「全てだ! 全て元に戻せ!」
神藤がそんな口調で指示を出すのは、恐らく初めてだったのではないだろうか。
「机、調度品、生け花の花器まで、ありとあらゆる物、全てを元に戻すのだ!」
指示はとっくに出してあったというのに、再び訊いて来た部下に少々イラつく。
神藤は声を荒げた。
しかし、このイラついた声を紗月姫に聞かれてはいけない。そう思い直した彼は、取り乱してしまった自分を落ち着かせようと、紗月姫の姿を思い起こしながら大きく深呼吸をする。
そして再び、携帯電話に向かって話し出した
「今日中に全て終えるんだ。明日、誰かが生徒会室に入っても、何もおかしくなど思わないように、すっかり元通りに。終了するまで、誰も中に入れるな。誰にも見せるな。理事長の所へは連絡を取った。辻川専属の弁護士が五人、すぐ対応に入る。他の事は心配せずに生徒会室を元に戻す事だけを考えろ」
いつもの調子に戻って指示を出して電話を終え、神藤は携帯をスーツの内ポケットに収めながら、大きく息を吐いた。
ここ、辻川のプライベートルームの中には、シャワールームから聞こえるシャワーの音だけが、微かに響き渡っていた。
そこには今、紗月姫が居る。
体中に浴びた汚れを、流しているはずだ。
生徒会室の惨状と、今にも気がふれてしまいそうな紗月姫を目の前に、神藤は湧き上がる怒りを押し留めるのに必死だった。
紗月姫の衣服は、全て剥ぎ取られていた。
剥ぎ取った相手の血で真っ赤に染まった肌を抱き締め、身を縮めて、恐怖と絶望で震えていたのだ。
あと少し、神藤の到着が遅かったなら・・・。
間違いなく紗月姫は、〝人以外の物〟に変わってしまっていただろう。
紗月姫にそんな思いをさせた男に、神藤は言葉では言い表せないほどの怒りを感じていたのだ。
例え、その男がすでに、生きた人間ではない姿になってしまっているのだとしても・・・。
首と体が引き離され、作り物のように壊れたガラクタの一部と化していようと・・・。
しかし、今、神藤がしなければいけない事は、紗月姫と、そしてこの壊れた惨状を修復する事だった。
神藤は花も全てバラバラに散ってしまっている、元は生け花で有ったであろう物が飾られていた長机の前に立つと、その机に敷かれていた光沢ある白いサテン布を思い切り引き剥がした。
上にまだ残っていた残骸が、バラバラと勢い良く床に落ちる。
バサバサッと数回大きく振り、布の上に残っている破片を振り落とした。
再び紗月姫の元に戻ろうとして、足元に男の首が転がっている事に気付いたが、神藤は踏みつけてやりたい気持ちをグッと堪える。
神藤は、これから紗月姫をプライベートルームへ保護しなければならない。
屍の一部に触れた体で、紗月姫に触れる事は避けたかった。
そんな体で、そんな手で、紗月姫の体や心に触れる事を、彼は自ら禁じたのだ。
〝あの時〟に・・・・・。
「・・・・・」
憎しみの言葉を吐きそうになった唇で、それを押し留める為に神藤はグッと下唇を噛む。
そして吐き出しようの無い忌々しさを表すように、傍にあった辛うじて形を残していた花器を、男の首に叩き付けた!
