ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
第6章
第6章≪酷愛の天使≫・11


「何してるの?」
 ティーカップが二つ乗ったトレイを両手で持った萌は、客間の前で小さく首を傾げた。
 ドアの前に、恋人である章太郎が立っている。今この客間には、紗月姫と久我山が居るはずだ。萌は客間の二人に紅茶を運んできたのだから。
 章太郎はお付きとして紗月姫に付いていたはずなのに、中に入っていなくても良いのだろうか? それを萌は不思議に思ったのだ。
「ちょっと出ていてくれ、って言われてね。追い出されたのさ」
「中に違うお付きの人は居るの?」
 神藤以外のお付きは、大体二人一組で紗月姫に付いている。章太郎だけがドアの前に居るので、もう一人は中に居るのかと思ったのだ。

「いいや。来客らしくてね。そっちの迎えに出ているよ。お茶なら少し待て。お嬢様が『入って良い』 と声をおかけになるまで」
「うん……、でも、いいの? 男の人と二人きりになんてして。本当はダメなんでしょう?」
「お嬢様の言いつけなんだ。しょうがないさ」
 本当は章太郎も迷っているのだろう。少々イラついている様子が、彼の表情から見て取れた。
 そんな彼を見て、萌がポツリと呟く。

「神藤さんは……、絶対にお嬢様を一人になんてしないよね……」

 彼女の呟きに、もちろん章太郎も反応した。
 萌はこの春に辻川邸に入ったばかりだ。つい最近からの二人しか知らないが、章太郎は神藤がこの屋敷へ来た時からの付き合いだ。
 その頃から、ずっと二人を見ている。
 何か特別な雰囲気を持つ二人を、応援したくても出来ない。そんな苦しい立場でもあるのだ。


 その時、客間のドアが開いた。中から出てきたのは久我山だ。 
「久我山様。お嬢様は……」
 章太郎が慌てて声を掛けると、久我山は相変わらず彼に卑下した目を向ける。「お付き風情が」 目がそう語っている気がして、章太郎は不快に表情が歪みそうになるが、そこは彼とて神藤と同じく十八年間紗月姫のお付きを務めている人間だ。
 何も感じては居ないフリをして、無表情を装った。

「もう入っても良いよ。僕は失礼する」
 そう言うと紅茶を用意してきた萌に近づき、彼女が手にしているトレイからカップを一つ無造作に取り上げると、一気にあおり、カップが割れてしまうのではないかというくらいの勢いでソーサーへ戻した。
「しかめっ面のメイドが運んできたお茶なんて、飲めたものじゃないな! そんな顔ばかりしていたら、クビにするよ?」
 客間から出てきた時の久我山が、あまりにも嫌な雰囲気を漂わせて章太郎を睨み付けたので、萌は気付かないうちに不快な顔をしてしまっていたのだろう。
 ハッとして表情を直そうとするが、その時はもう久我山は踵を返して廊下を歩き出していた。

 本当ならば久我山の見送りをしなければならないところだが、二人ともそれどころではない。何よりも紗月姫が心配だ。
 客間の中に飛び込んだ章太郎に続いて、萌も中へ入った。
「お嬢様?!」
 ソファに座って首をうな垂れている紗月姫の元へ駆け寄り、目の前で膝をついた章太郎は、彼女が何かに怯えた表情で顔を上げたのを見て、驚きに胸が詰まった。
 紗月姫のこんな顔は、初めて見る。
 何かに怯え、泣き出してしまいそうな表情だ。
 
 しかし紗月姫は懸命に笑顔を作り、章太郎と、彼の後ろでトレイを持ち立ち竦む萌を気遣った。
「有難う……水野。……大丈夫よ。……萌さん、お紅茶、頂くわ……」
 萌は驚いた。まさか紗月姫が自分の名前を知っているとは思わなかったのだ。
 しかしもっと驚いたのは、章太郎と同じ理由。紗月姫が何かに怯えるように身体を縮め、声を震わせている事だ。

 実際、紗月姫は怯えていた。
 久我山の、あまりにも酷い人間性に、おぞましささえ感じた。
 今まで人間の醜い部分など、いくらでも見てきたはずなのに。
 しかし彼は、最初〝良い人間〟として紗月姫の中で位置づけられていた。それだけに、あのあまりにも冷酷で醜悪な変貌振りは、紗月姫にとって脅威だったのだ。
 不安で堪らない。辛くて堪らない。しかし、それを癒してくれる人は、今の紗月姫には居ない。

 萌が置いた紅茶を、ソーサーごと手に取り、紗月姫は口へ運んだ。
 しかしそれを一口飲んで、彼女の動きは止まる。そしてその瞳からは、涙が一気に溢れ出したのだ!
「お嬢様? どうなさいました?」
 手の力が抜けてカップを落としそうになった紗月姫の手を、章太郎は慌てて押さえた。零してしまう前に紅茶のカップはテーブルへと戻された。
 紅茶が零れる事はなかったが、紗月姫の瞳からは涙がぽろぽろと零れ出した。
 この紅茶は、神藤がこの時期によく淹れてくれる紅茶だ。
 オレンジペコのストレートフラッシュ。彼が淹れてくれていた茶葉と同じ物のはずなのに、味が全然違う。
 神藤が、いつも紗月姫の為に、紗月姫だけの為に、自らの手で淹れてくれた物とは、何もかもが違う。

 当然のように、いつも傍にあった手。
 それを求める事が、何故いけないのだろう?

「……水野……。神藤は……?」
「え?」
「神藤は……、何処に居るの?」
「神藤は、会社の方に……」
「呼んで……」

 言ってはいけない我侭。
 しかし紗月姫の心は、それを知っていながらも我侭を止められない。

「神藤を、呼んで……っ……」

 私に……、神藤を返して!




拍手&メッセージが送れます♪





+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。