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炬燵

作者: 桃園沙里

『今日も仕事が見つからなかった……』

 スーツ姿の一人の男が競馬場のイスでぼんやり遠くを見ていた。男の名は沢田健太。41歳。

 先月、大学卒業以来勤めていた会社を自主退職した。不景気のこのご時世、沢田の会社も多分に漏れず、経費削減の人員整理が行われた。沢田は、退職金上乗せという甘い言葉に誘われ早期退職を志願したのである。

 沢田は働き盛り、大手企業出身の自分なら仕事はいくらでもあると思っていた。しかし、仕事はなかなか見つからず、会社に行くふりをしては職安や、図書館、そして競馬場などで時間をつぶす日が続いた。家族には会社を辞めたことを打ち明けていなかったのだ。会社を辞めた後も、妻には生活費を退職金の中から渡している。このまま職に就けなければいずれは貯金も無くなる。せめてもの足しにと思い競馬をやってみるが、余計な金を使うばかりになってしまった。

「なかなか当たらないようですな」

 不意に男の声がした。いつの間にか隣にハンチング帽を被った労務者風の男が座っている。春の暖かい陽気に似つかわしく、男は厚手のジャンパーを着ていた。ホワイトカラーではあるまい。沢田はひと目でそう判断した。ブランド物のスーツをきっちり着こなしたエリートの自分が、こんなさえない男に同等に話しかけられたことに少々プライドを傷つけられた。

