羈絆/惑乱(7)
時に淡い潮騒を謡うように柔らかく、時に岸壁を削り穿つように荒々しく。石を放った池の液面に等しく揺らめいた反応が、そう遠くない位置から響いていた。
蓮の、そしてラミュロスのものでもない。数十分前まで蓮が歩いていた街の一角から届く、痛ましい力の慟哭は、
「すみ、れ……」
「ひひっ。手遅れだったなあ、絶対の」
痛快とでも言いたげな声に蓮は鋭く睨みを送った。ラミュロスは突けば崩れそうな体でなお、その炯眼を飄々と受け流している。
傷の具合から比べても優位を握っているのは蓮のはずだ。勝てる。戦闘を続行すれば確実に討てる、それだけの自負と確信が蓮にはある。
なのに、
……弄ばれているのは、こっちか。
「そら、はやく行ってやったらどうだ? 鳴いているぞ」
「つ……」
噛み締めた奥歯が口腔で軋みをあげる。
激昂に身を任せれば罠にはまる。さきの交戦でそれは理解はしていた。だから、挑発に躍らされないよう感情は噛み殺す。冷静になれ、と己に囁く。
腹に渦巻く粘着質な何かがこみ上げるのを蓮は必死にこらえた。険の色を眉間に滲ませはしても、手のひらが白くなるほど拳を握り固めたとしても、軽挙妄動へは至らない。
「…………」
「くくくく」
ぎこちなく、けれど思考は回りだす。
……どうすればいい。
すみれの対界想像は強弱そのものより発動が秩序を持たないことが問題だ。奔出を抑える蓋さえあれば、すぐさま彼女のもとへ向かえば、暴走を食い止めこれ以上の侵食も防げるだろう。すみれの抑止力に成りうるのは自分だと自覚はある。
一刻も早く駆け付けたい想いは確かにある。この好機を見過ごす代償がついてまわらなければ、必ず足は彼女を目指したはずだ。
でも、それでいいのか──?
濛々として意が固まらないのは、先を見据えているからこそだ。
叩き潰しておかなければ、いずれラミュロスはすみれを捜し出すだろう。すみれの存在をはっきりと認識する前ですら、『匂い』に惹かれたなどという理由で察知してしまうほどだ。
萌芽は摘める時に摘まねばならない。いつ懸念が爆ぜて脅威となるか、誰にも予測はつかないのだから。
だがこのまま、すみれを放っておいていいのか──?
対界想像の御し方すら彼女は知らない。蓮がラミュロスを屠るにしても、簡単に決着させてくれる相手ではない。その間に事態が急変すれば──取り返しはつかない。
……どうすれば、いい。
逡巡しているこの瞬間にも、探知感覚を伝い悲鳴は蓮を貫いてくる。動けなかった。易々と決められるものではない。
けれど、それでも、決めなければ、しなければ、ならない。
破壊の重奏は声音を高く。焦燥ばかりを募らせる。早急な判断を仰いでくる。
苦渋に身を固くする蓮に、ラミュロスは堪えきれないとばかりに語りかけた。
「なるほど、なるほどな」
嘲笑混じりの低い声。
「迷っているな貴様。向かうか否か。心が惑い乱れているのがありありと解る」
「黙れ……」
「つまり貴様は選択しているわけだ。そして選択肢に加えているということはつまり、ひひ、覚悟があるということだ」
唇にラミュロスは指を添える。
「貴様は危機にある我が主──いや少女を、見捨てることも有り得るというわけだな?」
「違うっ……!」
反射的に否定の怒号を張り上げた。
……見捨てるわけじゃない。
むしろ彼女を危険に曝したくないからこそ、彼女のこれからを守りたいからこそ、主の討滅を優先させる必要も有り得る。そういうことだ。
「お前に僕の意志を断言される筋合いはない……!」
「だが行為から汲み取れる事実と結果はどちらにせよ同じだろう。現に貴様は迷っているではないか? 彼女を放る選択が頭の隅に用意されていなければ、冷静に思考に浸る余裕もなく即座に駆けつけると思うが、なあ?」
「…………」
言葉を返さず、蓮は押し黙った。
嘲弄されている。それは分かる。時間を割くべきはこの無意味な会話ではない。どちらの状況を優先させるかの決断だ。
反応がないことに何を感じたのか、ラミュロスは急に口調を変更した。嘲りでもなく挑発でもなく、ただこちらを試すような類へだ。
