりました」
ここでサキは一息入れた。何かを確認するかのように少しの間をおいて、ふたたび彼女は語りだした。
「でも、恐ろしい悲劇がこの後に待っていました……。
解体工事から半時も経たないうちに、空の雲行きが急激に怪しくなって、雨が降り出してきました。雨は瞬く間にどしゃぶりになると、それから三日三晩、豪雨が降り続けました。
とりわけ急いだ工事でもなかったので、爆破によって生じた瓦礫の撤去作業は、その後一週間経ってから、ようやく再開されたのです。
そして、それはブルドーザーが撤去作業を行っている時のことでした。
ああ、何ということでしょう――。瓦礫の山の中から年老いた男性の遺体が出てきたのです!
遺体の主は近くにうろついていた浮浪者のひとりでした。おそらく、爆破工事が行われることを知らずに、うっかり現場に入り込んで、爆破に巻き込まれてしまったんだと思われます」
サキは口もとで両手を組みながら、何かを待ち望むようにじっとこちらを見つめている。おれは彼女を力づけようと、独り言のふりをして呟いた。
「それにしても、不注意極まりないですね。立ち入り禁止になっていたのだし、ビルが爆破されることがわからなかったのかなあ」
当事者にとってはなんともやりきれない事件なのだろうが、部外者にとってはくだらない日常茶飯事の些細な出来事に過ぎない。
突然、なにかを思い付いたかのように、サキが手を叩いた。
「ひょっとしたら、その男性は耳が不自由だったのかもしれません。立ち入り禁止の看板には気付かれても、まさか、ビルの爆破が行われるなんて、夢にも思わなかったのではないでしょうか?」
「なるほどね。耳が聞こえないから、爆薬を仕込む突貫工事がなされていても、事態に気づくことができなかったのか……。その可能性は大いにありますね――」
浮浪者が聴覚障害者だっただと? ばかばかしい……。一瞬、そうは思ったが、おれはサキに同意している素振りを継続した。
「――そして、その浮浪者の幽霊が怨みを晴らすためにマンションの住民を脅かしてた、ということですね。勝手に立ち入り禁止区域に侵入してきて、随分と迷惑千万な幽霊ですね」
うなづくふりをして、おれは茶杯の残りをぐっと飲み干した。すると、淡々と語っていたサキの細い肩が、がたがたと小刻みに震え出した。
「わたしが本当に怖かったのは、男性の遺体の損傷具合でした」
「遺体の損傷……、ですか?」
「はい。可哀そうに、その遺体は腰から下の部分が、降ってきた巨大コンクリートに押しつぶされて、その……、なくなっていたのです」
さすがのおれも、この瞬間だけはキリッと背筋を伸ばした。
「一方で、身体の上部は、偶然に生じたわずかな瓦礫のすき間に挟まって、無事に残っていました」
「それは不幸中の幸いでしたね。頭がつぶされるほど残酷なことはないですからねえ」
狼狽してつい出てしまったおれの不謹慎な発言に、サキは大真面目に反論してきた。
「そうでしょうか? いっそのこと、瞬時に全部つぶれたほうが、よっぽど救われます。だって、腰から下がなくても、人間は生きていられますから……」
口もとが心なしか緩んだようにも見えた。
「――そうです。その男性は、下肢を失っても生きていたのです。というよりも、死ねなかった、といったほうが正確でしょうか?」
ようやくおれはサキの主張の主旨を理解することができた。巨大岩盤が崩落して生き埋めになる事故は時折耳にするが、本人にしてみれば、一瞬の衝撃で死ねるほうがずっと幸せなのだ。
深海で事故を起こした潜水艦の乗務員にとって、艦内に侵入した海水で一気に溺死するのと、閉じ込められて徐々に薄くなる酸素に怯えながら死を待ち続けるのと、どちらがましであろう? そんなようなものだ。
「ああ、あの時、大雨にさえならなければよかったのです。そうなれば、誰かが事故に気付いて、男性の命だけは助けられたはずですわ!」
そういうと、サキは両手で顔を覆った。
彼女の話を聞いて、おれはおおよその状況を把握することができた。下肢を失った浮浪者は、身動きも取れない狭い隙間の中で、苦痛と絶望に苛まれながら、人知れず死んでいったのだ。確かに、そんな最期では浮かばれるはずなかろう。おれは、ここにたどり着くまでの非常階段でのあの体験を思い出した。あの時の異様な感覚は、正しくこの浮浪者の怨念によるものだったに違いない!
