羈絆/惑乱(4)
それは一種の欣然と。一種の怨嗟と。一種の因果と。一種の帰結と。一種の当然で。一種の必然で。一種の淵源で。一種の終焉で。
あらゆる意味を。あらゆる意義を。あらゆる祈願を。あらゆる感情を。あらゆる自分を。包含するもので。
──何かが最奥で蠢き疼いた気がした。
瀑布がごとき勢いで奔出した領域が、辺りを掃討するように、何かを追い縋るように、地平までをも掩蔽し塗り潰す。
ビルが建ち並ぶ宙空全域に拡がるのはその余勢たる無数の光。あたかも青白の降雪が逆流したように、地から天へと踊る光だ。
その緩やかな流れを乱す動きが、その場に二つ存在していた。
一つは弾かれたように滑空していく老躯のラミュロスであり、残るもう一つは瞬の字を得て追う蓮だ。
「まさかね──」
驚嘆の意味での蓮の呟きは、くの字に躰を曲げたまま前を飛ぶラミュロスに向けてのもの。
だがそれは重複して、逢着への悦も含んでいる。
紫陽花の伝えで思案したのは、まさかとやはりの反する予想。だが事態と事実は後者に沿っていたようだ。
三年前のこと、三年間のこと、三年を通じて至る現在のこと。さらにはその先へと歩むこと。
すみれと自分のこと。
思い返し、そして思い描き、錯綜する感情が嵐のように生じては乱れる。
素直に浮かぶのは愉悦に悦楽。やらねばと思う使命感に、ようやく機会が訪れたことへの到達感。
……遭えるとは思ってなかった。
けれど遭えた。逢えた。
「つくづく運があるらしいな」
蹴り込む。蓮は足裏の空の次元を改変し、気勢を増すと共に速度も増していく。
思考を空っぽにするために、軽く頭を振る動作を加える。一度すべての想いを払拭すれば、一瞬だけ空白が残る。
そして。切り進む風の中、ゆっくりと思考を再開した。単純に零から湧いてくるのは、曖昧でない確かな胸臆に限られる。
冷たいという感覚と、ラミュロスに対する破壊衝動とに。
遭遇できたからには、導く結論は一つのみに絞られる。
決めていたことだ。三年もの間、気に掛けていたことでもある。
小さく口角を引き上げた。
その鋭い蓮の表情には、恍惚や狂喜に近しい雰囲気が漂っている。
戦闘に臨む男の姿。まさしくそれは、
「──」
“域神”としての彼だった。
轟音。砲声とも咆声とも変わらない、空間を揺るがすような音が響く。
出処はビル十階の中間高度から。ラミュロスが激突した位置からだ。
「──」
襤褸布に包まれた老人が頭から爪先までぶち込まれた。
硝子片は盛大に飛沫する。ラミュロスは埋もれた。全身が壁に溶け入るように、だ。
だが青白に染まる建造物は一人分の体積に当たる弾丸を受けてもなお、微動だにしなかった。
どころか、ラミュロスが叩き込まれた部位の他に亀裂すら拡がっていない。
つまりは打撃の威力が、ほぼ全て“主”に還元されたということ。
僥倖だ。一撃で決することはないにせよ、蓮に有利が巡る事になる。
なればこそ次に望むのは──
・《願いは速度を支配する》
追撃のための速度ただそれのみだ。
「つあ……」
発声は滲み出るように。臍下丹田に力を込め、蓮は下半身を突撃の構えへと移行させる。
そして二歩。一歩目は宙での位置を固定するために。追加の二歩目は前傾姿勢で、地面に対して斜めに踏み込んだ。
全てが十全に整えば、加速装置が稼動する。願いが速度を支配する理を用いて。願いを基に──速度という力を手に入れる。
……潰す。
その追撃の意と共に、漲り、放てば、
「──────」
足場として改変した空域が圧にたわみ、瞬間、紫電を帯びて爆散した。
炸裂するのは大音の快音。刹那にして蓮に込められた圧倒的な突貫速度が、軌道を揺るぎなく確定する。
