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第3章
第3章≪運命の天使≫・7


「お帰りなさいませ。お嬢様」
 紗月姫が屋敷へ帰ると、玄関ホールで執事の水野と数名の使用人達、そして屋敷内で待機している他のお付き達が迎えに出た。
「やはりお帰りになられると言う事でご連絡を頂き、心配しておりましたよ。お加減は如何です?」
 紗月姫は授業に出たかった。
 しかし、神藤が屋敷へ帰ると押し切ったのだ。

 神藤としては、海堂尊実の事を気にする紗月姫を、彼の姿を思い出しかねない学園には置いておきたくなかった。というのが本音だろう。

「疲れた顔をしていたせいかしら? 私の厳しいお世話役に叱られたのよ。そんな顔をするくらいなら帰りましょう。って」
 紗月姫は言いつけるように口にすると、チラリッと横に立つ神藤を見る。
「ホントっ、おっかないんだからっ」

 悪戯っぽい拗ねた口調は、神藤にだけ使われるもの。
 こんな話し方は、両親にもしない。

「またそんな事を。それでは私が虐めているように聞こえます」
「あら? 虐めているのでしょう?」
「お嬢様っ」

 そしてまた、その悪戯っ子をあやすような優しい口調を、神藤は紗月姫以外に使う事はない。

「おやめ下さい。他のお付きに総攻撃を受けます」
「じゃぁ、今度から神藤に虐められたら他の皆に言いつけるわ。『神藤が虐めるー』 って。ねっ?」
 紗月姫が楽しそうに他のお付き達の方を見ると、三十代後半くらいの年長であるお付きが「いつでもどうぞ」 と笑顔で応え、周囲から楽しそうな笑いを誘った。

 その和やかな雰囲気の中、紗月姫と神藤が顔を見合わせて微笑み合う。
 ちょっと頬を染め、幸せそうな極上の笑顔を作る紗月姫と、そんな紗月姫を見詰め、嬉しそうに微笑む神藤。

 そんな二人の間に流れる、ただならない雰囲気。

 〝その兆候〟に気付いたのは、神藤の事もそして紗月姫の事もよく知る、水野だけだっただろう。
 水野は、普段温厚な表情を一瞬曇らせ、そんな二人を凝視した。

「お嬢様、お食事はどうされますか? 早めにされますか?」
 水野の横に並んでいた年配のメイド頭が、紗月姫に尋ねる。彼女は執事である水野の妻で志津子という。
 紗月姫は少々苦笑しながら答えた。
「普通通りでいいわ。食欲がないから、いらないくらい」
「それは駄目です」
 学校へ行って帰ってきただけなので空腹感はない。昼食に出るのが煩わしいと思ったのだが、素早く〝厳しいお世話役〟のチェックが入った。
「・・・軽い物にしてね」
 上目使いに神藤を睨みつけそう言うと、志津子は小さく笑いながら「はい」 と答えた。

 紗月姫に恨みがましく睨まれようと、そんなものは慣れたものだ。神藤はびくともしない。それどころか素直に言う事を聞いてくれた主人に、にこやかな笑顔でお伺いを立てる。
「昼食の時間までお部屋でお休みになりますか? 何かご希望があれば・・・」
「そうね。久し振りにヴァイオリンでも弾こうかしら。・・・久し振りだから、調弦しておいてくれる?神藤」
「かしこまりました。調律室の方で用意をしてまいります。ヴァイオリンは、お部屋へお持ちすれば良いですね?」
 そう言いながらお付き達へ目を移すと、中から二人が進み出た。
 神藤はすぐに調律室へ行くので、部屋まで紗月姫を送る役目を他のお付きに任せたのだ。

「あ、そうだわ」
 二人のお付きが両側について歩き出した紗月姫は、すぐにクルリと神藤を振り返る。
「今日は神藤が好きな曲を弾いてあげる。何がいい? ベートーヴェン? メンデルスゾーン? それとも、やっぱりブラームス?」
 にっこりと優しく微笑む紗月姫に、やはり神藤は優しく返す。
「では、ブラームスで」
「神藤はブラームスが好きね。私も・・・好きよ・・」

 曲が好きだ、という意味なのに、「好き」 と言う言葉が妙に恥ずかしく感じた。
 言いよどんでしまった事を更に恥ずかしく感じてしまい、紗月姫は慌てて顔を逸らし歩き出した。


 
 ホール中央の広い階段を上がる紗月姫を見送り、使用人達が各々の持ち場へ戻り出す。
 神藤も急いで紗月姫のヴァイオリンを取りに楽器庫へ行こうとしたが、その腕を水野が掴んだ。
「・・・あきら
 水野の呼びかけに、神藤はピクリと眉を動かす。
 彼が神藤を〝下の名前〟で呼ぶ時は、あまり神藤にとって良い話しではない事が多いのだ。

 水野は神藤がこの辻川家に来た十二歳の時、彼の教育係に付いた人間だ。
 何も知らなかった少年に、礼儀作法から言葉使いまで、全てを一から教えた。
 素性の知れない怪しい目をした少年を見た時の水野は、いったいどうなる事かと思ったが、少年は思ったより器用で要領が良く、行動力もあり、そして何よりとても頭が良かった。
 とんとん拍子に物事を吸収し、常識を覚え、水野が「目を離しても大丈夫」 と思えるようになるまで、さほど時間は掛からなかった。
 水野にとって、神藤はもう一人の息子のようなもの。
 普段は「神藤」 と呼ぶが、自分の立場で話しかける時だけ、彼は「煌」 と下の名前で呼ぶのだ。


「煌、忘れてはいないだろうな・・・」
 水野の口調が、厳しく神藤を責める。
「お前は、お嬢様の〝お世話役〟だ・・・。解かっているな?」
 神藤の心が動揺する。
 しかし彼は、それを表には出さなかった。

「お前がお嬢様のお世話役に付いた時から、数回言った事がある。・・・それを、覚えているか?」
「覚えています」
 神藤は静かに答える。

 お世話役として着いた時は少年だった。
 しかし、紗月姫が年頃になる頃、この少年は立派な青年へと変わっているだろう・・・。
 先を見越した水野は、何度も何度も繰り返して少年に教えた。

 ―――お嬢様は、お前の〝主人〟だ。決して、有らぬ気持ちは持つな。

「解かっています・・・」
 平静を装いながら、それでも神藤の声が少し震えた事に水野は気付いただろうか?

「あの方は・・・私の、〝主人〟ですから・・・」

 想いなど、寄せてはいけない。
 手など届かない。

 天上の天使のように・・・・・。




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