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第10章
第10章≪至福の天使≫・11


「紗月姫ちゃん、可愛いっ」
 それは、感動なのか、感激なのか。
 両手を胸の前で握り合わせ、紗月姫の話を聞きながら美春が発した声は、正に胸を打つ喜びに溢れている。
「紗月姫ちゃんからそんな話を聞けるなんて、夢のようだわ」
「そ、そうですか……?」
 そんなに喜ばれると逆に紗月姫のほうが照れてしまう。
 紗月姫は恥ずかしさに頬を染めながらも、救いの答えを求めるように美春を見た。
「あ、あのっ、おかしいのでしょうか? あの、……朝まで一緒に居たい、って思うのは……。目が覚めた時、神藤が隣に居てくれたら幸せだな、って思うのは……」

 そんな事は、悩むに値しない事だと思われてしまうだろうか。
 しかし、紗月姫には分からないのだ。そんな話しを誰にもした事が無いという理由もあるが、そんな希望を持つのは間違いなのかとさえ思ってしまう。

 愛する人と肌を重ねた夜は、朝まで一緒に居たい。
 目が覚めた時、その人が隣に居てくれたら、どんなに幸せだろうか。

 神藤と居るとそんな事を考えてしまう。
 そう思う事は、おかしい事なのだろうか。


 葉山製薬本社ビル上層階にある、専務室に隣接した応接室へ通された紗月姫は、そこで美春と話しをしていた。
 話したい内容からして、学や神藤の前で出来るものではない。
 美春と二人きりで、と希望したところ、ここへ通された。神藤は今頃、専務室で学と二人、男同士の話に花を咲かせている頃だろうか。
 あの二人で〝花が咲く〟というのも微妙な話かもしれない。

「おかしくなんか無いわ。当たり前のことよ」
 弾みあがってしまう自分の声に嬉しさを隠し切れないまま、美春は目の前で恥ずかしそうに椅子へ身を沈める、初めて見る紗月姫の態度に目を奪われる。
「好きな人とはいつでも一緒に居たいものよ。紗月姫ちゃんと神藤さんは今までずっと一緒に居たけれど、やっぱり愛し合うようになってからは考え方も違ってくるのよ。夜も朝も一緒に居たい。そう思うのは当然。おかしくなんか無いわ」
「そうですか……?」
 紗月姫はやはり気恥ずかしい。しかし、こんな話を聞いてもらえる事が嬉しかった。

 美春は乗り出し気味だった身体を伸ばし、手を横について今更ながらの事実に小さな溜息をつく。
「そうだよね……。神藤さんは〝お世話役〟に戻っているんだから、紗月姫ちゃんが目を覚ます前に自分の仕事に入らなきゃならないのは当たり前。……目が覚めたら、隣には居ないのも当たり前か……。いつもそうなの?」
「いつも……、というか、はい……、あの、そういう時は、ほぼ……。あっ、でも、〝初めて〟の時だけは違いました。……あの時は、朝までずっと二人で温室に居たので……」
 「いつも」 の言葉に、「いつも一緒に夜を明かしているのか」 と問われたのかと勘違いした紗月姫は、少々動揺する。
 動揺したついでに、少々余計な事まで口にしてしまったのだが、もちろんソレに美春は喰い付いて来た。
「温室? ……温室、って、お屋敷の裏の?」
「あ、はい。大きな藤棚がある……」
「さっ、さつきちゃんっっ、温室で……したの? 最初から、外?」
「え……、そ、外、って……。温室は〝外〟ではありませんわ……。屋根がありますし……」

 〝温室〟と聞いて、好奇心が輝きだす美春と、〝外〟と言われ、またこんな事まで話してしまう自分に動揺する紗月姫。
 温室には確かに屋根はある。しかし、だから〝外〟ではない、というのは少々違うだろう。

「神藤さんって、意外と……、へーぇ、そうなんだぁ……、ふぅん、やーだ、もぅっ、ご馳走様っ」
「みっ、みはるさんっ?」
 美春のニヤつきが止まらない。今まで恋の話など一切出来なかった紗月姫が口にする想いは、とても新鮮で可愛らしく、美春の心を和ませた。
 〝辻川紗月姫〟として時折見せる、凛とした冷たい雰囲気とは真逆の彼女に、美春は愛しささえ感じてしまうのだ。

「こんなに可愛らしい紗月姫ちゃんを見られるようになるなんて。神藤さんに感謝しなくちゃ」
 美春の言葉に、紗月姫は頬を淡く染め、幸せそうに笑った。




「美春様は、どうなさったのでしょうね?」
 帰りの車の中で、ハンドルを握りながら神藤は首を傾げた。
 コッソリと助手席へ乗せてもらい、ハンドルを握るその腕に見惚れていた紗月姫が、ハッとして彼の横顔に目を移す。
「え? 何が?」
「お嬢様とご一緒に応接室からお戻りになられてから、ずっと含み笑いで私を見ていたのですが……。そういえば、『風邪ひかせちゃダメよ』 とか何とか……」

 紗月姫が温室での一件を美春に話したので、その事で美春が神藤をからかったらしい。
 そんな事まで言わなくていいのに。と、紗月姫は戸惑うが、戸惑う中にも、好きな人との事を誰かに話せる、という心の自由が嬉しくて愛しくて堪らない。
 美春のそんな冷やかしさえも、幸せのひとつとして感じてしまう。

 戸惑いつつも幸せを噛み締めていた紗月姫の額に、神藤の大きな手がかかった。
「神藤?」
 どうやら信号待ちのようだ。身を乗り出し、右手を紗月姫の額に当てている。
「どうしたの? 熱なんて無いわ」
 美春に「風邪を引かせないように」 と言われたので、何か気にしたのだろうか? しかし神藤は、どこか神妙な声を出した。
「微熱が……あるようです」
「そう? 自分ではあまり分からないけど……。帰ったら薬でも飲んだほうが良い?」
 神藤は何かを考えるように手を引くと、再びハンドルを握り、ちょうど変わった信号に合わせ、車を走らせ出した。
「……いいえ……。薬は、必要ないかと……」


 ――運命の悪戯が……。
 チラリ、と、顔を覗かせた……。――




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