銀縁の、シンプルなフレームが、彼の輪郭に収まると、冷たい印象を与える。
どうしてなんだろう。まるで、その眼鏡の中で伏せられた、切れ長の瞳は、薄いレンズという膜で、守られているようにさえ見えた。
「富永、次、二十三ページから」
必要最小限の言葉で指示されて、あたしは飛び上がるような気持ちを抑えて、なんとか冷静を装って立ち上がる。
そして始まるのは、授業という退屈で、変化のない、毎日の光景。
それでも、あたしにとっては、唯一の、貴重な時間――彼を堂々と見つめられる、甘くて、苦い時間だった。
卒業を間近に、まだ授業以外で話をしたこともないけれど、こうして見つめている間だけは、彼があたしのものだと、夢見ることができる。
あたしと、彼を阻む壁は、果てしなく高くて――きっと、この先越えられることはないだろうと、そう思っていた。
それで、満足していると、思っていたのだ。でも、自分が思っているよりも、あたしがもっと欲張りで、罪深い生き物だということを、知る時が来るのだった。
奇跡――そんな単語が頭に浮かんだ。同時に湧き上がってくるのは、奇妙な恐れ。
「で、俺に何をしてほしいわけ?」
目の前で、眼鏡越しに見つめられて、そんな台詞を吐かれているだなんて。信じられなかった。
それよりも信じられないのは、さっき自分が言った、ドラマ顔負けの台詞。
『バレたら、大変ですよ』
まさかあたしがそんな脅しめいたことをするなんて。思いもしなかったというのに、心とは裏腹に、滑り出た、言葉。
『北原先生と、そんな関係だなんて、知らなかったなぁ』
そう続けたあたしを、明らかに睨んできたのは、いつも教壇という邪魔な空間越しにしか、近づけなかった、遠い人物。
恋しくて、夢にまで見るほど、恋しくて――その想いを告げる勇気すらなかったあたしが、今、何をしようというのか。
自分にもわからないあたしの本音を、覗き込もうとでもするかのように、彼が見つめてくる。
「そんな関係って、どんな関係だろうなぁ。別に、何も噂になるようなことは、してないつもりだけど」
意地悪な瞳でそう呟く彼は、授業中の冷たい彼とは別人のようだった。『教師』という仮面を脱いだら、彼はこんな顔をしていたのだろうか。
「でっ、でも――昼休みの準備室で、ネクタイゆるめて、首元に……その、そんなものがつくような関係って、堂々と人に言える関係ですか?」
とても口に出しては言えなくて、あたしは彼の首元にはっきりとついた、赤い痣を遠慮がちに指差した。
「きっ、北原先生だって、あたしに見られて、あわてて立ち去って――十分に怪しいですよ!」
提出し忘れた授業のプリントを渡す、というあたしの名目は見事に崩れ去って、代わりにやっているのは、こんな情けない、脅迫。
顔が赤くなっているのが、自分でもわかる。全然、脅しにもなってない。
それでも後に引けなくて、あたしは必死で彼を睨みつけた。
「ふうん。そんなことはどんな風にでも、言い訳ができることだけどね――まあ、いいや。大人しいと思ってた君が、そこまで言うんだ。
聞いてみてもいいよ。それで、俺にどうしてほしいの?」
最初の質問に戻って、彼はさらりと訊ねた。昼休みはあと少し――もうすぐ、授業に戻らなければいけない。
そんな理性は、息が感じられるほど近くで、見つめられたことで、消えてしまった。
「キスしてください――」
自分の言葉に、自分で驚いた。取り返しのつかないことを、口にしている。そうわかっているのに、目の前で見開かれた、彼の瞳があまりに綺麗で――惹きつけられたまま、目を逸らすこともできなかった。
心臓が爆発しそうに脈打っている。きっと、あたしは真っ赤な顔をしている。震えそうになる足を、あたしは必死で床につなぎとめた。
驚きが通り過ぎたあとの、彼の瞳は、またいつもの表情を取り戻していた。いや、いつもの冷静さとは違う、挑発的ともいえるような、余裕にあふれた瞳。
「いいよ」
皮肉げにすら見える、甘い微笑みでそう返されて、あたしは目眩に襲われた。
