2
ローマ・ロリンズ少佐が、純白のマッサージ台に裸体を横たえていた。日焼けした豊かな曲線を描く素肌……短いダーティブロンドの髪の毛と美しいコントラストを醸し出していた。
リゾートホテル風の小さな中庭に面した素通しの大理石の間には、ほかに人の姿はない。
霧香は薄絹のチュニック一枚にサンダルというオダリスクスタイルだ。古代ギリシャ様式に全裸で運動するのがここの習わしとはいえ、辺境の田舎から出てきたばかりの霧香は少し恥ずかしかったので、紗一枚でもホッとした。
「霧香=マリオン・ホワイトラブ、ただいま参りました」
ローマは両肘をついて半身を起こし、霧香に振り返った。
「わざわざ呼びつけてすまないな。オイルマッサージをお願いしたいんだけど」
「ハイ!喜んで!」
「よろしく」ローマは再び組んだ腕に顔を埋めてもごもごと言った。
霧香はその背中にオイルを垂らし、丁寧に揉みほぐし始めた。少佐は気持ちよさそうに呻いた。
「本当に見た目より椀力があるのね」
「どうも、少佐殿」
少佐が本当に霧香の腕力だけを見込んでマッサージを頼んだだけだったとしても、霧香は指名されて嬉しかった。候補生時代にさんざん世話になったお返しだ。
同期生たちのあいだでもとりわけ特別の存在だった厳しい鬼教官……女の子の憧れ。高嶺の花のような存在。霧香を覚えているだろうか……まったく油断ならない人物なので覚えていても不思議ではないが、なんせ霧香の同期生だけでも男女合わせて千二百名、最終的に実戦部隊に任官できた者だけでも五七〇名にのぼる。そして一期の訓練期間は四ヶ月……確信はなかった。
ここ、タウ・ケティ首都の士官用体育施設は閑散としていた。湾から吹きつけてくる適度に涼しい海風で、ベージュのカーテンがのんびりそよいでいる。ほとんどの隊員は仕事で出払っている。たまたま任務遂行後の休養や、怪我を完治させたあとのリハビリに寄った者が邂逅するだけだ。
ローマの場合は事情が違っていた。彼女はここ二年ほど新隊員の育成教官を務めていた。ベテラン士官の義務だ。勤務先は地球か、目と鼻の先にあるタウ・ケティのGPDアカデミーを往復するだけだった。このほど、二年間務めてようやく、通常勤務に復帰する。今はそのあいだの準備期間に当たった。
霧香は勇気を振り絞ってたずねた。
「少佐殿……任務に復帰するのはいつ頃なのか、お決まりなんですか?」
「ああ……うん、来週早々」
「そうですか……あの、もっとお揉みします?」
「もう少し、肩を揉んでくれるかな……あなたの手、気持ちいい」
霧香は口をつぐんでマッサージに専念した。いつしか霧香の頬にも汗が浮いている。汗を拭ってヘアバンドを締めた。
「ウ……ウン」ローマが呻きながら太腿をくつろげた。
しばらくするとローマは台の上に身を起こし、気持ち良さそうに首を回しながら呻いた。
「ありがとう」
「いえ……」霧香は傍らの椅子の背にかかっていた短いローブを拾い上げ、ローマのために拡げた。広い背かでしなやかな筋肉が伸縮して、彼女が優雅に袖を通した。
腰のベルトを結びながらローマが言った。「今度はわたしがマッサージしてあげようか、候補生」
「いえ、そんな……!」
「いやなの?」
「少佐殿の手を患わせたら悪いです……」
そこで霧香はふと気付いた。“候補生?”