 沢田は男の言葉に応えずに曖昧な笑みを浮かべた。

「実はね、私、いい物を持っているんだがね」

 男は古びたジャンパーのポケットから何やら取り出して見せた。手の平ほどの丸い化粧クリームの瓶のようだった。

「これはね、競馬の結果が見える薬でね、瞼に塗ると、勝ち馬が見えてしまうんだよ」

 沢田は『インチキ野郎』と心の中で思った。顔に出てしまったのか、その男は言った。

「嘘だと思っているんだろう。まぁ、試してみな。アンタが持ってる競馬新聞、次のレースは」

 沢田は素直に膝にあった競馬新聞を渡してしまった。

「第7レース、これを予想しよう。まず、ちょっと目を閉じて」

 男は沢田の目を閉じらせ、その瞼にひんやりとする薬を塗った。

「目を開けて新聞を見てごらん」

 沢田は言われた通りにした。すると何と、出馬表の馬の名前が赤く光って見えるではないか。沢田は目をこすった。新聞を裏返したり日に透かしたりもしてみた。

「見えたかい。じゃ、レースの結果を見ることにしよう」

 その後、男は何も言わなかった。沢田は半信半疑に新聞とレース場を交互に見やった。


「勝った」

 沢田が思わず呟いた声を男は聞き逃さなかった。

「ほら、どうだ?いい薬だろ」

「いや、たまたま、まぐれって事もある」

「それじゃ、もう1レース見てみるか」

 結局、二人は最終レースまで見てしまった。

「どうだ、納得したか?」

 男がにやりと笑う。沢田は唸るしかなかった。そこで男は、先程の薬の容器を取り出し言った。

「よければこの薬、分けたげるよ。一度付けたら洗い流すまで効果は続くし、お得な品だと思うよ。どう」

「しかし、そんな薬なら高いんだろう?俺は今、失業中で、余分な金はないよ」

 男は 言った。

「なんの、たったの千円、千円でどう?」

 沢田は即座に、男に千円札を渡した。そして男から薬を受け取ると、宝石でも扱うように大切にアタッシュケースにしまいこんだ。

「しかし、こんな薬があればあんたが使って競馬で稼げばいいのに、何だって」

 沢田が顔を上げると、いつの間にか男は消えていた。


「最近、早いのね」

 その日、午後八時過ぎに沢田が帰宅すると、玄関に迎えに出た今日子が言った。

 沢田はぎくっとした。が、今日子には他意はないようだ。心の動揺を気付かれないよう答えた。

「うん、残業するの嫌がるんだよね。こんなご時世だろ、残業代も節約って感じ」

「今、どこもそうみたいね。ま、仕事があるだけいいわよね。」

 今日子は何の疑いもなく言う。

「こう言っちゃなんだけど、美里の為にはいい事よね。お父さんするいい機会よ」

 沢田は後ろめたさを感じた。

「美里はもうメシ食った?」

 リビングのドアを開けると、ソファでテレビを観ていた美里が振り向いて言う。

「お帰りなさーい」

「ただいま」

 次の瞬間には美里はテレビに向いていた。

「ごめんなさい、美里と先に食べちゃったの」

 沢田はスーツを脱ぎながら答えた。

「いや、いいよ。子供が夜遅く食事するのは感心しないからな」

 今日子は更に遠慮がちに言う。

「美里の事なんだけど、ああ、先にご飯にするわ」


 沢田が一人で食事をするのを、今日子はお茶で付き合う。

「美里のことなんだけど」

 口をもぐつかせている沢田をよそに、今日子は話し始める。

「そろそろ、塾に通わせようかと思うのよ」

「塾って何の?」

 今日子は、当たり前でしょという顔をした。

「学習塾。もう五年生でしょ。早い子はもっと前から通ってるのよ」

「塾なんて行かなくたっていいだろう。小学生のうちは学校の勉強で充分だ」

 沢田はあせった。ただでさえ、これからの生活費が心配なのに、これ以上出費が増えるなんて困る。

「今時、そんな事言ってたら受験に受からないわよ。私立の中学に行くんだったら、今からだって遅いくらい。公園の横の近藤さん、四年生から塾に通わせてるんだって」

「私立の中学」

 初耳だった。娘の教育については今日子に任せきりだが、それにしても勝手に決めて貰っては困る。大体私立中学はいくら掛かると思ってるんだ。百万単位の金が掛かるんだぞ。中学に入れば、そのまま高校も、大学も行くだろう。それら全部が私立だとしたら、大変な額になる。娘の教育は大事だが、今の沢田にはその余裕がない。

「俺は反対だな。公立の学校でいいじゃないか。子供のうちに受験を経験させるのはどうかな。美里が行きたいって言ってるのか?」

「うん、美里も行きたいって」

「どうせ、お前が洗脳したんだろ。俺もいろいろ会社の人に訊いてみるから、決めるのはちょっと待ってなさい。今すぐじゃなくていいんだろ」

 今日子はしぶしぶ承知した。


 以前の沢田は大手企業の営業課の係長だった。沢田が入社したのはバブル末期だったが、会社の業績も良く、新入社員も大勢採っていた。が、その後景気が下降するに連れ、採算がとれない部署は容赦なく切り捨てられ、余剰人員の削減が行われていった。沢田はかろうじて会社に残ってきたが、今後の見通しが立たない。沢田が係長になって数年たつが、課長になれるめどは全くない。何しろ同期が大勢いるのだ。同期の仲間は皆、係長のままでいる。業務縮小で部署が減っていく中、もはや、これ以上のポストは望めない。昨年は管理職手当も減らされた。沢田の心の中に将来に対する不安が広がり始めていた。そんな時に早期退職の話が飛び込んできたのだ。

 早期退職に応募した事も今日子には何も相談せずに決めた。次の仕事が決まってから話そう、妻には余計な心配をかけまいという気持ちからだ。すぐに再就職が決まることを見込んでの事だったが、そう簡単にはいかなかった。この不景気の中、四十歳を過ぎた何の技術もないサラリーマンにそう簡単に仕事は見つからなかった。沢田の考えが甘かったと謂わざるを得まい。 子供は、娘が一人。小学5年生、これから教育費が掛かる。十年前、東京郊外に買った家のローンもまだ二十年分は残っている。

『早まったかもしれない』

 沢田は後悔し始めていた。たとえ給料が下がっても、あのまま会社に残った方がよかったのではないか、そんな思いが沢田の頭によぎる。このまま仕事に就けなかったら、そのうち貯金も底をつき一家は路頭に迷う。沢田はあせりを感じていた。今からでも今日子に打ち明けて、パートで働いてもらおうか。しかし、今日子は常日頃から俺が一部上場企業に勤めているのを誇りに思っているし、激怒するのは目に見えている。

 そんな時にあの男と出会った。沢田には、まさに天の助けと感じられた。受け取った薬は、ただの化粧クリームの瓶と変わりない。普段の沢田の心理状態なら、あのような現実離れした話を信じる事はない。沢田は藁にでもすがりたい気持ちだったのだ。

 沢田はその晩、寝床に入ってからもなかなか寝付かれなかった。

『やはりだまされたんじゃないか』

 見ず知らずの男から訳の分からない薬を買ってしまったことを後悔していた。千円という金が惜しいのではない。常識で考えればあり得ない話を信じて、一瞬でも夢を見てしまった自分が腹立たしかったのだ。スーツ姿のいかにも場慣れしていない自分は、格好のカモに見えたろう。