今、何て、何て言ったの――? 混乱と、戸惑いと、緊張と、色々な思いがあたしの全身を駆け巡る。
そんなに簡単に、了承しちゃっていいの? 自分のとんでもない申し出はすっかり棚に上げて、あたしはパニックに陥っていた。
だって、まさか、そんな答えが返ってくるなんて、思いもしなかったから――。
声も出せないでいるあたしをよそに、彼はさっさと立ち上がり、準備室の唯一の窓に備え付けられたカーテンを引いている。
「あ、あの……」
埃っぽい空気が動いて、あたしは呪縛から醒めたように、ようやく声を出した。
「一応、人目があるからね。君だって、噂にでもなったら困るだろう?」
何でもないことのように、そう言って、教材などが並べられた机を通り過ぎ、彼はあたしの目の前に立った。
「どういうキスがお望みかな? リクエストによっては、お応えできるかわからないけどね」
冗談めかしたように、あたしを見るその瞳は――どうしようもなく魅力的で、あたしなんかの手に負える相手じゃないことは、すぐにわかる。
いや、ずっと前からわかってたのかもしれない。だからこそ、無機質なその眼鏡で隠された、彼のこんな表情が、ずっとあたしは見たかったのだ。
矛盾した自分の気持ちをなんとか隠して、あたしは覚悟を決めた。
そう、これはあたしの最初で最後のチャンス――絶対に、逃してたまるものか。
「あなたが、いつも恋人にしているように――いいえ、今までしたことがないような、そんなキスを」
瞳を閉じて、あたしは言い切った。彼の余裕を、少しでも崩せればいい。一瞬だけでいいから、本気の彼を、見せてほしかった。
再び開いた瞳に映るのは、彼の見たことがない、顔。大人の男の、どきどきするような、瞳。
「――わかった。後悔、するなよ?」
カチャリ、と彼が外した眼鏡が、そばの机に置かれた音が聞こえた。
初めて見る、レンズ越しじゃない、彼の瞳。不思議なほどに優しくて、少し熱いようにも見えた。
頷いたあたしの頬に触れた、彼の手――大きくて、温かな手の平にそっと導かれる。
昼間だというのに、少し薄暗い準備室。その空間が、二人だけの密室に変わった。
キスというものさえ、したことがないあたしにとって、未知の経験――それは少し怖くて、それ以上に甘い、逆らえない誘惑だった。
唇が触れ合った途端、息苦しいほどに、彼があたしを抱きしめた。
「ん……っ」
今までの余裕が嘘のように、激しくて、熱い、彼のキス。唇から、全てを奪い取ろうとでもするかのように、舌を絡ませ、何度も角度と深さを変えて、あたしを侵略する。合間に聞こえる、彼の吐息は、まるでこの瞬間を待っていたかのような、熱を帯びたもので――。
目眩と、痺れのような、甘い感覚が、あたしをすっかり骨抜きにした。
永遠のように続くかと思われた、秘密の行為は、夢うつつのうちに、終わった。
そして、囁かれた言葉に、あたしはその一瞬が、夢でないことを知るのだ。
「まったく――卒業まで、なんとか耐えようとしてたのに」
人の気遣いを、無駄にしやがって、と。確かに彼はそう呟いた。
お前が誘惑するから、悪いんだぞ――囁きは、確かにあたしの耳に届く。
それでもその瞳は、どこか嬉しそうなもので――あたしは、今度こそ、何が起こっているのか、理解できずに、限界寸前の意識を、手放しかけるのだった。
それから始まった、あたしと彼の内緒の関係は、この時のキスよりも、もっと口に出しては言えない状況になっていて――。
卒業を控えたあたしは、もう内心どきどきだ。
そんなあたしの心なんて、露知らずというべきか、知っていて苛めているというか、彼がひどく、意地悪な奴だということを、あたしは思い知った。
授業中でも、休み時間でも、目が合ったら送られる――意味ありげな、視線。
周囲に気づかれないかとヒヤヒヤするあたしを横目に、あっさりとまた、『教師』の仮面を被る彼。
そして、今日もまた、眼鏡で隠された、彼の瞳に怯える一日が始まるのだ。
信じられないぐらい、幸せな一日が。
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