鋭角飛翔。青白の街をただ一人駆け抜けた。
地上から高さにして三十メートル、直線距離に換算して五十メートルの標的へ向け、拳と共に身が行き着いた。
辿り着けばそれでいい。蓮は体勢に構うことなく、頭からぶつかるように、右腕にありったけの力を、渾身を蓄え、
・《渾身は一切を破砕する》
灰色のビルに穿たれた斑点のような、ラミュロスの体躯にねじ込んだ。
「つっ──」
最初に軋みの音をあげたのは、鉄筋の建造物だ。貫通ではなく、破砕。それはたとえ一箇所に対界想像を集約したものであっても、貫き抜けるように通じる力ではない。
点ではなく、面。全力をもって触れた対象の全体に働きかける。
ゆえに街並みを眼下にそびえ立つ高層のビルは、それが一本のゴムであるかのようにしなり、だが形を戻すことなく、
「つあああ……!」
破壊に侵食され、飛沫と化した。
それは徹底した、完膚なきまでの破砕一色。蓮の一発が起爆となり、それ自身が爆発物であったかのように、高層建造物一棟が瓦礫として横殴りに吹き抜けた。
当然、力場の起点にいたラミュロスなど見る影もない。だが蓮は障壁の消えた視界を前に、変わらず眼光を潜めない。
「はっ──」
強引に呼吸を整え、脳に酸素を送り込む。思考ではなく、働くのは直観の方。
……この程度で。
「……この程度で終わるはずがないよな」
「その通りだ虫螻」
即答はしゃがれた低い声だった。
その背後の声に、次元改変で造り上げた宙の地面に佇立する蓮は、待ちわびた時間を噛みしめるようにゆっくりと体を回す。
蓮の視界の左端から、徐々に中心へと移る姿がある。それは三年前と、あの日と、あの瞬間と寸分たりとも変わらない、汚濁を体現した容姿。
「“主”……」
「ふん。能力者か」
「…………」
蓮が見る限り、ラミュロスはほぼ無傷だと思える。残骸のような纏っている衣服の状態も、元々の様と同一だ。
あの程度の小競り合いで決着するとは毛頭予想してはおらず、そもそも三年越しの後始末が一瞬で済むことは蓮の側でも望んでいない。
だが、無傷という事実においては予想を外れていた。
固めていた右拳を緩め、蓮は体側に腕を並べておく。無論、戦意を表情に露わにしたままだ。
「初撃は“揺らぎ”で咄嗟に軽減、二撃目は虚像を造り身代わりに、といったところか」
「ご名答。よく調べているな虫螻」
嘲弄するように喝采し、ラミュロスが手を鳴らした。
「だが、歓迎はできぬな」
薄く、空気を裂くような声でラミュロスが言い放つ。すでに手を打つ動きは停まっていた。
「到達を前に足止めとは。やはり今回の世界も無粋だな。……いや、だがしかし」
「…………」
「くくっ。そうだな、それもいい。馳走を前に労苦をこなすのも、より一層、後の歓喜を引き立てるものではあるな」
そうラミュロスは結論すると、蓮を迎えるように腕を両横に開いた。眼に浮かんでいるのは優越と、そして軽蔑。
この上なく蓮の悪寒と憎悪を駆り立てる、そんな態度と表情だった。
「光栄に思え虫螻。余興に付き合ってやろうぞ」
「……そう、それは良かった」
見下したような口振り。目の当たりにする嫌悪の塊。溜め込んだ想い。相対しているこの状況。
いくつもの事柄に対して、蓮は苦笑混じりの笑みを隠し得なかった。
良かった。良かったと心の底から思う。何が、かは定かではないけれど。
いびつに顔を歪めた蓮は、そっと片足を後ろに引いた。靴を整えるようにつま先で宙を叩きつつ、静かに首もとへ両の手を運ぶ。
指先から伝わるのは、柔らかい毛糸の感触。御守り代わりに身につける白いマフラーを巻き直しながら、蓮は縫い手である彼女のことを沈思する。