ローマは笑った。「まだアカデミー生気分が抜けないか?マリオン・ホワイトラブ少尉」
「……覚えていてくださったとは、思いませんでした」
「そうか?」ローマは冷やかすような声で尋ね、霧香が言葉を挟む間を与えず続けた。「あなたともうひとりの東洋人……コウヅキ・クララとノッポの細い娘、フェイト少尉はいつも結託してわたしを倒そうとしていたようだが?大きな黒い瞳の女の子がわたしをにらみつけて、一生懸命隙を突こうとしていたっけ……」
霧香は赤面した。「そ、そんな……恐い顔、していました……?」
ローマは頷いた「ついさっきもね」片手で霧香の黒髪を梳いた。
「髪、伸ばしたのね……」
「ハイ……」
手のひらが霧香の頬に当たる。霧香は震えた。
首筋を這い降りた手が肩に掛かり、チュニックを引き下ろした。
「さっ横になって」
霧香は台に横たわった。うつ伏せになろうとすると、ローマが肩をソッと押して仰向けにされた。
「あ……っ」
「噂によると、任官して一年にも満たないのに、いろいろと手柄を立てたそうね」ローマは霧香の平たい腹にタオルを掛けながら言った。
大きな体が霧香の上に覆い被さった。眼のやり場に困る。
「運が良かったんです」
「わたしもそうよ」
ローマの手は大きくて力強かった。恐いくらいに太腿を締め上げられて霧香はたじろいだ。
「あふっ」痛気持ちよさに思わず声が漏れてしまった。
マッサージと言うより整体に近い。身体を拗られ、引っ張られ、折りたたまれ、霧香は何度も呻いた。
「うつ伏せになって」
「はい」
ローマは霧香の太腿にまたがり、背中にゆっくりと両手を這わせている。少佐の肉体は温かく、重かった。エネルギーが満ちあふれているようだ。
やがて霧香が心地よくほぐれた身体を起こすと、ちょうどローマの携帯端末の呼び出し音が鳴った。
「おや、お呼びかな」
ローブのポケットから.携帯を取り上げた。
「ハイ、マルコ、ハロー。……なに?……もうそんなこと掴んだの?さすが地獄耳……いいえ、そんなつもりじゃない……安心して。……本当だってば……じゃあね。ああ、仕事はまだなの?……そう」
聞き耳を立てるつもりはなかったが、彼女が話しかけていた「マルコ」がマルコ・ランガダム大佐のことだと思い当たった。GPDに神のように君臨する霧香の上司である。その大佐殿を相手に、ローマは気安くファーストネイムで話しかけているのだ。
(すごーい……)
霧香もチュニックを羽織った。携帯を切ったローマは霧香に向き直った。
「少尉、暇だったら、なにか飲みに行こう」
「はい、ご一緒します」
タウ・ケティ・マイナー特別区最大の都市ハイフォール。ハドソン湾の漁業地区には、地球並みの工業設備が整わなかった植民初期の、古い煉瓦の建物が数多く残っていた。もとは缶詰工場だった倉庫が建ち並んでいる。レンガ敷きの道路には古い貨物専用の線路跡が残っていた。桟橋に面した倉庫を改造したパブは、仕事を終えた港湾労働者や船員でごった返していた。
ローマは私服に着替えている。ラフなジーンズとタン色のタートルネックのセーター姿だ。
漁船の船員たちは毛糸の帽子や革のジャケット姿だ。タウ・ケティの生活に馴染む間もなく宇宙に出掛けてばかりで、霧香の季節の感覚はすっかり狂っていた。タウ・ケティでは短い夏が終わり、肌寒い季節が急速に訪れようとしている。コスモストリングの上にGPDと背中にプリントしたブルーのナイロンジャケットを羽織った霧香は、ここでは浮いていた。
白黒の天差しを張り出した店先の丸テーブルをひとつ占領したローマは、地球から持ち込んで上手く繁殖した獲れ立てのハマグリのフライを注文した。通りすがりの幾人かがローマに挨拶した。店のおかみさんもローマを知っているようだ。言わなくても黒ビールのジョッキがふたつやってきた。
「少佐殿はこの辺りに住んでらっしゃるんですか?」
「殿はよせ。あなたはもう経験を積んだGPD保安官……サーは抜きでいい」
「は、はい……えー、少佐」
「それで、わたしがここら辺に住んでるか、だっけ?」
