メリークリサンセマム
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明人は気が重かった。
今日もまた、父に会わなければならないのか。
看護婦に案内され、父のいる病室の前へたどり着いた。明人は生暖かい廊下の空気を一口肺に入れ、ドアノブに手をかけた。
五十にもなって父が怖いというわけではない。
ただ、気が重いのだ。
明人は、未だ素直に父と話す自信がなかった。
会いたくなければ会わなくてもかまわないのである。父は隠居の身であり、クリスマスの全権限は明人にある。既に“過去の人”である父に許可などとらなくても明人の好きにすればよいのである。
しかし――そういうわけにもいかない。
形式上は明人がサンタクロースであるものの、父が生きている限り正式に祚を継ぐことはない。正式には今上サンタクロースは父、裕人なのである。
五人部屋の隅のベッドの上、裕人はぼんやりと窓の外を眺めていた。
他に患者が三人、一つは空きベッドであった。寝たきりの老人、六十過ぎの飴色の肌をした男。もう一人の老人は熱心に聖書を読んでいた。
明人は背もたれのないパイプ椅子に座り、裕人の顔を覗きこんだ。
彼の威厳あるひげは綺麗に剃り落とされ、髪も清潔に整えられている。薄水色の寝間着からはみ出した手足は昆虫のように細く、弛んだ皮膚に点滴の跡が痛々しく浮かんでいた。
「父さん、僕だよ。明人だよ」
眼球にぴったり張り付いた目蓋を弱々しく開閉しながら、ゆっくりと顔を落とした。
「また、来たのか」
消え入りそうな声だった。かつて日本中の子供たちに夢を与えていた頃の面影は残っていない。
――生き恥だ。いっそ死んでしまえばいいのに。
サンタクロースらしからぬ想いを奥歯で潰し、明人は懐から四つ折にした数枚の用紙をとり出した。
「今年も沢山来てますよ、子供達の切実な願いが」
明人はこの名義ばかりのボケ老人に当て付けるように、リストの一部を読み上げた。
「サンタさん、妹の病気を治して下さい。サンタさん、イジメをなくして下さい。サンタさん、両親を仲直りさせて下さい。サンタさん、ボクを――殺して下さい」
最後の願い事は、小学生の男の子からのものだ。まだ十歳である。明人も読みあげるのが辛かった。
聞いているのかいないのか、裕人は太ももに乗せた両手に目線を注いでいる。
子供達の悲痛な叫びをこの頑固で脆弱な老人に見せつけてやりたかった。
「父さん。いくら戦争が終わったからって不幸は無くならないんですよ。なぜ彼らの願いを叶えちゃいけないんですか」
それなら――と、裕人はリストの一つを指差しながら言った。
「お前はこの子を殺すのか」
「違いますよ。彼の言葉にできぬ想いを読み取ろうとしたっていいじゃないですか。彼の本当の望み、本当の願いを叶えてやるんですよ」
裕人はため息と共に一言――下らない、と漏らした。
つき出した禿げ頭をひっ叩いてやりたくなった。
「何故なんです。彼らは私を、いえ、サンタクロースを待っているんですよ。子供達に夢を与えるのが我々サンタクロースの役目でしょう」
「夢は、人に貰うもんじゃあないだろう」
「何をきれい事言ってるんですか。彼らにはどうすることも出来ないんですよ。父さんには彼らの痛みがわからないんですか」
「俺には、わからんな」
本当にボケてしまったのだろうか。いくら衰弱したとはいえ、かつてのサンタの言葉とは思えなかった。
「そりゃわかんねぇわな」
隣のベッドから飴色の肌の男が割って入ってきた。
「いくらサンタったって、ただの人間だかんな。なあ裕さん」
ああと裕人は小さく頷き、独り言のように呟いた。
「俺らはただの――オモチャの配達人だ。お前には、自覚がたらん」
関係のない男までもが裕人の肩をもち、二人に責め立てられたことに耐えられなかった。
「それこそ下らないことじゃないですか。本当に奇跡を必要としている絶望した子供たちを無視して、裕福な家庭へプレゼントを届けろっていうんですか」
「サンタクロースは、平等が基本だ」
「だったら彼らの望みを叶えるべきでしょう。なぜ認めてくれないんですか」
明人は立ち上がり、リストを握り締めた。用紙が手の汗でじっとりと滲んだ。
まあまあ、と飴色の男が明人の肩を叩いた。男の息が顔にかかり、気持ちが悪い。
「親子喧嘩はこのへんで。明仁さんつったかな」
「明人です」
「どっちでもいいや。一服お付き合いしやせんか。裕さん、ご子息お借りしやすよ」
飴色の男、小島は強引に明人を退室させた。
結局今日も説得出来なかった。頑固な老人相手の空虚な議論に疲れ、明人は冷静さを見失った自身の精神にようやく気付いた。