「事情はよくわかりました。二,三質問があります。まず、その浮浪者は、その後、どこかに埋葬しましたか?」
「もちろん、亡くなったご遺体は、丁重に供養して、市民公園にある無縁共同墓地に埋葬いたしましたけど」
「その……、上半身だけを?」
「えっ――、はい、その通りです。押しつぶされた身体は、誰もが怖がって取り出そうとはしませんでした。本当に、申し訳ないことをしてしまいましたわ」
下肢は放置されたままか、なるほどね……。ようやく、おれは問題解決のための手がかりを捕えることができた気がした。
「浮浪者の遺体が見つかった正確な位置を教えてください」
「それは、このマンションの地下ですけど」
「地下のどこだったでしょうか?」
「そういわれましても、もうどこなのか……」
サキの表情は困惑で曇っていった。
翌日になると、おれは一人で、マンションの地下にある駐車場に足を運んだ。そして、改めて確信を持った。間違いなく、ここにも異様な空気が悶々と漂っている。
「やれやれ、もうしばらく、我慢してくれよ」
と、いるのかどうかわからない霊魂に向かっておれはひとまずなぐさめの言葉をかけておいた。
こう見えて、おれはわりと信心深い性格であり、霊の存在は肯定的に考えている。断っておくが、霊媒師とか心霊研究家といった類の無責任な話を信用しているわけではない。神秘的なものを支配したいという、さもしい人間の欲望は理解できるが、そもそも、こちらの世界から意図的に接触できない存在であるからこそ、それを霊魂と呼んでいるわけだ。そんな霊を取り除こうとするならば、方法は科学的なアプローチしかない。かといって、大がかりな音声解析装置を所有しているわけでもなし。結局のところ、はたから見れば超常現象と罵られても仕方ない古風な手段に、頼らざるを得ない。
おれは大真面目に、長さのそろった二本の針金を、鞄の中から取り出した。L字型に折れ曲がっていて、短いほうには細いストローのようなプラスティック管が取り付けてあり、管を握っていても、L字針金は自由に回転できるようになっている。おれがこれからやろうとしていることは、ダウジングだ。わずかでも空間に歪みがあればそれを見つけ出す、極めて原始的な方法である。
そもそも、超能力として安易に片付けられているいくつかの諸現象も、それが実在しているものであるならば、必ず現代科学できちんと理由が説明できるはずなのだ。物理学によれば、あらゆるエネルギーの根源はたったの四種類に分類されている。その中の二つは近接作用と呼ばれていて、原子核レベルの限られた狭い範囲でしか発動しないものなので、必然的に我々が日常で感知する超常現象は、残った二つの遠距離相互作用のどちらかで説明されなければならないことになる。それが、重力と電磁力だ。
ところで、重力相互作用は、物体の重さに比例した力であるため、霊魂が発しているとはおおよそ考えられない。つまり、霊が発する未知の力が仮に実在するとすれば、その力は電磁相互作用であるはずだ。だとすれば、そこには電磁波が必ず発生しているわけであり、それを測定すれば必然的に霊魂を確認できることになる。
しかし、霊魂が発する電磁波は、おそらく非常に微量なもので、通常の電磁波測定器には引っかからない。そこで、共鳴原理に乗っ取って超微弱電磁波を感知するL字型針金の出番というわけである。
観測に際しては、背筋をピンと伸ばし、重力に対して垂直に立つ必要がある。三半規管を研ぎ澄まし、水平状態の維持に集中しながら、二本の針金の取っ手を軽く握って、ゆっくりと歩みを進める。こうして、わずかなエネルギーを針金が感知すれば、平行になっていた二本が両側に開いて、場所を教えてくれるというわけだ。
より集中力を高めるために、おれは耳栓を用意していた。
ご存じだろうか? 人間は聴覚を遮断すると、集中力が倍増するということを――。神経を集中する必要に迫られた時には、おれはいつもこの方法を用いている。嘘だと思うなら、一度、試してみるといい。
たっぷり四時間はかけて、地下の全ての場所について、ダウジングを隈なく行った。すると、明らかに他の場所とは異なったエネルギーを発する地点が浮かび上がった。何度試しても、ここを通る時だけは、針金が確実に開く。もう間違いはない。この地面の下には何かがあるはずだ。
おれは、携帯電話を取り出して、サキに連絡を入れた。
「劉さんですか? はい、そうですか……。おそらく、その場所は、かつて浮浪者が生き埋めになった場所じゃないかと思われます」
サキの声が、いつになく興奮気味に上擦っていた。
「地面を掘り返して確認してみたいのですが、許可はいただけますか?」
「それは、床を壊すという意味ですか?」
「そうです。床のコンクリートの一部を破壊します」
「もしも、何も出てこなかったら?」
「そうかもしれません。でも、かつての活気あるマンションを取り戻すのがお望みでしたら、やってみる価値はあると思います」
「そうですか。仕方ありませんね」
と、サキは渋々ながらも承諾をした。
なじみの業者に手配を済ませ、地下駐車場の床を壊したのは、それから四日後のことであった。床の表面を取り除くと、さらに古びた瓦礫が現れた。
「なんてこった。残った瓦礫も取り除かずに、新しいビルをおっ建てちまっている。こりゃ、ひどい、手抜き工事だな」と、作業員の一人がぼやく。おれは一番大きい塊を指差した。
「こいつを壊してくれないか」
「そんなのた易いさ」
というが早いか、作業員はコンクリートハンマーで瓦礫を粉砕した。
この後、作業員には報酬を支払って早々に引き取ってもらった。一人残ったおれは、注意深く地面を調べていく。
やはり、おれの予想は的中した! 地面の中から、人間の脚と思われる白骨が現れたのだ。
丸一日がかりの作業だったが、その成果は十分に満足できるものであった。形が残った人骨と、わずかでも欠片が含まれていそうな土砂をふるいにかけて抽出すると、おれは用意した納骨箱に丁寧に収納していった。その後、サキがいっていた市民公園の無縁墓地に行って、納骨箱を埋葬した。残念ながら、上半身の骨といっしょにまとめるまではできなかったが、少なくとも同じ墓地に納骨できたわけだし、きっと仏さんもいくらかは報われたことであろう。
おれは急いで、サキに報告をしようと、マンションに舞い戻ってきた。
しかし、何ということだろう?