「すいません、べつに詮索するつもりはなかったんですけど……」
「いいよ、あなたたち候補生のすることと言ったら、わたしたち教官の生態について事細かに論じることだし」
霧香は赤面した。もちろん、詮索しまくっているのはばれているのだ。ハマグリをひとつ摘んで口に放り込んだ。「……美味しい」
同窓生たちのあいだでは、ローマ・ロリンズ教官の自宅にはペットの豹がいて、綺麗な男の子たちが彼女の身の回りの世話をしているともっぱらの噂だった。当時はほとんど真剣にそう思い込んでいたのだが、今にしてみると、乙女チックでバカバカしい妄想である。もっともそんな妄想は実地訓練が始まるまでのつかのま持続したに過ぎず、やがて純粋な憎悪と畏怖の対象と成り代わったのであったが。
少佐のプロフィールは謎だらけだ。
信憑性のある噂……元連合地球防衛軍陸戦部隊の軍人だった。ランガダム大佐に引き抜かれてGPDに再就職して、以来5年間、混沌とした敗戦後の人類辺境領域で、輝かしい功績を打ち立てた。身長六フィート五インチ、年齢不詳だがおそらく三〇~三六歳。それ以上では昇進が遅すぎる。
普段の生活を匂わせる要素はない。居住先も不明。独身士官用の官舎を利用していないことだけは確かなようだ。
「ところで少尉、任官して最初の任務からお手柄だったんだろう?」
「ああ……そんな、手柄なんて……」
「ご謙遜だな」
もう半年以上まえだが、任官して最初の任務をあたえられた霧香は、単純な救出ミッションに就いた……つもりだった。だが任務地である惑星ヘンプ3に到着したとたん状況は悪夢的にエスカレートしてゆき、霧香自身も遭難状態に陥ってしまったのだ。しかも救出任務そのものが、遭難したあるヴィデオタレント自身が仕掛けた無邪気な騒動に起因していて、くだらないリアリティー番組制作に利用されたも同然だったのだ。
「あのシンシア・コレットの番組……あなたなんだって?」ローマはおもしろそうに付け加えた。
「みっ観たんですか……!?」
できれば忘れたい過去なのに、少佐の無慈悲な言葉に霧香は少なからずショックを受けた。番組の放送は承諾したものの、霧香の姿は別人に差し替えるという条件を無理矢理呑ませた末だった。だがランガダム大佐を始め幾人かは事情をすべて知っていたし、それが少佐に伝わってしまったのだ。
「興味深い番組だった」まじめな口調だがどこか冗談めいていた。
「断っておきますけどあんなの創作ですから!」霧香自身配信前にいちど見せられたが、マスコミはどんなことも事実通りに伝えることができないという見本のような、荒唐無稽な冒険談に仕立てられていた。しかしこんな馬鹿馬鹿しい代物が大衆受けするわけないという霧香の考えとは裏腹に番組は大ヒットして(少々残念な大衆向け演出にもかかわらず、人類の歴史に残る発見を記録した記念碑的作品であり、きわめてアカデミック等々……)地球、バーナードほか10星系に配信されただけでなく、いくつかのヴィデオアワードで表彰される模様だという。いまやシンシア・コレットはあまたの惑星に名の知れたメガスターであった。
「あ、あんまり真に受けないでください……」
「そうか?そうは聞いていないが」
「だっだれがそんなことを」
「シンシア本人。岬の高級住宅街に別荘を構えてる。たまにそこで過ごしているらしい」
霧香は顔をしかめた。近所にあの女が……?
「お会いになったんですか?」
「そりゃまあ……有名人だし、GPDにとっては好ましからざる人物だからな。ちょっと挨拶に行ったよ……うちの部下が世話になったって」
霧香は口の端をひくつかせた。少佐がシンシアを軽く脅している場面を思い浮かべたのだ。しかしシンシア・コレットの活動拠点はバーナード星系の惑星ジャイアントステップにあるはずなのに。
「なんであの人ここに……」
ローマは肩をすくめた。「どうもあなた、目をつけられたらしい。ネタになると踏んでるんだろう……気をつけたほうが良いね」
霧香はうめき声を上げて椅子にもたれた。