私の名前を呼んで欲しいの
あなたは、こんな言葉をご存知だろうか。
『月が綺麗ですね』
そう、かの夏目漱石が言った言葉である。
愛している、という意味らしい。
初めてこの言葉を聞いた時、私は情緒も風情もとんと理解できなかったものだから、素晴らしさがわからなかった。
「愛しているって率直に言えばいいのよ。まわりくどい男は嫌われるわ。」
ぼそりと誰に言うでもなく呟いた。
「俺はそうは思わないけどな。想い人とその綺麗な月を見て、一層綺麗に見えるだろうよ。月光に照らされる彼女も素敵だろうな、なんて考えてみたら更に素晴らしく思える。お前はもう少し考えてみたらどうだ?」
私の呟きをしっかりと拾って律儀に返答までしてくれたこの男。名前は長野隼也。
人の心の繊細なところまで理解して、こういうものが大好きなのだ、この男は。
「…私は理解できないししようとも思わないわ。深く考えるのは嫌いなの、あなたと違ってね。」
ーーーあなたは嫌いじゃないけれど、
と言う言葉は口に出さずに心の中にとどめて置いた。
正反対な私たちだけれど、大抵一緒にいるし、隼也といる時間は不思議と心地いい。
わざわざ口に出して言うことでもないし、面と向かってそれを言うのはやはり気恥ずかしい感じがした。
それに何も考えずにスルリと口から出てしまった嫌味を気にされない程度には仲が良いのだ。
一般的に見ても仲はいい部類にはいるだろう。
ーーーとりあえず家に戻ろう。講義のレポートをまとめないと。面倒だから頭はあまり使いたくないのに。大学生は大変ね。
そう思いながらサッと机の上を片付け、鞄にテキストやらノートやらを詰め込み帰る準備をする。
部屋を出ようとした時、隼也に呼び止められた。
「何か用でも?早く帰ってレポートをまとめたいの。これ、期日もう直ぐなのよ。」
確か3日後くらいだったかしら、今回あまり重要でない気もするけれど、内申を下げるわけにはいかないからちゃんと出さないと、などとぼんやり考えながら隼也の返答を待つ。
「あー、別に対したことじゃないんだけどさ。レポートの期日3日後だろ?期日の日にさ、夜ちょっと空いてるか?」
特に予定もないし数時間くらいなら構わない、と返すと、じゃあ9時にここに来て欲しいと言われた。
「別にそれは構わないけど…何をするの?」
それはその日にわかることだ、とはぐらかされる。
くだらなかったら怒るわよ、と言い今度こそ帰路につく。
ーーーーーーー
翌日。
レポートのまとめも終わり、学校のカフェテリアで友人とお茶をする。
コーヒーを半分くらい飲んだところで、友人がレポート締め切り日に遊びに行こう、と誘ってきた。
「…ごめんなさい、行けないわ。その日にね、隼也に呼ばれたの。夜9時に来いって。何するのか言わなかったのよ、アイツ。」
何するのかわからないし、見当もつかない。隼也の考える事はいつだってわからないのだ。
「え…もしかして告白!?」
一気に色めき立つ友人。
そんな訳ないじゃない、と返しながら本当に何なのだと考えあぐねる。
「そもそも長野って凛音にどんな態度とってんの?」
そう言われ普段の行動を思い返してみる。
「…隼也、私の名前って呼んでくれたことないわ」
気のせいかとも思ったが、そんなわけでもなかった。隼也と出会って数年経つが、本当にただの一度も私の名前を呼んでくれたことがないのだ。自己紹介なんて最初にするのだし、名前を知らないわけでもないだろうに。
手の中のコーヒーが、急になんの味もしなくなったように思えた。
ーーーーーーーー
「遅くなって悪い」
と、隼也は自分から呼び出したくせに時間に遅れてきた。
「…で、どこに行くの?まさかずっと閉まった大学の前で話し込むなんて事はないでしょう?」
聞くとここの近くの丘、と答えるので、目的もわからないまま2人で歩く。
他愛ない話をしていたが、やはり私の名前を呼んではくれなかった。
丘に着くと、コートを着ていても風が吹き少し肌寒かった。この季節上しょうがないけれど。
すると隼也はコーヒーを買ってくるから、少し待っててとどこかへ行く。おそらくさっき見かけた自販機だろう。
丘の端に立ち、景色を眺める。
夜景は割と綺麗だし、今日は星もよく見える。
「凛音」
風に押し流されてしまいそうな細やかな声が、ふと自分の名を呼ぶのが聞こえた。
だが、カツンと靴音を鳴らして近づいて来る人物を目にし、すぐに聞き間違いだと、再び景色に目を向けてしまおうとした。
彼がそんな声音を出すこともそうだが、何より自分の名を呼ぶなんてするわけがないのをよく知っているのだ。
その顔がいつもの馬鹿っぽい笑みではなく、とても穏やかな笑顔を象っていても、そんなのは理由にならない気がした。
しかし、そのいつになく穏やかな笑顔と視線がぶつかると、ハッキリとその口が動くのがわかった。
「凛音」
甘くやさしく余韻を引く声に、未だかつて名を呼ばれたことがない。
過去、私に愛をささやいてくれた人にだって、これほどの声は出せなかっただろう。
彼の瞳には今、見たこともないような愛おしさが見て取れた。
それと繋がるかのように、鼓動が早くなり、じわじわと熱が溜まっていく。
その熱は、まるで私を蝕む甘い毒のようで。
「凛音」
三度呼ばれたその名前に、声に、心臓が一際大きくドクリと鳴り、この感情の答えを脳に響かせる。
早鐘を打つなんて変な表現だとも思ったが、まさにこれだろう。
名前や呼び方なんて、どうでもいいと思っていた。そんなものに意味なんて感じ取ったことなどなかった。それなのに今、心がこんなにも苦しい。
こんなにも熱く、焦げ付くかのようで。
…理由なんて一つしか思い浮かばなかった。
その答えを導けないほどに、そしてそうやって出た答えに目をつぶって知らない振りをするほどに、経験もなく純粋な子供ではなかった。
ああ、目の前で愛おしげにこちらを見る男の顔が、こんなにも胸を締め付ける。
「…確信犯なんて、ズルいわよ」
目の前の瞳が揺れ、いつもの馬鹿っぽい笑みを浮かべ声を出して笑う。
「さあ、なんのことだか」
なんてワザとらしい。一方的にしてやられた感じがして、少し面白くない。これを狙って名前を呼ばなかったなんて言うのは自意識過剰かもしれないが、そうとしか思えないのだから本当にズルい。
その上月が綺麗ですね、なんて言ってくるものだから。
「ええ、月は確かに綺麗よ。私もそう思うわ。でも好きじゃないの。だって手が届かないでしょう?だから私は素直に言うわ、『愛してる』。…ああ、それとも私には手が届かないと思ったからそんなことを言ったの?」
と笑みを浮かべながら言う。
隼也は少し呆然としたが、すぐに不敵な笑みを浮かべカツッと靴を鳴らしこちらに詰め寄った。
浮かべていた笑みがだんだん消え、それと比例して瞳には熱が帯びていく。
「…言ってくれるな。じゃあ俺も、率直に言うとしよう。『愛してる』。」
強く吐き出されたその言葉は、私の耳に、脳に、心に、溶け込むかのようだった。
凛音、と再び呼ばれたその声に弾かれるように顔を上げると、唇を重ねられた。
その熱くいきなりのキスは、容易く凛音の思考を溶かしてゆく。
ーーーそれは、コーヒーの味だった。
fin.