向き合う距離も体勢もそのままに、ラミュロスは手を頭へ動かした。訝しむ蓮の視線を確認すると、その指先はフードをつまむ。
「ならば、教えておいてやる。そして、私は貴様を追わないと条件しておいてやろう」
その上で訊こうか、とフードを外していく。隠れていた顔が露わになった。歪んだような両眼。浅黒い皮膚と皺。老人のよう、という印象は後先で一緒だ。
だが、行為の意図が蓮には掴めない。
「我々と貴様らの最大の相違はな、我々は本能で対界想像を扱い、貴様らは修練で修めるところだ」
その程度は蓮も知識として知っている。それが何だと言うのか。
「そして“揺らぎ”は他の対界想像と決定的に違う性質をもっている。当事者にしか解せないだろうがな。──対界想像の元来の意味とはなんだ?」
「世界に対する、想像……」
「そうだ。根底である能力自体が揺らいで、霧のように曖昧なのだよ。泡沫の上に岩は積めぬ。同じことだ」
と、区切ると同時。ラミュロスが手を頬に当て、顔の左半分を覆い隠すように添えた。腕がわずかに力む。
そして、
「な……」
「持て余すほどの対界想像を孕んだ存在が、制御もなしに構成を維持できるはずもあるまいて」
風化したような皮膚に幾筋かの亀裂。幅も長さも深さもまばらだが、目的は同じところに向かっているようで、数秒の経過を待たずに予想は確定に書き換えられた。
分離。その様はジグソーのピースが欠け落ちるのに似て。ラミュロスが手を離したそのなかで、顔の肉片は音もなく剥離した。削げるのではなく溶けるように。輪郭がぼやけ、血肉が表面化し、なおもえぐれて頭蓋をさらす。
意味を悟った瞬間、蓮は無意識に動きだしていた。
人工の灯りの目映さがラミュロスは不得手だった。けれど、今は狩られる側だ。新たな対界想像能力者に所在を把握される前に、どこかへ逃れ身を隠さなければならない。
追っ手を軽くあしらえぬほどに、刻まれた傷は深い。
「三年ぶりの痛みだな……。二度目もまたあれが相手とは予想していなかったが」
腕は、骨を軸にかろうじて肉がこびりついている、といった有り様だ。“揺らぎ”で治癒力を高めたとして、完全な再生におよそ三日はかかるだろう。
遠く、自分が進路としていた方角を見やる。懐かしさを思わせる匂いは膨らみ続け、甘く鼻孔をくすぐってくる。青年の姿はとうに夜へと消えた。じきに着くだろう、少女のもとへ。
……癪といえば癪だな。
仮に青年が自分の討滅を優先させたとすれば、いずれは追い詰められた。
こちらが少女を感知してすぐに駆けつけたということは、青年は保護を任されていたのだろう。
それこそが弱味だ。そう判断し、少女が危機にあることを煽り、そちらに比重を促したことは、半ば自らの敗北を認めたようなもの。人間の能力者ごときに劣等を自覚させられるとは屈辱以外の何物でもない。
後を考慮すれば必要な行為でもあった、と別に理由があるのは唯一の救いか。
「精々自壊させぬよう、守ってやることだ。絶対の小僧」
収穫はいくつかあった。
自分の半身たる少女。その存在の把握だ。蘇った記憶にある通りならば、“あれ”はまさしく自分の欠片であり、餌だ。勝手に潰れてもらっては困る。
そして、過去に一度だけ負けを喫した青年との邂逅。居場所の判明もまた得たものと言える。本能的な思考──あるいは感情と呼ぶそれらの内、最も強い種類は憎悪と復讐心に違いない。
「意趣返しは果たさなければ、な」
眼光が鈍く光沢を湛え、静かに空を反射した。フードを被り直す。はためくローブと鋭利な寒さが、満身創痍の姿形を包んだ。
何より、と成果を思う。
「愉快なのは、“絶対”の対界想像に致命的な欠陥を発見したことか」
青を小さく黒い影がよぎる。
蓮だ。領域を限界にまで拡大させた蓮が全力で疾走していた。唇を噛み、表情には焦りの文字ばかりがあった。首もとでは風圧に揉まれたマフラーが激しく暴れている。
・《願いは速度を支配する》
「くそ……!」
がらんとした無人の街を蹴りつける。速く速く、と意識ばかりが前に行き、時おり脚が追い付けなくなった。それでも、蓮はひたすらに速さを願う。
