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女子高生、坂東蛍子

坂東蛍子、猫に弁当を作る

作者: 神西亜樹

 轟は猫であり、哲学者でもある。T字路のカーブミラーに映る自身の姿を観察した結果、轟の中には人間並みの深い自我が覚醒し、以降そのカーブミラーの前に居座って自己探求の日々を重ねていた。そんな彼の姿を見た通行人は次第に轟に興味を示し出し、悩み事を吐露し、手を合わせ、今では様々な供え物を差しだして愛玩するまでになった。

 大半の供え物は食料品だったが、轟が真に欲しかったのは学術にまつわる品であり、それ以外の物品には大して有難味が湧かなかった。時折運よく本が供えられることもあったが、そのどれもが「おいしい煮浸し」だの、「小さな仔馬」だの、頼りない題名のものばかりで、残念ながら彼の飽くなき知的好奇心を満たすには到底至らず、彼は悶々と満足の行かない日々を過ごしていた。

 ある日轟は一羽のカラスと出会った。自我のある珍しいカラスである。互いに多くの悩みを抱える二人(一匹と一羽)はすぐに意気投合し、以降時折遭遇しては、束の間の談笑に花を咲かせるようになった。カラスは名をヒラと言い、本のある場所にも頻繁に出入りしている社会派の男だった。轟が自身に渦巻く知的好奇心の苦しみを吐露すると、翌日ヒラはヘーゲルの精神現象学を鉤爪に挟みこみ、目を輝かせる轟の前に落としていった。轟は哲学書の頁を捲りながら「自分はなんて罪深い存在なのだろう」と嘆息した。感銘の入り混じった嘆息だった。通行人はその姿を見て興奮気味に携帯電話で写真を撮り、満足げに頬を上気させた。


 朝の八時十分。轟が何気なく空を見ていると、東の方からヒラが本を抱えて飛んできた。歓迎の言葉を述べながら本を受け取り、轟は供え物の煮干しを彼にすすめた。

「なぁ旦那、坂東蛍子って知ってるかい」

 轟はヒラの言葉にヴィトゲンシュタインの論理哲学論考を読み進めるのを止め、顔をクシャクシャに顰めた。熱で縮んだビニール袋のような表情の轟に鬼気迫るものを感じたヒラは、何事かと一歩後ろに下がった。

「なんでその名前が出てくる?」

 轟は自身の罪深さに以上に自身を苦しめてくる何人かの仇敵を持っていた。彼らは凡そ考えられない程奔放で、批判的でなく、邪悪な精神を持ち、轟の前に食事をするかのように定期的に顔を出しては彼の安息を奪い、哲学の真理を容易く覆し、弄ぶのだった。その筆頭が女子高生、坂東蛍子である。

「先日ウチの上官にあたる人にブラックリストを渡されたんだが、その中に名前があったんだよ」

 その上官はとても見る目があるな、と轟は頷いた。

「どうして女子高生が、と思ったんだが、しかしその様子じゃ記載ミスでは無いみたいだなぁ。只者じゃないらしい」

「その通りだ」と轟は吐き捨てるように言った。

「どんな女なんだい?」

「邪悪な女だよ。この世のあらゆる罪を背負ったかのような存在だ。俺も色々な仕打ちを受けたが、そうだな・・・」

 轟が考えるように目を閉じた。ヒラは生唾を飲み込んで猫が再び鳴くのを待った。

「最近はどうも弁当を作るのがブームらしくてな、毎朝弁当を作っては俺に試食させるんだ。黒い刺身をな」

 ヒラは思わず悲鳴を上げそうになった。なんて恐ろしいんだ。

「初めは食べずに無視しているんだが、どんなに素振りを見せなくても何故か向こうには俺が炭を食う確信があるようで、ずっとニコニコと笑ってその場を動かないんだよ。その光景が次第に恐ろしくなってきて、暫くは粘っていても結局いつも口にしてしまう。大人の味がしたよ」

 ヒラの世界では食べ物がとても崇高なものとして扱われていた。食材は何より大事なものであるし、食べられるものである限り、自分達はそれを残さず食べなければならないという戒律を持っていた。ヒラはもし自分が坂東蛍子に弁当を差しだされたら、と事の顛末を想像して、一瞬白目を剥いて、慌てて意識を取り戻した。

「どうやら好意を寄せている相手に弁当を作りたいがために、料理に執心しているそうだ。猫も食べられるように、魚料理に限定して、火もしっかり通してあるからね、と彼女は笑うのだが、俺は言われるまでそれが魚料理だと気付かなかった」

 轟は彼女の満面な笑みを思い出し、サディズムの極致だ、と顔に皺を刻んだ。人間は加虐性を極めると愛情で人を傷つけられるようになる生き物なのだな。ある意味一つの哲学の到達点を見た気がして、轟は少し感心したように唸った。

「旦那、俺たち、協力出来ないだろうか」

 ヒラの提案に、どういうことだ、と轟は首を傾げた。

「一緒に倒すんだよ、その悪の権化を。確かに俺たち動物は一匹ずつじゃ力は人間に劣る。でも、協力すれば何だって出来るはずだ。悪魔だってきっと倒せる。違うかい?」

 義憤に燃えるヒラの目に、轟は込み上げる感情を抑えられなかった。今まで立ちはだかる強敵を前に、猫である自分はただ膝を折ることしか出来なかった。ペンでは剣に敵わないのと同じように、猫では人間には敵わないし、哲学者では女子高生に敵わないのだ。しかし志を同じくする友が一緒ならば状況は変わるかもしれない。少なくとも勇気が湧く。轟は自身の中に今まで感じたことが無い清い力が横溢するのを感じた。これが幾多の時代を動かしてきた革命の力か、と轟は喉を鳴らし、握った拳で地面を叩いた。

「よし、やろう!」



「おーい、轟ぃー!」

 坂東蛍子が駆けよると、猫の傍らにいたカラスが勢いよく空に舞い上がり、恐ろしい速度で南の方角へと飛び去って行った。空を見て元気に鳴き叫んでいる轟を宥めながら、蛍子はニコニコと鞄のチャックを開く。

「ほらほら、カラスなんて美味しくないよ!私の弁当あげるから!ね!」

【轟前回登場回】

桃園の誓いに立ち会う―http://ncode.syosetu.com/n4182bz/

【ヒラ前回登場回】

眼鏡越しに愛を見る―http://ncode.syosetu.com/n2550bz/

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