……今だけは意味が違うかもな。
一度だけ握りしめる。
このマフラーの意味を確かめるように。この相手に対してだけは、御守りでなく、代役の証であることを再認識するように。
「……すみれ」
一呼吸。
「行ってくるから」
「ね、姉さん! すみれさんって蓮さんが保護してる人ですよね? その“主”ってことは確か“揺らぎ”の対界想像で、それってかなり危ないんじゃ……。増援を急いで送らなきゃまずいですよ」
すこぶる慌てた麻琴の言葉に、通話を終えたばかりの紫陽花は吐息した。
確かに紫陽花は山から一直線に駆け降りて、武器を脇に抱えたまますぐに蓮へ連絡を入れたのだから、事情を知らず蓮と共に話を聴く形になった麻琴は焦っても当然だろう。
だがどちらにせよ、紫陽花らに尽くせる手は他にはない。
「増援は無理よ」
「な、何でですか! 緊急っすよ緊急事態!」
「蓮の領域内だと、誰が行っても足手まといにしかならないから」
紫陽花の発言の意味を取りかねたのか、麻琴は茶髪の頭を両手で抱え、わかりやすい困惑顔を見せる。
……いや。
意味は理解できるのだろうが、おそらく理屈や理由が不明なのだろう。
紫陽花は左手、緋嶺を持たない方の手を差し向けた。
「麻琴、拳を握力全開で固めてみなさい。一分たりとも余さない本気の本気で」
「あ、はい」
素直に従った麻琴は胸元に右手を構えると、目一杯というように顔をしかめた。
「こ、これが何か?」
「《渾身は一切を貫く》。これは蓮が多用する創造法則の一つなんだけど」
言いながら紫陽花もまた左拳を握った。
「渾身、と口にするのは簡単だけどね。言葉以上に実際は難しいのよ。例えば私がこうして握力を込めても、数秒しない内にさらに込めることができたような感覚がある」
「あ。言われてみると、確かにそうです」
麻琴の同意見に頷きを一つ入れ、紫陽花は続けた。
「本来なら、全力を最初から出しているなら余力であるはずがない。つまりは意識とは別に、どこかで力が抜けているということよね」
「まあ、そうなりますね」
「結論からいうと、渾身なんてのは一瞬でしかないのよ。それを自在に扱えるのは“絶対”の対界想像を駆使する蓮本人にくらいのもの。相当な訓練を積まない限り、他人には無理な話ね」
「なるほど。だから増援は無意味なんですね」
そういうこと、と麻琴の判断を肯定した紫陽花は、道場屋敷に寝転んだ。
管理する皐らから借りた畳敷きの一室で仰向けになれば、木目が露出した天井が目に入る。
空ではなく、天井が。
あまりに特異な対界想像は、特に蓮のような領域型の場合、時として敵のみならず味方にとっても枷となる。
それに、増援を送らない理由はこれ一つに限られない。
「……それにね」
もう通じてはいない携帯電話を手繰り寄せ、紫陽花はそれを左へ放った。無言で受け取る麻琴が、やはり何も言わずこちらに視線を注いでいる。
“不変”の対界想像に関する制約により二桁睡眠を必要とする紫陽花は、微睡みに浸されながらも、微笑をつくりながらはっきりと言葉する。
増援が不必要である根本の理由は、紫陽花の単なる想いに帰結する。
小柄な体を横たえたまま目を細め、
「きっとあれは、蓮だけの任務だから」
天井を突き抜けたその向こう。部屋の内では分からないけれど、さきほどまで紫陽花が身を置いていた外の世界では、夜はじわりじわりと更けているのだろう。
それはきっと“絶対”の蓮だけではない。“支配”の陸人や、“破壊”の灯。彼ら彼女らにしか出来ない、彼ら彼女らだからこそ為すべきものが、少なからずあるはずだ。
……もちろん私にも、か。
幾多の思いを馳せながら、紫陽花はそっと目を閉じた。 |