客
――ヂョキンッ
「前に働いてた店での話なんですけどね。そこ、綺麗でいい店だったんですけど、その店が建つ前、そこには一軒家が建ってたんですよ」
――ヂョキンッ
「その一軒家は火事にあっちゃったみたいでして。なんでも僕より前からそこの店で働いてた先輩が言うには、そこで殺人事件があったらしいんですよ」
――ヂョキンッ
「……ええ、僕も驚きましたよ。なんでも、旦那さんが奥さんをメッタ刺しにして殺した後、家に火を付けたらしくて。その後に建ったのがその店だったんです」
――ヂョキンッ
「それある日、僕がお店の後片付けしてる時に。『なんか焦げ臭いなぁ』と思ったんです。それで、機械の故障かなぁと思って点検したんですけど、何ともない。まぁいいかぁ、なんて思って帰ろうとしたら、一瞬、鏡の中に――」
――ヂョキンッ
「――ボロボロに焼け焦げた、誰かが立ってるのが見えたんです」
ヂョキン。
僕は鏡の中を覗き込み、そのリアクションを確認した。
そこには青ざめた、女性の顔があった。
あ、引いてる。マズい。ちょっと怖すぎたか。僕は咄嗟に営業スマイルを引き出してきて、
「まぁ、だいぶ前の話ですけどね」
と付け加えた。
「……めちゃくちゃこわいじゃないですかぁ」
『なにか“こわい話”ありませんか?』と振ってきたのはそっちのくせに、泣きべそをかいたような顔で言ってくる。
「あはは、ごめんなさい」
僕は笑顔で謝りながら、再び鋏を動かし始めた。
*
「ありがとうございました」
笑顔で女性客を見送った。二十歳くらいだろうか――トリートメントしたてのツヤツヤとしたセミロングの髪が、歩くリズムに合わせてフワフワ揺れる。
こわい話は苦手な人もいるので、求められないと話せないというのは難点だけど、ぼくの鉄板“ホラートーク”は、今日も役に立った。“こわい話が好き”というお客様は、数ヶ月に一回くらいはいるのだ。今までこの話は何回もしてきているけど、この話がウケなかったことは、一度だってない。みんないいリアクションをしてくれるのだ。僕もこの話は割と気に入っている。
――唯一、あの話に出てくる“前に働いていた店”というのが、“今働いているこの店”だという、笑えない一点を除けば。
しかし、前は夜になると頻繁にした“焦げ臭い匂い”や、何故か異様に“熱のこもった場所”、“鏡の中の焼死体”は、最近は現れなくなった。……僕の霊感が弱まったのだろうか――? それはよく、わからないのだけれど。
――カラン、カラン
「いらっしゃいませぇ」
咄嗟に音に反応し、挨拶をした。入り口を見るとそこには、ウチに通い始めて四年くらいになる常連、水木肇くんが立っていた。確か……いまは高校二年生だったか。
「おぉ、いらっしゃい。肇くん」
肇くんが最期に来たのは、確か半年くらい前だった。それまでは二ヶ月から三ヶ月くらいのペースで通ってくれていたので、もう別の美容室に通い始めてしまったのだろうかと思ったことがあったが、どうやらそんなことはなかったようだ。今までになく、髪が伸びている。
そして、どことなくやつれたようだった。――そういえば前に来た時、ちょうどさっきまでしていた、“あの話”をしたんだっけか。
肇くんは少し隈のある目で僕を見て、無言で会釈をした。
目が笑っていない、口だけの笑みを見せて。
*
「今日はどうする?」
僕が鏡の中の肇くんに問うと、彼は「バッサリいっちゃってください」と小さく言った。
「スッキリしたいんですよ」
どこか、疲れているような声色だった。
――
――ヂョキンッ
「なんか、痩せた?」
何気なく聞いた。すると「あんまり最近食欲なくて」と返事が返ってくる。
「……あんまり眠れないんです」
ヂョキン。
その時。切り落とした髪の毛が一瞬、ふわりと宙に舞った時、ある匂いが鼻に付いた。
何かが“焦げる”匂いだ。嗅いだ覚えのある、匂いだった。
久しぶりにそれを嗅いだ気がした。ただ木の焦げる匂いじゃないのだ。もちろん魚が焦げるような匂いでもない。これは――。
鏡を見ると、肇くんが鏡越しにこちらを見ていた。その目は、どこか虚ろだ。
さらに違和感を感じた。肇くんはそれまで、いつも髪を切られている時は、お決まりのファッション雑誌を読んでいたのだ。初めの方は僕が持って来て渡していたけど、途中から彼は自分で持ってくるようになった。それが、今日はない。食い入るように、こちらを見ている。
「……今日は雑誌、いいの?」
鏡の中の肇くんは、ただゆっくりと頷いた。
――ヂョキンッ
少しの間、沈黙が続いた。ロックミュージックが控えめに流れる店内に、鋏の無機質な音が響く。ちらりと鏡を覗けば、鏡越しに僕を見る肇くんと目が合う。その視線に僕は、不気味なものを感じた。
思わず、
「……どうしたの?」
と声をかける。すると肇くんは小さく笑って、とつとつと話し始めた。
「この前、“こわい話”、してくれたじゃないですか」
「……“こわい話”?」
――ヂョキンッ
「はい。“鏡の中に立つ、焼死体を見た”って話ですよ」
――全身が赤黒くて、たくさんの刺し傷がある、黒い目をした、もうほとんど炭みたいになってる、“アレ”ですよ。
……肇くんはそう続けた。
全身に鳥肌が立った。脳裏に映像が浮かぶ。あの日、鏡の中に見たものだ。
そして、続けざまに疑問。なぜ肇くんは僕の見た“それ”の、ディテールを知っているのか。前回話した時、そこまで詳しく説明しただろうか。……いや、どのお客さんにも、そこまで詳しく見た目を説明したことはなかったはずだ。
「……それがどうしたの?」
――ヂョキンッ
「あれ、ウソでしょう」
――
「……ウソじゃないよ」
――ヂョキンッ
「いや、そうじゃなくて」
――
「“前に働いてた店”。ってとこですよ」
――
背筋を冷たい汗が、一筋流れた。手を止め、鏡の中でこちらを睨みつける肇くんを見る。
「“ここ”なんでしょう。“焼け落ちた家”があったのは」
――
何も言えなかった。なぜ知っているのか。
確かに、ここにその家はあった。けれども、その事件があったのは二十年以上も前のことなのだ。なにか――インターネットか何かで調べたのだろうか。それとも、当時の新聞を図書館などで見て――。
……その時、僕はあることに気がついた。ずっと肇くんと目を合わせていたはずなのに、その目が実は、僕を見ていないことに。彼の目は僕の目から外れて、僕の背後を見透かすような目で見ている。
――急に、背中が暑くなってきた。まるで僕の背後に、暖炉でもあるかのような――。
――何かが燃えているかのような――。
鏡の中には何も写っていない。何も、居るはずはない。わかっていても、振り返ることができなかった。鋏を持つ手が、ふるふると震えた。
「お返しします」
肇くんは口元だけで笑って、そう呟くように言った。