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第三十九話:「鏡」



 日本とは違う氷の感触。足を踏み出す度にそれが感じられる。

『チトセ、ここの氷はどうだい? やっぱり、日本の方がよかったかな?』

 恐ろしく整った顔が、私に問い掛ける。金髪碧眼の、正に童話の中の王子のような美しさを持つ男。

『……すぐに慣れます』

『普通はちょっと時間が掛かるんだけど……チトセなら不可能じゃないね』

 アハハ、と困ったように――それでいて、悲しそうに笑う。理由はわかっている。私が必要以上に口を開かず、笑おうとしないから。

『さ、帰ろうか。由里ユウリ里香リカ理恵リエが、君の帰りを待ってるよ』

『……はい』

 私はそれを知っていて、知らない振りをする。





○○○





 リビングに続く扉を開ける。

『チトセ、お帰り』

『チトセ、遊んで!』

 ソファーに座りながら私に声を掛けるのは里香。勢いよく私に飛びついてくるのは由里。
実の父であるサミュエルは、娘に全力で無視されて、部屋の隅でいじけていた。その様子は私の父を思い出させた。
 そうしてその間にも、私は圧迫死寸前にまで陥っていた。苦しい。

『……ただいま』

『チトセ、ただいまのチューがないよ!』

『……ん』

 由里の頬に口付ける。由里はスキンシップ過剰だ。里香はしないと言うのに。

 私は如何いかんせん、この双子に弱い。それは里香の子供とは思えぬ知識と由里の怪力の所為でもある。里香に何かを言えば、私が言い負かされる可能性があるし、由里とは漏れなく圧迫死だ。

 子供版の美波と成子、と考えて貰えれば解りやすいだろう。見分け方は実に簡単。金髪碧眼が里香で、黒髪黒眼が由里。幼きバイリンガルだ。日本語も、英語も話せる。

『チトセ、今日は遅かったわね』

 里香が手に持つ本から目を離す。

『……そうか』

『そうよ』

『……それが、どうかした?』

『いえ、別に』

 里香はそう言って、手に持つ洋書に目を戻す。そのタイトルを見て驚愕。

『……ドストエフスキーの罪と罰?』

『ええ、そうよ?』

『……私の鞄から?』

『人聞きの悪いこと言わないでよ。ちょっと借りただけ。勝手に持ち出したのは悪いと思ってるけど』

 ドストエフスキーの“罪と罰”は、私が暇な時間に読もうとして持ってきた本だった。しかしそれは原文――つまり、ロシア語だ。

『別に持ち出したのは怒ってない。……ロシア語、解るのか?』

『単語だけよ。でも大体の流れは解るわ』

 ……末恐ろしい奴。小学三年生でロシア語が理解出来るのか。まあ、つい最近出来るようになった私が言うのもおかしいか。

『それよりも、チトセはロシア語解るの?』

里香は本から目を離さず、私に問い掛ける。

『……一応、な。五カ国語は出来るように特訓した』

『……ふうん』

 パラパラとめくられていくページ。
 一体、里香は何が言いたかったのだろう。首を傾げてると、リビングの奥から女性がやって来た。サミュエルの妻である。その美女は私に抱き付いたままの由里と、本から目を離さない里香を見て笑った。

『ワガママな娘たちでごめんね。でも二人とも、チトセが大好きなの。許してあげてね』

『……』

 頷くと、理恵さんは、ありがとう、と言って私の頭を撫でた。

『チトセ好きー!』

『ママっ! 何言ってんのよ!』

 理恵さんはまた笑う。どうでもいいが、サミュエルはまだいじけていた。





○○○





 夕飯を食べ、風呂に入った後は怪物双子と一緒にテレビを見ていた。

『チトセ、寝る前にこれ読んで』

 そう言って里香が差し出してきたのは先程の原文・罪と罰。

 ――さっき里香が言いたかったのはこれか。澄み切ったあおい双眼を見てると、里香が睨んできたので咳払いで誤魔化した。

『……解った』

 頷いてそう言うと、里香は笑った。こうして笑っていると、年相応の可愛さがある。――私のような無表情ではその美貌も損だろう。
 なんてことを思って、自嘲わらった。それは、本来私のことを指しているのだろう。里香と私は、同類なのかもしれない。……いや、まだ笑えるだけ、里香はマシだろう。それに、けがれた私と里香を同じカテゴリーにするのは間違っている。

『チトセー、今日一緒に寝よー』

 そう言いながら腕を掴む由里。無邪気な笑顔を見ていると、何故か心が痛くなる。

 痛い。痛い。痛い。イタイ―――ボキボキボキッ。不吉な音を立てる私の腕。……痛い。折る気か、お前。

『リカも一緒に寝たいよね?』

『……好きにすれば』

 ニコニコ笑いながら言う由里。そして無表情でこちらを見る里香。

 ――あ。
 こうして見ていると、心の痛みの原因が解った。解ってしまった。

 この二人は、私の鏡。由里と里香。笑顔と無表情。過去むかしの私と、現在いまの私。だから、胸が、心が、痛くなる。


「……愚かだな、私は」

「あ、千歳、ダメだよー。アメリカ(ここ)では英語で話すって、決めてたのにー」

「……別に、いいんじゃない?」

 ――里香は、解っているのだろう。私が何を思っているのか。何を考えているのか。本当に、聡い子だ。だから、人の痛みが解ってしまう。また私は、心の中で自嘲わらった。

『……部屋に戻るから、寝る時に呼んで』

『うん! 一緒に寝よー!』

『……』

 由里の笑顔から、逃げるように。里香の視線から、目を背けて。私はリビングを去った。




 明日、太陽のような少女に会うとも知らずに―――






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