重厚な花器だったが、それは男の顔の上でパカリ・・・とふたつに割れる。
顔の皮膚がえぐられたように傷付くが、すでに体液という体液を全て流してしまったその物体からは、それ以上の物は流れる事は無かった。
神藤は〝物〟と化したソレから目を逸らし、自分の足元を見ながら震えている紗月姫の傍へ寄り、サテン布を大きく広げて頭から被せる。
「少々、ご辛抱を」
紗月姫を抱き上げ、そのままクルリと巻き込むと、人の気配が無いのを確認して生徒会室を出た。
生徒会室には鍵を掛け、誰にも会わない事を祈りながら、五階に取られている辻川専用のプライベートルームへと急いだのだ。
運良く誰にも会わずプライベートルームへ着いた神藤は、シャワールームの床へ紗月姫を座らせた。
「取り敢えず、体の血を流しましょう」
シャワーヘッドを手に取り、温度パネルでぬるめに設定してからコックを捻る。
勢い良く、しかし肌に刺激が来ない強さでお湯が噴き出された。
床に座らせた紗月姫の頭上から、お湯が降り注ぐ。
ふわりとかかっていたはずの布は、お湯に濡らされ、あっという間に紗月姫の肌に貼り付き、その形を変える。
「着替えを、用意して参ります・・・」
ついその光景に見入りそうになってしまった神藤は、意識的に目を逸らし、シャワールームを出ようとした。
「しん・・・ど・・ぅ・・・」
シャワーの水音に交じって聞こえる、紗月姫の切なげな声が彼を引きとめる。
神藤が肩越しに振り返ると、紗月姫も肩越しに振り返り、泣きそうな目で彼を見ていた。
神藤は、紗月姫が気の済むまで、このまま傍に居たかった。
しかし、その紗月姫の為に、今はやる事がある。
それに・・・。
シャワーで濡らされて、その雫を肌にまとう紗月姫は、今まで彼が見た事が無いような美しさを漂わせている。
そんな紗月姫と一緒に居る事は、彼には出来なかった。
「すぐ、参りますので・・・」
神藤は紗月姫から目を逸らし、急ぐようにシャワールームを出た。
シャワールームを離れてから、辻川邸に居る自分の部下に連絡を取った。
理由は言わず、ただ「学校の生徒会室を元に戻せ。お嬢様の大事だ」 と。
神藤の部下は、全て紗月姫の〝お付き役〟だ。
「お嬢様のため」 という一言で、どんな風にでも動く。
その話が終わってから、今度は辻川家の執事を務める水野と、辻川専属の弁護士五人に連絡を取り、水野には帰宅後の紗月姫への対応を、そして弁護士には学園側と外部への対応を要請した。
どんな手を使っても、紗月姫が傷付く事、紗月姫が傷付けられる事実を露見させてはならない。
そう決めている彼は、〝辻川〟の権力を、当主の総司から与えられている〝紗月姫のお世話役〟としての権限を、最大に利用した。
電話を終えてから、控えとして置いてある制服を用意し、同じく控えとして置いてある下着類をクローゼットの引き出しから取り出す。
下着類、とはいっても、その姿のまま収納されている訳ではなく、一枚ずつシルクの布で包まれた状態でしまわれている。
学園内にプライベートルームを用意される際、それを指示したのは神藤だった。
もしも第三者がここへ侵入して部屋を荒らした場合、簡単に下着類が目に入らないように、だ。
しかしそれは、少々自分の為でもあったのかもしれない・・・。
着替えなどを用意し、シャワーから上がったら口に出来るようにとアイスティーの用意をしていた時、再び部下からの電話が鳴ったのだ・・・・・。
三十分以上、かすかに聞こえ続けるシャワー音。
そろそろ着替えを持って行こうとした神藤は、ある事に気付く。
水音がしないのだ。
聞こえるのは、シャワーの噴出音だけ。
シャワーの中で体を動かせば、必ず水音がするはずなのに・・・。
神藤はシャワールームの脱衣スペースに着替えを置くと、曇りガラスの扉の前で声を掛けた。