『くだらない事を考えずに、明日も職安へ行って仕事を探そう』

 沢田はあきらめた。


 翌朝、沢田はいつものように家を出ると職安に向かった。

 職安に着くと、昨日と同じ作業をする。求人票をパラパラとめくり、丹念に仕事を探す。中からこれといった物に目を付けると係りに申し込む。辺りを見回すと同年齢と思われる男性がかなりいる。背広姿の者もいれば、カジュアルなポロシャツ姿の者もいる。彼らは家族も承知しているのだろう。

「先方に確認しますので少々お待ち下さい」

 係りの男は電話を手にする。その間、沢田は隣のカウンターの会話を訊くとも無しに耳にする。

「仕事は沢山あるんですよ。選びさえしなければね」

 カウンターの中の男は言う。

「みなさん、あれはいやだ、これはいやだ、給料はいくら以上、っていろいろ選り好みされるから」

「お待たせしました」

 沢田の前の男が向き直った。

「こちら、既に決まってしまったそうです」

 係りの男はそれだけ言うと、何も言わなかった。

「判りました」

 沢田は一礼して席を立った。


 気付いた時、沢田は競馬場の前に来ていた。

 沢田はため息を付いた。どうせ、もう今日は行く所もない。競馬をして時間をつぶそう。

 沢田は競馬場のトイレでこっそりアタッシュケースから昨日の薬を取り出し、瞼に塗った。

『こんな薬、信じているわけじゃない。いかさまを暴いて、あの男に文句を言うんだ』

 沢田は自分にそう言い訳した。しかし沢田は、売店で買った競馬新聞を見て、息を飲んだ。沢田が手にした出馬表は、全て一頭の馬の名前だけが光っていた。


 沢田がその不思議な薬を手にしてから一ヶ月がたった。

 沢田は毎日競馬場へ通い詰めた。競馬のない日は競輪場へも出掛けた。何しろすごい。必ず予想が当たるのだから。家族にばれないよう、土、日はやらなかったが、それでも一ヶ月でそれまでの沢田の年収を上回る額を手にすることが出来た。沢田の中から再就職先を捜す気持ちが薄れてしまったのは言うまでもない。沢田は職安へ通わなくなった。


「夏休みはいつから?」

 今日子がそう訊いてきたのは、沢田が会社を辞めてから4ヶ月ほどたった7月下旬のことだった。沢田はぎくっとした。妻は気付いているのではないだろうか、いやそんなはずはない、と沢田は動揺を隠しながら言った。

「ああ、いつだっけな……明日、会社のカレンダー見てくるよ」

「もう、今からじゃ旅行は無理ね」

 毎年のことだ。夏休みといってもどこへ出掛けるわけでもない。妻の実家に遊びに行くくらいだ。既に両親を亡くし、一人っ子であった沢田は、親戚ともほとんど行き来していないので、付き合いは妻の親戚だけである。妻の実家には、妻の母と妻の兄一家が住んでいる。里帰りと言っても、実家は埼玉県。日帰りで大丈夫だ。大して金も掛からずに済む。

「美里が中学に入ったら忙しくなるから、旅行でもと思ったんだけど」

「もう、予約取れないだろ」

 どうして今日子は次から次へとお金が掛かることを思いつくのだろう。沢田はあきれた。

 翌日、まだ会社に残っている友人に電話して夏休みの期間を聞き出す。忘れかけていた罪悪感が沢田に蘇る。しかし、以前ほどの罪悪感はない。経済的余裕が沢田を強気にさせていた。


 やがて秋が訪れ、競馬シーズンが始まった。沢田は相変わらず会社に行くふりをして家を出、競馬場へ通った。今の沢田にとって、競馬をすることが仕事となっているのだ。実際、貯金はどんどん増えて行くし、会社へ通っているような気分だった。もはや、沢田には罪悪感はなかった。


 ある日、いつものように沢田は競馬場のイスに座って考えていた。

 薬の残りはあと瓶に半分ほどある。この調子で稼いでいけば、薬を使い果たすまでには一億円は稼げるはずだ。もし一億円貯まったら、その時は妻に打ち明けよう、会社を辞めたことを。ただ、この薬の事と競馬の事は黙っていよう。長年働いて稼いだ金と退職金とで一億貯まったと言えばよい。そうだ。一億貯まったから会社を辞めたことにしてもよい。どちらにしても、一億あれば妻もそれほど怒るまい。もちろん一億円などこの先一生遊んで暮らせる金額ではない。それでも当分はお金の心配をしなくて済む。そのうち自分も仕事が見つかろう。