……馬鹿だ。
愚か者という言葉さえ自分には生温い。あてがう言葉がどこにもないほど、自分は最低だ。
何を分かったつもりになっていたのだろう、と蓮は悔やむ。少しならばすみれを独りにしても大丈夫だなどと、どこに確証があった。三年ともに過ごして気付いていたはずだ。彼女の安定性は自分に依存していると。
なのに、どうして理解してやれなかった。事態がこう転ぶことを予測できなかった。
「ぐ……」
すみれへ接近するにつれ、重力が漸増している心地がした。数キロの距離が隔たってこれだ。中心部の被害など予想もつかない。
と、踏み込んだ一歩の真下、白い領域が展開されていた。重ねられたのは紫陽花の色。すみれが対界想像を振るった直後に、すぐさまフォローを働かせてくれたらしい。
一瞬の安堵。だが、緊迫した状況には変わりない。
……これもいつまで保つか。
肌で感じる。すみれの対界想像はラミュロスのそれを軽く凌いでいた。
三年も封じていた反動か、潜在的な力量か、どちらが原因かは不明だ。どちらにしてもはじき出される結論は同一。徹底的な破壊が存在する。
紫陽花が“=”で無効化を試みても、はたして効き目があるかどうか。ならば蓮が止める手が確実だ。
行け、と飛翔の勢いで距離を蝕む。直線で二キロを割り、なおも速度は上昇していた。人間には出しえない運動量に筋が骨が軋んで鳴いた。構う必要はない。より大きな悲鳴が、彼女から響いているのだから。
──少女を見捨てることも有り得るわけだな?
唐突にラミュロスの言葉が脳裏をちらついた。
「違う……」
一キロ、半キロ、三百メートル、二百メートル。二人を繋ぐ間を削る。願いが強さを増す度に、全身が爆ぜるような加速が生まれた。
推測で百メートルの圏内に突入する。押し返そうとする圧力をぶち破り、蓮はひたすら身を穿った。
……これがすみれの“揺らぎ”なのか。
視界は青と白の濃霧に満たされて、数歩先の景色さえ明瞭には視認できない。漂う粒子は、強制分解された蓮と紫陽花の領域だ。規模も威力も並みの対界想像では太刀打ちできない。
それほどに彼女は不確かな存在だったのか。彼女の世界は朧気だったのか。
崩壊した地表面はすり鉢状に変形していた。反応を再探索、直後に求める結果が表れた。
すり鉢状の頂点部分。そこに、すみれが待っている。
「すみれ……!」
瓦礫が足下でひしゃげた。駆け下りる最中、中心に人影を見つける。うずくまる小さな背は細かく震えていた。
「すみれ──!」
彼女は座っていた。壊れゆく街に取り囲まれ、祈りを捧げるように両手を胸に抱えて。
後は、無我夢中だった。
なぜ、寂しさを分かってやれなかったのだろう。かつて“絶対”を追っていた自分が。欠落の痛みを知るはずの自分が。彼女が“絶対”に大切なものだったはずの自分が。
「や──────あ──────────────────────────────────────────────」
自らも、聴いた者も、触れる一切を切り裂きそうな彼女の声音はもはや声とは呼べなかった。機械的な、自滅的な、躁狂的な単なる音階。
たどり着いた刹那、蓮はすみれを抱き締めた。腕の中の泣き顔は蓮を透かして星を仰ぎ、瞳は何も映していないように暗い。
呟くように、金切り声をあげるように、咆哮のように、抑揚も規律も全てを失ったように。すみれは泣いた。泣いていた。
「や、あ────────」
「すみれ、もう大丈夫だから……」
「れ、れん、れん────」
「僕は、僕はここにいるから。もう大丈夫だから、すみれ……」
両腕を引き絞る。強く、強くすみれを抱き締めた。泣き声は終わりを迎えない。
傲慢だと蓮は自身を罵った。僕がいるから大丈夫などと、咄嗟にしてもなぜそんな言葉が吐ける。
一緒にいるという約束さえ履行できない自分が。
「ごめん。──ごめん、すみれ」
「ひうっ、あ、んう、や、う──」
「ごめん、ごめん……」
散らばる瓦礫の上、二人はともに動けなかった。陽炎のような青と白の残像がほの暗い世界を照らしていく。
蓮はうつむき何も言えず、虚ろのなかに沈んでいた。 |