「本当に驚いたのよ」
栗色の綺麗な髪。
神藤ほどではないが、少々髪質が柔らかく一本一本が細いのだろう、クセ毛っぽい髪は背の中央ほどの長さ。
白い肌に薄化粧のその女性は、春の光と同じくらい柔らかく優しい微笑を浮かべる。それはまるで、身にまとうパステルピンクのワンピースに溶け込んでしまいそうな雰囲気だ。
「紗月姫ちゃんが学校で事故に遭った、って訊いた時は」
彼女はクスッと笑って、手にしたアイボリーの薔薇を一本一本綺麗に見栄え良く花瓶に挿していく。
綺麗に花を整え、ベッドの中で上半身を起こす紗月姫を振り返るとニコッと微笑んだ。
「ベッドサイドに置かせてもらってもいい?」
その癒される笑顔に、紗月姫はホッと安らぎを感じる。
「美春さんが持って来て下さったのですもの。大歓迎です」
紗月姫が笑顔で答えると、光野美春は微笑んだまま、ベッドの脇にあるサイドチェストの上に花瓶を置いた。
そして紗月姫へ身を乗り出すと、人差し指を自分と紗月姫の間に立て、急に意地悪な顔をする。
「いい? ベッドの上で暴れたりしちゃ駄目よ。花瓶が倒れちゃうからね?」
「あ、暴れませんっ。そんなに寝相は悪くはありませんわっ」
「神藤さんにジャレて暴れたりしないの? 眠るまで一緒にいてもらったりするのでしょう?」
「しっ、しません! そんな事!」
「なんだぁ。しないのぉ?」
「美春さん!!」
紗月姫がムキになると美春がクスクスと笑い出す。
一体部外者の誰が想像出来るのだろう。
「辻川の宝刀」 とまで言われるほどの逸脱した才能を持つ冷静沈着な辻川財閥の一人娘が、真っ赤になって慌てふためく姿など。
他の人間になど見せない。
本当に紗月姫が心を許すのは神藤のみ。
そして、神藤の事を好きだと言う事実を知っている、この美春の前でのみ、紗月姫は恋をする少女の顔になる事が出来るのだ。
財閥の令嬢がお世話役に想いを寄せているなど、本来ならば口にしてはいけない事だ。
しかし、その事で悩む紗月姫の心から美春の優しさがその言葉を引き出した。
それを聞いても、別に美春は「それは間違っている」 と紗月姫を咎める訳でも、周囲の人間に言い触らす訳でもない。
かえって紗月姫の良い相談相手となり、紗月姫の気持ちを応援してくれる。
そんな美春を、紗月姫は姉のように慕っていた。
初めて出会ったのは、紗月姫が十四歳になる手前だったので、ちょうど丸4年になる。
彼女は従兄である葉山学の婚約者であり、彼の秘書だ。
「フフ、ごめんなさい」
美春は意地悪な顔を一転させ優しく微笑むと、紗月姫の頭をナデナデと撫でた。
「そんな泣きそうな顔をしないで頂戴。神藤さんに見付かったら、私が怒られちゃうわ」
泣きそうな顔なんてしただろうか? 紗月姫は思わず両手で頬を押さえる。
真っ赤な頬の熱が、手の平に伝わった。
神藤の話しをされて、こんなに赤くなってしまう自分が恥ずかしい。普段、他人に「素敵なお付きの方と一緒で羨ましいですね」 などの褒め言葉をもらっても特別照れる事はない。
しかし美春に言われると別だ。
美春は紗月姫の気持ちを知っている。
その分、彼女の口から神藤の名前を聞くと、直接自分の心に響いてしまうのだ。
美春の前でだけ、普通の少女のような気持ちになれる。
紗月姫は、それを自然な事のように許してくれる美春が大好きなのだ。
「誰に怒られるのですか? 美春様」
話の最後が聞こえていたのだろう。開きっぱなしの寝室のドアを三度ノックして神藤が入ってきた。
「お飲み物をお持ちいたしました。どうぞ」
左手に持ったトレイの上からティーカップを取り、サイドチェストの横にある小さなテーブルに置く。その時、チェストの上に飾られた花に気付いた。
「美春様がお持ちくださった薔薇ですね。綺麗に挿して頂き、有難う御座います。きっとお嬢様の心をお慰めするお手伝いをしてくれる物と思います」
笑顔で礼を口にする神藤に、美春も笑顔で返す。
