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花の如く 作者:秋保千代子

第四章

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参の四(鈍い音を立てて、拳が彼の頭にぶつかった。)

思い切りよく走り出したのは良かったが、庭を突っ切って道が林に差し掛かったところで、のろのろとなった。
「ちょっと、倖奈!」
後から駆けてきた真希があっという間に隣に並ぶ。
「蒼い顔してる人間が、無茶しないでよ」
「…でも」
目を大きく見開いて振り向くと、真希はきっと睨んできた。
瞬いてから、倖奈は衣の下の懐刀を握り締めて、肩で息をしながら。
「わたしは【かんなぎ】だから」
そう呟いた。
「魔物が居るのに何もしなかったら、役立たずのまま… だから」
「…だから、何? 無茶しないでよ」
くしゃりと真希が顔を歪める。
「元気な時ならいくらだって頑張っていいと思うけどさ。あんた、朝からすっごい調子悪そうだもん。頑張る必要がない時だと思うんだよね。大体、そこに行って、あんた何をする気だったの?」
ずきん、と胸の奥が痛む。倖奈はゆるゆると首を振った。
「ね、戻ろうよ… あいつ、史琉は太刀を持ってた。戦えるんだろう? だったら、任せておけばいいじゃない」
「本当は… そうなのかもしれないけれど」
真希の言葉に、まだ首を振る。
すると、ぎゅっと手を握られた。
思わず、じっと見下ろす。
日に焼けた肌。甲や指にはところどころ皸の痕と思しき薄い線が走り、僅かにかさついた感触がした。
「真希は何かができる手をしているのね」
握り返し、呟く。
「は? 何、いきなり」
――布を染めたり、お料理をしたり…
ゆっくりと顔を上げれば、驚いた顔のままの真希と視線が交わった。
そのまま瞳の奥をじっと覗き込んだ瞬間。
ごう、と音が響いた。
次いで、熱い空気が流れてくる。
「なに!?」
真希が叫び、二人、振り向いた。



「勘弁してほしいな…」
木の幹に背をくっつけてヒイロは、ぜえ、と息を吐き出した。
途端、すぐ横を炎の玉が掠めていき、どおんと音を立てて別の木にぶつかる。
「鎮まれ。そんなに瘴気ばかり撒いていたら、完全に魔物だぞ」
言って振り返った瞬間には、すぐ前に影が迫っていた。
ぶんと振られた腕をひょいっと避けて走る。
その後ろを影がぴたりとついてきて、噛み付いてくる。
「……くぅ」
身を反らしそれを避ける。左手を振って、光の玉を弾いて当てる。
影が動きを止めた一瞬の隙に、ヒイロはまただっと駆けて、藪の中に飛び込んだ。
だが、影もすぐに追ってくる。
ヒイロは振り返り、顔を引き攣らせた。
「だから、私は運動は嫌い…」
なんだ、と呟きかけて、どたっと転んだ。
彼目掛けて、影は一息に跳ぼうとする。
そこに、横合いから白い大きな影がどんっとぶつかった。
「遅い…」
ごろんと仰向けになって、ヒイロは溜め息をつく。
「次郎」
呼ばれると、白い大きな犬は、ぐるる、と唸って応えた。
そのまま高く吠えて、影に突進する。がっしりと頭をぶつけ、噛み合って、次郎と影はがつんと組み合った。
そして、後からもだっと人影が駆けてくる。
その彼はヒイロを見下ろして、笑った
「ああ、無事じゃないか」
「史琉よ」
ヒイロは頬を膨らませた。
「もう疲れた、交代だ」
「はいはい」
苦笑して、影に向き直り。史琉は目を細めた。
「ヒイロ」
じっと視線を送って、史琉は呻いた。
「あいつは、人… じゃないのか?」
それにヒイロは体を起こして、首を縦に振った。
「人だ。そもそも…」
と言ったところで、ぎゃん、と次郎が吠えた。
次郎の体の下から這い出した影が、背を向けて駆け出す。
「待て!」
史琉が駆け出し、太刀を唸らせる。
真っ直ぐに影は背を払われて、血飛沫をあげ、叫び声を上げる。
そして、ぶうんと腕を振って、焔を撒き散らす。
「うわっ」
「…熱!」
史琉もヒイロもそれぞれ、腕で顔を庇い、叫ぶ。
「火を吐く… のか!?」
「まあ、見たままの力だな。問題は… 血が流れたから、まだ魔物には成りきっておらぬのだろう」
と言葉を交わす間にも、影は素早く駆けていく。
「取り敢えず、追っていくぞ!」
史琉と次郎が駆け出す。
そして、影が走る先に。
「倖奈! 真希!」
知った顔の娘たちを見つけ、叫んだ。