「お嬢様? 宜しいですか?」
返事はない。
ただ、シャワー音が聞こえるだけだ。
「お嬢様?」
中に紗月姫が居ない訳ではない。曇りガラスの向こうに、人影があるのは微かに分かる。
「お嬢様・・・失礼致します」
神藤は、静かに扉を開けた。
最初に置かれた形のまま床に座り、紗月姫は身動き一つせずに、シャワーのお湯を受け続けていた。
ただ、その体を包むように纏っていた布はシャワールームの床に落ち、流れてくるお湯の勢いで波立っている。
ドア側に背を向け、その体勢のままずっとシャワーを受け続けていたのだろう。服を着たように体を赤く染め、こびりついていた血は全て洗い流されていた。
濡れそぼり、より輝きを増した漆黒の黒髪が、絹糸のように白い肌に貼りつく。
透き通ってしまいそうな白い肌は、その上で水滴を雫に変え、肌の上を転がし続けていた。
それは、後ろ姿であっても、とても美しく・・・。
とても神秘的で・・・。
とても官能的な姿だった・・・・・。
「・・・っ」
心に重い物を感じた神藤は、顔ごと目を逸らし、そのままシャワールームの扉を閉めようとした。
しかし、そんな彼の行動を、紗月姫の声が止める。
「こっちへ来て・・・」
神藤の手はピタリと止まった。
紗月姫の声は、容赦なく彼を追い込んでいく。
「こっちへ来て・・・神藤・・・」
主人に「来い」 と言われては、行かない訳にはいかない。
神藤はそのままシャワールームの中へ入ると、紗月姫の横に立った。
「前に来て・・・。私の、目の前に・・・」
弱々しい紗月姫の口調は、まだ現実に戻りきれていない様だ。
神藤はそんな紗月姫の目の前に両膝立ちになり、彼女を見下ろす。
シャワーのお湯は、神藤のスーツをも濡らし始めた。
「私の事・・・見て・・・」
紗月姫はゆっくりと、神藤を見上げる。
「私、おかしい・・・? 変・・・?」
涙で潤んだ紗月姫の瞳が、神藤の瞳を捉える。
全てを見透かしてしまいそうな濡れた瞳は、助けを懇願するように彼の視線に絡みついた。
「わた・・し・・・」
紗月姫の声が詰まる。
答えない神藤に、凍えそうなくらいの不安を感じているのだ。
しかし神藤は、哀れなほどに優しく、紗月姫を見詰め、両頬に指先を添えた。
「いいえ・・・」
いつも通りの微笑を、彼は紗月姫に見せる。
「貴女は、何一つ変わりません。・・・いつもの聡明で美しい、私の、紗月姫お嬢様です」
流れ落ちる雫は、紗月姫の頬をも伝ってゆく。
それはまるで、彼女が流す涙を隠していくかのようだった。
「・・・しん・・・どう・・・」
黒髪は肌に貼り付き、ちょうど良く紗月姫の胸の白い膨らみを隠すが、それはかえって女性としての紗月姫を強く意識させてしまう。
「・・・痛い・・・」
「え?」
何が痛いのだろう?
まさか、最後の一線を越えてしまっていたとか・・・。
しかし、あの胴体はジャケットを脱いだだけで、衣服は着たままだった。
神藤が戸惑っていると、紗月姫はちょっと首を傾け、胸を隠す黒髪を、恥ずかしそうにずらした。
「!」
神藤が思わず息を呑んでしまったのが、紗月姫には聞こえていたかもしれない。
紗月姫は明らかに、長時間ぬるめのお湯にさらされていた以外の理由で、頬が赤く染まってしまった。
紗月姫の左耳から、首筋に沿って鎖骨まで。
白い肌があまりにも無残に、赤紫色のアザを作っていた。
「いたい・・・」
紗月姫が小声で呟く。
さっき乱暴されかかった時に、吸い付かれたものだろう。
その痕が、痛いというのだ。
「まだ・・・、唇が這っているような気がする。・・・まだ、体に圧し掛かられた重みを感じるの・・・」
紗月姫は、泣きそうになりながら神藤に訴えた。
「消して・・・」
頬を染め、切なげな瞳で彼を射抜く。
「この痛み、重みを・・・、消して・・・」