 沢田はそう決意すると、何となく心が軽くなったような気がした。


 その日、沢田が家に帰ると、いつもと様子が違っていた。

 玄関のチャイムを押しても返答がない。門灯も部屋の明かりも点いていない。沢田は不思議に思いながら玄関の鍵を開けた。中は真っ暗である。午後八時、まだ寝る時間ではない。どこかへ出掛けたのか。沢田がリビングの明かりを付けるとダイニングテーブルに手紙が載っていた。

『美里が交通事故に遭いました。市立病院に来て下さい。今日子』

 美里は沢田の一人娘である。沢田は慌てて家を出てタクシーを拾った。

 沢田が市立病院の救急病棟に着いた時には美里は既に亡くなっていた。

 霊安室に案内された沢田の目に、茫然自失として座り込んでいる妻の姿があった。沢田はそんな今日子に声を掛けた。

「どうしたんだ、一体」

 今日子は身動きしなかった。今日子の母が沢田に気付いて詰め寄った。

「健太さん!貴方、一体今まで何してたの?携帯に電話してもつながらないし、会社に電話したら半年も前に辞めたって言われて、顔から火が出たわっ。どういうことなの?なんでそんな大切なこと、黙ってたの。説明してちょうだいっ」

 沢田は言葉に詰まった。

 今日子の兄が言った。

「美里はね、出血多量で輸血が必要だったんだよ。うちはみんな血液型合わないから、いろんな人に電話したんだ。でも足りなかった。沢田君なら輸血出来たのに、会社にも行かずに一体、どこで何をしてたんだ?」

 ただうつむくばかりの沢田に、ようやく今日子が声を掛けた。

「……娘の大変な時に貴方ときたら、それでも親なの……?情けない」

 何も言えなかった。

「すまない……」

 沢田はただ、頭を下げるしかなかった。


 美里の葬儀の翌日、今日子は美里の遺骨を抱えて実家へ帰った。後には沢田1人が残された。家族三人で暮らしている時には手狭に感じた家だったが、今は広く感じる。自分の家ではないような妙なよそよそしさがあった。まるで家までもが沢田を責めているかのような。今まで家族のために一生懸命働いてきたのに、その結果がこれか……沢田は少々自虐的な気持ちになった。

 やがて今日子から離婚届が送られて来、沢田は判を押した。美里が死んだ時からこうなることは予測していたので、何も感じなかった。


 今日子に一戸建ての家を譲り、残っていた家のローンを支払い、幾らかの慰謝料を渡し、1人暮らしするためのアパートを借りると、沢田は文字通り一文無しになった。

 沢田には不安はなかった。自分にはまだあの薬がある。また競馬で稼げばいいのだし、家族を養うこともない。自分一人暮らしていくだけなら簡単だ。これからは自分の好きな時間に起き、好きなことをして好きな時間に寝る、気楽な生活だ。沢田は六畳一間の部屋でごろんと横になった。

 沢田は、以前のように毎日競馬場へ行く必要が無くなった。昼間ぶらぶらしていても、家族や近所に憚る事はないのだ。遅い時間に目を覚まし、近所のコンビニへ朝食のおにぎりと競馬新聞を買いに行く。アパートの部屋で競馬新聞を眺めながら、ゆっくりおにぎりを食べる。それから場外馬券場へ行って馬券を買う。その後は場外馬券場で過ごすこともあるが、大抵は家でテレビを観ながらレースの結果を確認する。今までは家族に憚って土日のレースには手を出さなかったが、今は違う。休日のメインレースも堂々と観に行かれる身分になった。

 そして、また例の薬のお陰で、沢田の貯金はあっという間に数百万という数字となった。沢田一人食べるだけで余分な物も買わないから、生活費もそれほど掛からない。沢田は金銭的に何も不安を感じていなかった。


 沢田が自由気ままに暮らしているうちに季節は冬に変わった。12月になって、沢田は一人用の炬燵を買った。それが、一人暮らしをして以来始めての大きな買い物だった。

 一人用の炬燵に入り、一人でテレビを観ていても、沢田は別段寂しいとは感じなかった。あまりにもいろいろな事が一時に起こりすぎて、沢田の感情は麻痺してしまったのかもしれない。会社勤めをしていた頃がもう遠い昔のような気がした。家族と過ごした日々も幻だったのではないかと思うほどだった。朝遅くまで寝ていても文句を言われないし、タバコを吸いにベランダへ出なくても済む。夜中にケーキを食べるのも自由だ。沢田はそうして毎日を競馬とテレビでぼんやりと過ごしていた。