「いいえ。どういたしまして。暴れて倒さないでね、しんどうサンっ」
「は? 私が、ですか?」
「みっ、美春さんっ!」
さっきの話の延長で美春が神藤に話を振ると、紗月姫が慌てて止めた。
いつも傍にいる神藤とて、慌てる紗月姫など、滅多に見られるものではない。
美春は口元に手を当ててクスクス笑っているし、紗月姫は赤くなって、そんな彼女を恨みがましそうに見ている。
訳が解からないのは、知らない所で話しの魚にされていた神藤だが、慌てた反応を見せながらも紗月姫が楽しそうなので、彼は特に何も言う事はない。
紗月姫が笑顔であれば、彼は満足だ。
「そういえば神藤さん、学は? まだ終わらないのかしら?」
他のお付きが運んできてくれた座り心地の良さそうな椅子へ、神藤に手を取られながら腰を下ろすと、美春は彼を見上げながら訊いた。
ここへはもちろん、学と一緒に来た。
日曜日の午前中を利用して、事故に遭ったと聞いた紗月姫の見舞いに二人で訪れたのだ。
もっとも学は、その他に紗月姫の父である総司に用事が有ったらしい。ここへ来てすぐに彼は総司と話をしに行き、美春はそのまま紗月姫の部屋を訪れた。
「三十分位」 と学は言っていたのだが、そろそろ一時間だ。
「そうですね・・・。そろそろ、ではないかと思いますが。
神藤は腕時計に目を走らせた後おもむろに美春を見ると、何処と無く不満そうな表情をしている。
一緒に見舞いへ来たというのに、いつまでも顔を出さないので少々ご機嫌ナナメなのだろう。
彼は一度置いたティーカップを手に取り、身を屈めて美春の手元へ差し出した。
「添えてあるティーシュガーはラベンダーの香りがします。少しは気持ちのお慰めになるかと思いますよ。私で宜しければお話し相手を努めさせて頂きますので、そんな顔をなさらないで下さい。とはいえ、学様ほど美春様をお慰めする事は出来ませんのでご容赦を」
気の利いた申し出に、美春がクスクス笑う。
機嫌を直してティーカップを受け取り、ソーサーの上に乗せてあった薄紫色の角砂糖を一つ、紅茶の中へ落とした。
スプーンで一混ぜして、ソーサーごとちょっと上へ上げ香りを楽しむ。
芳醇な紅茶の香りに交じって、ふわりっとした心に心地良い香りが鼻先をくすぐった。
「本当だ。ラベンダーの香りがする。素敵な趣向ね。有難う、神藤さん」
「いいえ。どう致しまして。少しでもお慰めになりましたのなら、光栄です」
「充分よ。でも神藤さん、もう一人、〝お慰め〟しなきゃならないお嬢様がいるんじゃない?」
「え?」
美春が手の平で、目の前の紗月姫を示す。神藤が紗月姫を見ると、彼女はちょっと機嫌の悪い顔をしていた。
「お嬢様、お加減でも・・・」
神藤が紗月姫の傍へ近付くと、紗月姫はプイッと顔を逸らした。
紗月姫以外の人間に過剰な世話を焼くと、この反応が出る。
それが解かっている神藤は、やれやれ、と思う物の特に嫌ではない。
紗月姫も自分が、やきもちのような気持ちを持ってしまっている事に気付いているのだが、どうにも神藤の事になると気持ちが抑えられない。
神藤は自分のお世話役であって、自分のものだ、という気持ちがある。
その彼が他に気を遣うところを見ると、どうもイラついてしまうのだ。
だからって、美春さん相手に優しくしたくらいで。・・・私・・・。
自分自身、過剰反応気味なのは解かっている。
しかしそれは、年々成長するに従って大きくなり続ける気持ちだった。
自分だけを見ていて欲しい。
自分以外に優しくなんてしないで欲しい。
恋をする気持ちの感情的に普通であるそれらも、本来ならばお世話役である彼に対して感じてはいけない感情だ。
だから彼女は、それを隠す。
〝主人〟としての感情に、すり替えるのだ。
「神藤は私のお世話役でしょう? 先に他へ気を回してどうするの」
「申し訳御座いません」
拗ねた目で自分を見上げる紗月姫を見て、神藤はクスッと笑う。
そんな二人を、楽しそうに美春が見ている事に気付いて、紗月姫は話をすり替えた。
