美容室
――ヂョキンッ――ヂョキンッ
清潔な白に満たされた空間に、鋏の音だけが響く。
――ヂョキンッ
「……最近どうなの? 肇くん。どっか出かけたりした?」
――ヂョキンッ
「いやぁ、どこも行ってないですね」
――ヂョキンッ
「そっかぁ……」
――ヂョキンッ
「……ホラー小説ばっかり読んでますよ」
「……ホラー?」
――
俺の背後に立つ美容師、山村さんは鋏の動きを止めた。眺めていたファッション雑誌から目を上げると、鏡の中で山村さんと目が合った。
「……はい。最近凝ってまして」
――ヂョキッ
「ホラーかぁ」
山村さんは呟くようにそう言うと、俺の後頭部の辺りを撫でて、髪の長さを確認する。
俺は近頃、先ほども言ったようにホラー小説にハマっていて、図書館から借りてきては貪るように読んでいた。スプラッター系や怪物モノはあまり好きではなく、特に好きだったのはいわゆる“怪談”だった。日本に古くからある、幽霊モノが好きだった。
そしてフィクション作品にも飽きはじめた俺は、出会う人には必ず、こんな質問を浴びせかけるようになっていた。
「山村さんって、霊感あります?」
――ヂョキンッ
鏡の向こうの目が、上目遣いに一瞬、こちらを見た。そしてすぐにその目を俺の頭に戻し、手を動かすと、作業しながら言った。
「……あるよぉ」
――ヂョキンッ
待ってましたと言わんばかりに、ニヤリと笑ってみせる。
「え、マジっすか」
俺は素直に驚いた。この質問をして「ある」と返してきた人は、今まで一人だっていなかったのだ。
「うん」
山村さんは慣れた手つきで鋏を動かしながら、語った。
「小さい頃から何かボンヤリしたものが視界の端っこに映ったりすることは良くあったのね。それで……(――チャキッ、チャキッ)……これは前働いてたお店での話なんだけど、そこが結構“でる”とこでさ」
――ヂョキンッ
「綺麗な新しいお店だったんだけど、それが建つ前、そこには一軒家があったんだって。なんでもその家は火事にあっちゃって、焼け落ちちゃったらしいんだけどね。でも、そこで前から働いてた人に聞いたら、これがもうびっくりでさ。……そこに住んでた人、夫婦だったらしいんだけど、旦那さんが奥さんを包丁でメッタ刺しにして殺した後、家に火を付けたんだって」
――ヂョキンッ
俺は、話に聞き入っていた。雑誌を読むのも忘れ、鏡の中で動きながら語る、山村さんから目を離さなかった。
「それである日僕がお店に残って後片付けをしてたら、なんか急に焦げ臭いな、と思ったの。それで、何か機械が付けっぱなしになってるのかなと思って点検したんだけど、何も付いてない。まぁいっか、って思って帰ろうとしたら、一瞬鏡の中にさ――」
――ヂョキンッ
「――ボロボロに焼け焦げた、誰かが立ってるのが見えたんだ」
ヂョキン。
俺は瞬間、目を伏せた。
想像してしまったのだ。鏡の中に映る、焼け焦げた死体。
それが立ち、こちらを見ている。刺し傷による無数の縦長の穴と、眼があったであろう場所の深い窪みが、こちらを向いている。
「どう? こんな話は」
「……めちゃくちゃこわいっス」
あははは、と山村さんは笑った。俺も笑ったが、鏡の中には引きつった笑顔の自分の顔があった。
「……こんな感じでどう? まだ少し切れるけど」
俺の髪を切り終えた山村さんは折りたたまれた三面鏡を広げ、俺の後頭部を映した。
「あっ、はい。このくらいで。大丈夫です」
俺は正面の大きな鏡と、背後の三面鏡によって作られた複雑な鏡の世界を、直視することができなかった。反射しあったどれか一つに、何かが映っているような気がして。
「よし。じゃあ、一回流そうか」
山村さんは俺が身体に巻いていたポンチョのようなカットクロスを脱がせると、シャンプー台へと誘導した。
一人がけのソファのような椅子に座らされると、山村さんが背もたれを倒す。
――視界に天井が映った時、俺は息を呑んだ。
そこには、今にも崩れ落ちそうな焼け焦げた木の天井があった。そしてその表面には、まるで張り付いているかのように、一人の人間の姿が浮かんで見える。
背後の天井に擬態するかのような色、模様で――性別が判らない程に――その天井と同じく焼け焦げている。身体中に縦長の、裂けたような穴がある。眼球が嵌っていたのであろう、落ち窪んだ二つの穴と、俺の両目が、一直線上に並んだ。
それは、一瞬の出来事だった。すぐに俺の目を塞ぐように、山村さんが厚いガーゼを両瞼の上に被せる。
強い勢いで噴出する、シャワーの音が聞こえた。そして何か、焦げ臭い匂いが鼻をつく。
――あれは、今も俺を見ているのだろうか?
「熱くない?」
「……はい」
自分の声が震えているのがわかる。
髪を洗い流して再び目を開いた時、そこには真っ白な天井があった。
――そして俺は、先ほどの山村さんの話の中に“ウソ”が混じっていたことに、その時徐々に気が付き始めていた。