 その夜、テレビで『紅白歌合戦』が始まった。

「ああ、そういえば大晦日だった」

 沢田はその時気付いた。近所の蕎麦屋へ年越しそばを食べに行こうか、いや、よそう、どうせどこへ行っても混んでいるし、中年男が一人で年越しそばを食っている姿など、世間の同情を買うのがオチだ。コンビニで何か買って来よう。そうだ、正月早々食糧を買うのもみっともないから、レトルト物を買いだめしておこう。

 そう考えて沢田は苦笑した。自分の中にまだ世間体を気にする心が残っていたとは。

 コンビニから帰った沢田は一人分の蕎麦を茹でた。炬燵に入り、『行く年来る年』を観ながら一人で食べる。ブラウン管では既に正月気分となったタレントがはしゃいでいる。

 沢田は生まれてからこれまで一度も『行く年来る年』を一人で観たことがなかった。親元に住んでいた頃は親と観ていたし、学生時代は友人と出掛けたりもしたが、結婚してからはずっと妻や子供が一緒だった。

「年の初めのためしとて…… 」

 テレビから除夜の鐘が聞こえてくる。

 突然、沢田の目から涙がこぼれた。それは娘の美里が死んだ時以来の涙だった。なぜかわからぬ、言いようのない感情が波のように押し寄せた。こみ上げてくる涙をこらえきれずに、沢田は一人炬燵にもぐり、嗚咽した。

 幸せだったのだ。あれは幸せだったのだ。つまらないテレビでも一緒に笑い、他愛のない会話でもあれは幸せだったのだ。今、自由を手に入れた。お金にも不自由しない。しかし、このお金は誰の為に使う?心地よい家に住む為に、妻を喜ばせたい為に、娘にいい暮らしをさせてやる為に、働いて稼いでいたのではないか。家族がいるからこそ、自分は一生懸命働いてきたのだ。今は自分がどんなに大金持ちになっても誰も喜んではくれない。誰も一緒に『行く年来る年』を観てくれない。年越しそばを一緒に食べる相手もいない。

「人間は……」

 沢田は思った。人間は、自分一人では生きていけないのだ、一緒に分かち合う誰かがいるから幸せなのだ。そう思うとまた涙が出てきた。


 年も明け、また競馬に明け暮れる日々となった。ある日、沢田は薬がもう残りわずかなことに気付いた。あと一回、せいぜい二回といったところか。沢田はため息をついた。これからは貯金を食いつぶす生活か……。しかし、もうどうでもいい。のたれ死にしても誰も悲しまないし、たいした事じゃない。そう思いながらも沢田はどこか感傷的な気持ちになって、最後の日には場外でなく、競馬場に行こう、と思った。

 競馬場のイスに座って、沢田は容器の縁にこびりついた微かな薬の残りを指でこそぎとった。もうこれが最後であろう。思えば不思議な事だった。この薬があるから今の自分の生活がある。これがなければ今頃どうなっていたか。あの日あの男と会わなければ、きちんと再就職して、家族と幸せに暮らしていただろうか。男からこの薬を買わなければ……。

「どうだい?役に立ったかい」

 不意に耳元で囁かれた沢田は驚いて腰を浮かせた。

「望み通りのお金が稼げただろ」

 そこには沢田に薬を売った男がいた。いつかのようにいつの間にか沢田の横に座っていた。

「冗談じゃない。あの薬のせいで俺は」

「金持ちになれた、だろ。あの時、アンタは仕事が見つからず生活費のことばかり考えていた。だから、あれをあげたんだよ。感謝して欲しいね」

「感謝だって?ふざけるなよ。おかげで俺は離婚して家族も、家も無くしたんだぞ」

 沢田は男のジャンパーの腕に掴みかかった。男は沢田の手をほどきながら、冷静な顔で言った。

「それはあの薬のせいじゃないだろうよ。再就職先が見つからなかったのは、アンタが捜さなかったんだし、奥さんに離縁されたのもアンタが会社を辞めた事を隠してたからだろ。娘が死んだことは気の毒だが、あの薬にゃ関係ない」