「それにしても、本当に良く解かりましたわね。学園で事故があって私が巻き込まれた事。外部には漏れないよう、完璧に神藤がフォローしましたのに」
すると美春は自慢げに笑う。
「学的に言うなら『オレの情報網は完璧だよ』 って所かしら? まぁ、今回情報の断片を拾ってそれを形付けてくれたのは、当社の〝IT事業部の専務お抱え〟サンだけどね」
「学さんが選んだ〝専務のお傍つき人材〟と呼ばれている一人ですね? 学さんの周囲には優秀な方ばかりが揃っていて怖いです。神藤のフォローを見破れる人間が、学さん以外にもいたなんて」
美春はふふっと自慢げに微笑んで、紅茶に口を付けた。
生徒会室で本当は何があったのか。
全てを知っているのは、紗月姫と神藤のみ。
そして、「爆発事故」 という〝事実〟を作り上げ、その手助けをしたのは、お付き達と弁護士達。
しかし、彼らとて、〝真相〟は知らない。
〝真相〟では無い。
しかし、隠したはずの〝作り上げた事実〟が、シッカリと学の元へ伝わってしまっていたのだ。
あの事故から数日、紗月姫は学校を休んでいる。
事故に巻き込まれたという事を知っている学園側へ、一応のポーズを作るためだ。
紗月姫は無意識のうちに、柔らかく垂れ下がっている髪の毛の下に隠れた、左の首筋に手を当てた。
そこには今、首筋に沿って鎖骨までガーゼが貼られている。
白い肌に、あまりにも鮮明に色濃く残る赤紫の痕。そんな物をさらしたままにはしておけないからだ。
ガーゼを変えるのは、常に神藤のみ。
あれから数日経っているというのに、この首筋の痕を思うたびに思い出すのは、肌に触れた神藤の唇の感触。
優しく強く吸い付かれた時の、体の奥が痺れる様な想い。
そして、心地良いくらい身体の奥を熱くする、彼の重み。
「痛むのですか?」
首筋を押さえて考え込んでしまった紗月姫を見て、神藤が彼女の前に屈み、顔を近づけて小声で訊く。
紗月姫は顔を上げて神藤を見るが、その瞬間自分の頬が熱くなったのを感じる。
彼の目で見詰められ、その視線を捉えておきたい欲求に駆られたばかりに、目を逸らすタイミングを逃した。
「いいえ・・・」
赤く上気した頬。
切なげに細まる瞳。
震える小声で、紗月姫は返す。
「大丈夫・・・」
そんな紗月姫を見て、今度は神藤が目を逸らすタイミングを失う。
こんな表情を見ていると、忘れなくてはならないシャワールームでの出来事が鮮明に思い出されてしまう。
確かに自分の下にあった、柔らかな身体の感触。
触れた肌はしっとりと温かく。
吸い付いた首筋は、そのまま乱暴にでも全てを奪い取ってやりたくなるような、男としての誘惑を彼に与えようとした。
それを抑える為に、彼は全神経を使い、正しく精根尽き果てたような気がする。
「ちょっと、暑かっただけ・・・」
呟くように言って、紗月姫は首筋から手を離す。
「お暑いようなら仰ってください。冷やす物をお持ちしますから」
「ええ」
ラベンダーの香りを感じ、まどろんでいるフリをして、美春はコッソリと二人を見詰める。
そして、辛そうに眉を寄せた。
神藤を見詰めながら、紗月姫は思う。
表面を冷やしても、この熱は冷めない・・・。
神藤と紗月姫の視線が、いつもと違う意味で、いつもと違う気持ちで、その瞬間絡み合う。
しかし二人は、〝その気持ち〟を避けるように、二人同時に視線を逸らした。
紗月姫は、財閥の令嬢。
神藤は、そのお世話役。
それは、決して気付いてはいけない気持ち。
たとえ、気付いても・・・。
気付いてはいない振りをしなければならない気持ち・・・。
シャワールームでの出来事は。
二人にとって。
決して、覚えていてはいけない、出来事。
互いの身体のぬくもりを感じた・・・。
互いの心の熱さを感じた・・・。
忘れなければならない、想い・・・・・。
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