神藤は紗月姫と同じ様に床へ座り込むと、震える指で紗月姫の髪を寄せ、腕の付け根を両手で掴む。
そして・・・。
左耳の裏に、そっと唇を付けた。
ぴくん・・・。
紗月姫の体が、一瞬小さく震える。
赤紫のアザ痕をなぞるように、神藤は首筋の線に沿って軽く唇を這わせた。
最終点である鎖骨まで到達すると、今度は逆になぞっていく。
身震いのように紗月姫の体がビクビクッと震えた。
驚いたり寒気がした時の震え方ではない。
明らかに、女性としての反応を起こした時の震え方だった。
神藤は紗月姫の腰に腕を回し体を引き寄せながら、彼女をシャワールームの床に横たえ、その上に体を重ねる。
重なったまま両手で紗月姫の頭を撫で、今度は強く首筋に吸い付いた。
「・・・ふ・・っ、ぅ・・・」
反射的に、鼻から抜けるような切なげな声が紗月姫から発せられ、今度は神藤がビクッとしてしまう。
当然だが、こんな声は約十八年間一緒に居ても、聞いた事がない。
「神・・・藤・・」
紗月姫は息を吐きながら彼の名を呼び、シャワーを背中から浴びる彼の体に両腕を回した。
「神藤・・・」
幸せそうな甘い声が神藤の体に響き、彼は苦しくなってゆく己の体と、切なくなってゆく心を必死で耐える。
そして紗月姫の体に自分の重さを染み込ませ、彼女が受けた痛みの上から、新たな痛みを与える。
「お嬢様・・・」
降り注ぐシャワーは二人を包み、濡らしてゆく。
水音は、お互いの囁き声さえも消した。
本当に重なり合ってしまいそうな二人の心を洗い流すように。
決して交じり合わぬよう。
その想いを、シャワーのお湯が洗い流す。
囁きあい、止まらない言葉を、水音が消す。
「まだ・・・、痛いですか?」
しばらくして、紗月姫の首筋から顔を上げた神藤は、頬が赤く上気した彼女を見詰める。
「いいえ・・・」
紗月姫は恥ずかしそうに、哀しそうに、微笑んだ。
「もぅ・・・痛くはないわ。・・・神藤が、消してくれたもの・・・」
神藤の背中に回した手で、びしょ濡れの彼のスーツをグッと掴む。
「神藤の重さしか・・・感じない・・・。感じたくない・・・」
「お嬢様・・・」
紗月姫はそのまま、神藤に力強く抱きつき泣き声を上げた。
「ありがとう・・・。神藤・・・」
神藤にしがみ付き、そう言った紗月姫の指先は、壊れてしまいそうなほど震えていた。
辻川財閥の令嬢が何者かに命を狙われ、その犯人が仕掛けた爆発物によって、人が一人死んだ。
誰かを犠牲にしてしまったとあっては、世間のさらし者。
ひいては辻川の恥。
───今回の件は、どうぞ内密に・・・・・。
お付き役達や弁護士達の根回しもあり、学園で起こった生徒会室の爆発事件は、一切表沙汰になる事は無かった。
この件は、己の欲に踊らされた男の犠牲で終わったかと思われた。
しかし、この後、成澤ホールディングスは株価の暴落を起こし、窮地に追い込まれる事になる。
誰もが騒然としたこの事態の訳を、震えながら納得していたのは、成澤の娘だったのかもしれない。
全ては闇の中。
紗月姫の心と共に。
霧深い闇の中へと、放り出される・・・・・。
こんにちは。玉紀 直です。
今回で、第1章の「学園の天使」が終了となります。
二人の切ない想いと、紗月姫ちゃんの能力によって起こる哀しみを書きたかったので、それが伝わっていれば・・・と思います。
連載途中で、「残酷表現あり」の警告を入れさせて頂きました。
ちょっと苦手だった皆さん、ごめんなさいね。
次回から、第2章に入ります。
まだまだ二人の切なさは続き、そして、新たな波紋が起こります。
では、次回から。
≪忘却の天使≫
で、お会いしましょう・・・。
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