 沢田はグッと言葉を飲み込んだ。

 そうだ、確かにその通りだ。この男に言うのはただの八つ当たりだ。こうなったのは全て自分が悪いのだ。

 沢田は自分を責めた。そんな沢田の心を読んだかのように、男は言った。

「まぁまぁ、自分を責めるなよ。人間は誰だって間違いはあるさ。もう一度、やり直せばいいんだよ。そうだろ」

 沢田は男が自分に説教しているのかと思った。が、男は言葉を続ける。

「ここに『やり直しの薬』がある。これは、人生をやり直す事が出来る薬だ」

「やり直しの薬……」

 今度は、男はポケットから小さな瓶に入った錠剤を取り出した。

 沢田はどんなに現実離れした薬を出されても、もう驚かなかった。

「これを飲んで、過去の自分が戻りたい時期を強く思い念じなさい。そうすればもう一度その時に戻ってやり直す事が出来る。さぁ」

「過去に戻れる……」

 沢田は、妻と娘と三人で山形へさくらんぼ狩りに行った去年の春を思い浮かべ、手を差し出した。あの時は楽しかった。娘の美里は生まれて初めての果物狩りにとてもはしゃいでいた。その写真もアルバム全部妻が持って行った為、沢田は思い出に浸ることすら出来なかったのである。

 沢田は差し出した手を宙に浮かせたまま、動かさなかった。

「どうした?昔に戻りたいんだろ?アンタの心の中は、幸せだったあの頃に戻りたいって気持ちでいっぱいだろ。その願いを叶えてやるって言ってんだよ。悪い話じゃなかろう」

 そうだ。あの頃に戻って、会社の早期退職になど応募せず、給料が下がっても一生会社にしがみついて生きていくんだ。そうすれば、俺は家族を養い、家族三人幸せに暮らせるんだ。しかし……。

「やっぱり、辞めるよ」

 沢田は差し出した手を下に下げた。

「ええ?」

 男は聞き間違いかというような顔をした。

「その薬を貰って過去に戻れたとしても、俺はまた同じ過ちを繰り返すかもしれない。今、実際に薬に頼って自分で働くことを辞めてしまった。その薬を貰ったら、また、いつでもやり直しが出来るから、って気持ちにならないとも言えない。うまく言えないけど、そうやって薬に頼って、俺は自分が人間としてダメになってしまいそうな気がするんだ」

 男はあきれた顔をした。

「だって、アンタが望んだんじゃない、昔に帰りたいって。せっかく希望が叶うのに、なんで辞めるんだ?」

「今までの俺は弱かったんだよ。もう薬に頼るのはやめだ。自分の人生、自分で責任を持つよ。出来るかわからないけど」

 そう言いながら、沢田は自分の気持ちが落ち着いてくるのを感じた。そうだ、やり直そう。これから、仕事を探して働こう。家族はもう出来ないかもしれないけど、誰かと喜びを分かち合える事もあるかもしれない。そう決心すると、男に何を言われても気にならなくなった。

「まったく、何考えてるかわからないね、人間は」

 男は吐き捨てるように言った。

 沢田はふと、男を見た。男は初めて会った時と同じ、ベージュのジャンパーとよれたハンチング帽姿だ。

 沢田は訊いた。

「ところでアンタ、一体何者なんだい?」

 男はしらっとした顔で言った。

「俺?俺は福の神さ。こうやって人間の願いを叶える為にあちこち回ってるんだよ」

「福の神?」

「そう、福の神にも階級があってね、たくさんの願いを叶えるほど、階級があがるんだ。お陰で一つ、無駄足しちまったよ」

  沢田はポカンと口を開けたまま男を見ていた。

「ま、また何か願い事があったらここに来なよ。ここには定期的に顔を出してるからさ。ここはいいんだよ、願い事を持った人間が沢山集まるからね。と言っても、その調子じゃもうアンタは来なさそうだな」

 男はよっこらしょ、と声を掛けて立ち上がり、よたよたと二、三歩行ってから振り向いた。

「そうそう、駅前の定食屋で求人の張り紙が出てたよ。それじゃ、な」

 そう言い残して男は人影に消えていった。沢田はぼんやり男が消えた跡を見ていた。ひんやりとした空気が沢田の頬を差す。冷たいが心地よい、新年の引き締まった空気だった。

 沢田は立ち上がり、手に持っていた薬の瓶と、競馬新聞をゴミ箱に捨て、歩き出した。

 沢田はもう振り返らなかった。

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