「……神様気取りか」
奥で聖書を読んでいた老人がこちらを見ずに呟いた。
明人は諦めるように病室のドアをゆっくりと閉めた。
廊下の中程に小さな喫煙スペースはあった。窓からは師走の風になびく木々が見える。
二人は灰皿を前に、長椅子に並んで座った。小島の密着する太ももに不快さを感じながらも、明人は火をつけてやった。
「まあ、よくわかんねえけど大変そうだね。サンタってのも」
「子供達のためですから。それに、ご病気の方に心配していただくほどでは」
明人の言葉に、小島はゲラゲラと顔を歪ませた。どす黒い悪意のこもった笑みに見えた。
「ご病気ったってオレのは自業自得だ。それよりあんた。もっと気楽にやったほうがいいんじゃないの? そんな調子じゃ、そのうち痛い目みるよ」
「いえ。僕にはサンタクロースとしての責任があります。未来ある子供達には、なんとしても幸せになって欲しいんです。彼らにはその権利があります。それを父はわかってないんです」
「わかってないのはあんただよ、明仁さん」
「明人です」
小島は大きく煙を吐き、まるで自分のことのように言った。
「裕さんはね、あんたを心配してんだ。自分と同じ過ちを犯しちまいそうで怖いんだよ」
――過ち。
明人に思い当たるふしはなかった。裕人は元々口数は少なく、また自身のこととなると家族にさえ滅多に語らなかった。家族だからこそ語りたくなかったのかもしれない。
「あの、何のことですか。父は何かしたんですか」
「あんた何も聞いてないんかい。まあ裕さんの性格じゃあしゃあないわな」
小島はまだ長いタバコを揉み消し、思案する素振りのまま口を開いた。
「例えばさ、子供達からこう、手紙が届くわな。こんなプレゼントを下さいっていう手紙が。あんたは希望通りの物をプレゼントするのかい?」
「まあ物にもよりますが……欲しい理由が正当なら」
「じゃあその理由ってのが“自分の夢のため”だったらどうだい? 正当かい?」
「もちろんですよ。夢を叶える手助けになるなら、喜んでプレゼントします」
「じゃあ“家族のため”ならどうだ?」
「当然プレゼントしますよ。家族愛、素晴らしいじゃないですか」
「なら、“命のため”だったらどうする」
「ええ、まあ。プレゼントしますけど」
だろうな――と小島は遮るようにため息をついた。
「昔は裕さんも、あんたと同じ考えだった。子供達の夢や、家族や、命のためなら、与えるべきだと。そんでプレゼントしちまったんだな。――人殺しの道具を」
小島は二本目のタバコをくわえ、窓の外、冬の静かな景色を眺めた。
「まあ当時は戦時下だからな。しゃあないことなんだけど――それでも裕さんは後悔してんじゃねえか。プレゼントのお蔭で助かった者もいれば、プレゼントのせいで死んだ者もいるわけだよ。サンタクロースは人々の生活にまで干渉すべきじゃねえんだろうよ」
まオレにゃ関係ないことだが、と小島は照れるように笑った。
明人は何も言えなかった。二人の間にはすきま風の共鳴音だけが流れていた。
まだ煮え切れぬ想いでいる明人の前に、小島はタバコをつき出して言った。
「火ぃ貸してくれねえかな」
明人はライターを渡した。
小島はさっきからくわえたままのタバコに火をつけ、大袈裟に煙を吸った。
「ありがとよ、サンタさん」
*
明人は結局、裕人の主張に沿う形でのサンタ公務を行わざるを得なかった。
病気の子を無視し、
いじめに苦しむ子を放置し、
十歳の自殺志願者さえ見て見ぬふりした。
――本当にこれでよかったのだろうか。
聖なる夜の透き通る空を駆け巡りながらも、明人は納得しきれずにいた。
子供達の幸せな寝顔を見るたび、やりきれない想いが疑問符と共に溢れ出る。予定調和な幸せしか振り撒くことが出来ない事への憤りと病院での小島の話が胃の中で滞留し続ける。
赤い衣装の下、季節外れの脂汗が全身を覆っていた。
深夜の“オモチャの配達”を終えた翌25日。
明人の元に全国から大量の手紙が集まった。
その半数は感謝の手紙であり、文面からも子供達の笑顔が伺えるほど明るい内容とカラフルなイラストで彩られている。
そしてもう半数は、絶望と拒絶を示す怨みの手紙であった。
『サンタなんて本当はいないんですね』
『どうして願いをかなえてくれなかったの』
『もうあなたにはたのみません』
子供達からの本音を浴び、明人は苦唾を飲みながらの晦日を過ごした。
清き銀世界と共に新たな年、己巳が幕を開けてすぐ。火葬場の煙突から黒い煙が上がった。
サンタクロース裕人の死は、あまりに呆気ないものであった。
――死んでしまえば皆同じ。
まるでサンタクロースという存在の卑小さを通告するように、煙が空に溶け込んでいた。