さっきまでマンションがあった場所は、建てものが跡形もなく消失していて、辺りは瓦礫が散乱した更地と化していた。辺り一面伸び放題に生い茂った雑草が、放置されている土地の歳月の深さを物語っている。まるで狐につままれたような気持ちで、おれはたまたま近くを歩いていた小柄な男に声をかけてみた。
「すみませんが、ここにあったビルはどうなってしまったのですか?」
「はあ? にいさんも、おかしなこというねえ。ここは、ずっと空き地だけんど」
小ばかにするような口調で男が答えた。
「そんなはずは? ほら、九階建てのわりと新しいマンションがあったでしょう?」
男は面倒くさそうな顔で少し考え込むと、
「そういや、三年前までは黄色いビルが建っとったなあ。でも、解体工事の際にむごい事故が起きちまって、それ以来、この土地の買い取り手もいねえそうだ」
マンションは三年前に解体されている……?
「ひょっとして、その事故で浮浪者の老人が一人亡くなっていませんか?」
ここで人骨を掘り出してそれを埋葬したことは、疑いもない事実だ。すなわち、サキがいっていたビルの爆破事故は、ここで三年前に実際に起こっていたと推測できる。だとすれば……。
「いんや、違うな……」
男は、おれの質問に対してあっさり首を横に振ると、おれの顔を覗き込むように見つめてきた。その目は、ほこりまみれの薄汚れた顔からは想像がつかないほど透き通るように黒く澄んでいたが、同時に、これから罪人を裁きにかけようとしている閻羅王のように、慈しむようでいて意地が悪い目つきでもあった。
「あん時、死んだのは、じじいじゃねえ。たしか、ありゃ――、若え娘だった!」
更地の一角に、さびついた看板がポツリと放置されている。見覚えのある「希望園高級公寓」の文字が並んでいた。
希望か……。皮肉なものだな。
この不可思議な事件の後で、おれは、エンドウ サキの身元を調べてみた。思った通り、彼女は実在していて、三年前の爆破工事で事故死していた。この近辺に一人で暮らす日本人の留学生だったらしい。大人しくて優しい性格で、どちらかといえば一人でいることが好きだったそうだ。
それにしても、サキはなぜ解体工事に気付かなかったのだろう? おれはもう一度彼女の幽霊のありし姿を思い浮かべてみた。
あの時の彼女は、明らかに好みではなさそうなつま先まで覆うレギンスパンツを履いていた。ひょっとしたら、事故で失った両脚を隠したかったのかもしれない。しかし、その一方で、少なくともおれとの会話ではしっかりと応答することができていた。つまり、彼女の両耳は健在だったということになる。そして、おれが調べた限りでは、生前のエンドウ サキが聴覚障害者であったという情報はどこにもない。
はっ、まさか……。
おれは、再度あの場所に駆けつけると、狂ったように地面を掘り起こしてみた。
エンドウ サキは、近くの音楽大学に通う優秀な学生で、専攻は作曲だ。誰でもアイディアに行き詰まった時には、静かな場所で一人きりになって、じっくりと考えに耽りたくなるものだ。そんなサキにとって、いつでも自由に忍び込めたこのマンションの地下駐車場は、正に絶好の空間であったことだろう。
そこで、集中力を高めようと彼女がしていたことは……。
やはり、あったのか……。これじゃあ、浮かばれようもないわな。
思惑通りに、そこにあるべきものを見つけ出したおれは、あまりのやるせなさに思わず天を仰いだ。
暗くて冷たい土の中を、ひっそりと籠もるように埋もれていたのは、レモン色をしたウレタン製の、一対の耳栓であった。