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番外編
≪天使を迷子にしないで≫・9


「おひとつ如何ですか?」
 差し出された薄紫色の個体に、紗月姫は当惑する。
 それを差し出した当人自体は、商売慣れしたとてもにこやかな顔をしていた。
「あの……、これは、何なのですか?」
「チョコレートですよ。薄紫色で綺麗でしょう? ラベンダーのチョコレートなんです」
「ラベンダー?」
 紗月姫は瞼をしぱ叩かせ、白いパティシエールの衣装に身を包んだ女性が手に持つ、小さな銀トレイを覗きこんだ。
 銀トレイの上に敷かれた白いペーパーナプキンの上に、綺麗な楕円形をした一口サイズのチョコレートが数個のっている。
「綺麗な色。藤の色だわ」
 チョコレートの色を見て、紗月姫は屋敷の温室にあった藤棚を思い出した。
 幼い頃から、紗月姫と神藤を見守り続けてくれた藤棚。
 紗月姫が能力を失った時に枯れ落ちてしまったが、彼女にとっては思い入れの強い花だ。実は来月の結婚式の日、新しい藤が温室に植えられる事になっている。
 ラベンダーも藤と同じ薄紫色だ。チョコレートの色を見て、紗月姫は藤棚を懐かしく思い出してしまった。

 綺麗なラッピングに惹かれてショーウインドゥを覗き込んでいた紗月姫に、この銀トレイを手にした女性が店の中から出てきて、話しかけて来たのだ。
 店の中からも、楽しそうにラッピングを眺める紗月姫の姿が見えていたのだろう。綺麗な女の子が興味を持って眺めているのだ、パティシエールとしては構ってみたくなったというところだろうか。
「この紫色は、合成着色料とかじゃないんですよ。ラベンダー園で作ってる、花から抽出したラベンダーエッセンスを使ってるんです。だから食べた時に、本当にラベンダーの味がするんです」
「ラベンダーの味?」
 耳で聞いてそのままを口にしてから、紗月姫は思わず笑みが零れた。“ラベンダーの味”と言われては、まるで花を食べた事があるみたいだ。
「花の味がするのですか?」
 クスクス笑う紗月姫を可愛らしく感じたのか、パティシエールは最初の言葉をもう一度繰り返す。
「おひとつ如何です? 本当にラベンダーの味か、確かめてみてください」
 嫌みの無い、とても好ましい笑顔だ。試食などを勧められ、いつも照れから断ってしまうような人でも、この雰囲気に乗せられてひとつ手に取ってしまうのではないだろうか。
 それは紗月姫も同じだ。思わず手が伸びそうになる。
 しかし彼女には、ひとつどうしても躊躇してしまう原因があった。
 ――こんな街角で、見ず知らずの人間から口に入れる物を貰って、あまつさえ何の確認も無く口にしてしまって良いものだろうか。

 神藤の許可無くそんな勝手な事をしてしまって、何かあったらどうする。
 叱られるどころの話では無くなってしまうではないか。

「遠慮しなくてもいいですよ。あ、もしかして、チョコレートは苦手でしたか?」
 なかなか手を出さず戸惑う紗月姫を見て、パティシエールはもう一度声をかける。まさか“知らない人から食べ物を貰ってはいけない”という約束を守ろうとしている子供のような状態に紗月姫が陥っているとも知らないで、チョコレートは嫌いだったかと誤解をし始めてしまったようだ。
「いいえ……、好きなのですけれど……」
 パティシエールが紗月姫の身元をキチンと心得ている人間なら、お付きが居ないところで食べ物を勧めたりはしないだろう。しかし彼女は何も知らないのだ。そんな人間の前で、「お付きの者に訊かなくては頂けません」 と言うのも、相手を困らせてしまう原因だろう。

「一個くらい、もらえよ」
 やはり貰う訳にはいかないかと考えた時、今までずっと黙っていた少年が紗月姫に声をかけた。
「大丈夫だ。食ってみろよ」
 彼に言葉をかけられて、何故か心が楽になる。紗月姫は戸惑いを笑顔に変えて、トレイの上から綺麗な藤色のチョコレートを一つ摘み上げた。
「頂きますわ。有難うございます」
 微笑みお礼を発した唇がチョコレートを挟み、するりと口の中へ入って行く。頬張るほどの大きさがあった訳では無いが、片手で口元を押さえ、口腔内でチョコを移動させて溶かしていく。
 とろりと口の中で溶けて行くに従って、紗月姫の目は大きく見開かれていった。

「美味しいわ。本当にラベンダーを食べているみたい」
 やがて口の中からチョコが消えると、賛辞と共に笑顔が溢れる。
 ラベンダーから抽出されただけあって、口に含んだ瞬間広がるのはラベンダーの香り。その香のままに甘さが蕩けて味覚全体に伝わる。鼻に抜ける癒しの香は、正に“ラベンダーを食べている”感覚だ。
 味自体はホワイトチョコレートの様な土台を感じるので、そこにラベンダーのエッセンスがプラスされているのだろう。
「良かったらもう一つどうぞ。今、バレンタインフェアでお店の中にも置いていますから、良かったらご覧になりませんか?」
 気を良くしたパティシエールは、紗月姫にもう一つ勧める。美味しそうに食べてくれたのが嬉しかったのか、店の中にも誘ってくれた。
 ラベンダーのチョコレートなど初めてだし、この“香り”を食べているような感覚を神藤にも教えてあげたい。
 購入しても良いかと考えるが、残念ながら紗月姫は買い物の為のカードや現金などは持ち歩いてはいないのだ。昔からそういった類の物は神藤が持っている。極端な話、紗月姫は自動販売機にお金を入れてジュースを買う、などという行為さえ経験した事が無いのだから。

「心配すんなって」
 欲しい気持ちはあるのだが、購入方法に難色を示した紗月姫を見て、その理由を悟った少年が静かに声をかける。
 見守るように紗月姫を見下ろし、口元を和ませた表情は信じられないくらいに優しい。
 その表情のまま、少年は道路を挟んだ隣の通りを指差した。
「ほら」

 不思議と導かれるように、紗月姫は少年の指先を視線で追う。
「あっ……」
 無意識に零れる声は、嬉しさに跳ね上がった。

「煌……」
 車道を挟んだ信号の向こう側に、神藤が立っているのを見付けたのだ。

 神藤の姿を捉え、嬉しそうに微笑む紗月姫を見て、少年の笑顔も同じくらい嬉しそうに、景色の中へ溶け込んでいった。






 *次回更新・9月2日
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