振り向いた先からは、勢いを付けて、影が走ってくる。
体に焦げ目と穴だらけの衣を纏わりつかせて、長い髪を振り乱し、細い腕と足をばたばたと動かして、走ってくるそれに。
「魔物…」
二人、同時に呟く。
がくん、と真希がへたり込む。
「ちょっと… ヒイロは?」
釣られて座り込んで、手を握り直して。
「史琉!」
倖奈は、影の後ろから走ってくる人を呼んだ。
それから、真っ直ぐに影を見据える。
――もし、ここまで来たら。
息を吸うと、影の走りが急にゆっくりに見えた。
――少しでも触れられれば。前みたいに消せないかしら。
ふと頭を掠めた考えに、知らず微笑んだ。
強く真希の手を握る。
影をぎゅっと睨みつける。
そして、右手だけを恐る恐る伸ばしたところで。
ひゅん、と空気を切る音がした。
影が、がくん、と止まる。
うー、と呻いて影が首を回す。
その先には、子どもが――先程史琉を呼びに走ってきた尋が居た。
右手に枝を、左手に小石を握った彼は、目を瞑ってその石と枝を投げた。
「こっちくんな!」
ガツン、と音を立てて影にぶつかる。
それから影は吠えた。
ぶわり、と炎が巻き上がる。
それが一気に、尋へと流れていく。
「止めて!」
倖奈は叫ぶ。
「逃げて!」
真っ青になった子はその場から動かない。
だが、横合いから史琉が走り込み、尋を抱え込んで地面に転がった。
次の瞬間、その子が立っていた処に、どおん、と火の柱が上がる。
史琉と尋はごろんごろんと転がっていき、離れたところで史琉だけ跳ね起きた。
影が吠えて、そこに突っ込む。
それを史琉が太刀で跳ね返す。
よろめくことなく、影はまた伸び、ぐんっと両腕を振り下ろしてくる。
また太刀で受け止める。
刃の向きを変えて影の腕の力を脇に逃して、史琉は影を蹴り上げた。
今度こそふらついた影をさらに蹴込む。
二歩三歩と影は後退って、がばりと顔を上げた。
髪がふわりと巻き上がる。
瞬間、史琉が目を見張った。
そのまま、動きが止まる。
そこに、影はぐうんと左腕を伸ばした。
はっとした史琉が後ろに跳ねようとして、間に合わず。
鈍い音を立てて、拳が彼の頭にぶつかった。
声もなく、史琉の体が倒れる。
太刀が地面に落ちる。
真希が甲高い悲鳴を上げた。
「おにいちゃん!」
尋も叫ぶ。
どさり、と地面に落ちた史琉は、ざり、と土を掴んで身を起こした。
顔を上げ、ぎろり、と影を睨む。
だが、右手は顔の右半分を抑えたまま。
影は、あー、と声をあげて、己の左手を見下ろしている。
倖奈はだっと史琉に向けて駆け、抱きついた。
「史琉!」
膝を付き、腕を肩に回す。それでも、史琉は呻いただけで。
まっすぐに前を、影を睨みつけている。
釣られ、影を見上げて。
「…え?」
倖奈は瞬いた。
眼窩は真っ黒に落ち窪み、頬も削げてしまっていたけれど。
縺れた長い髪、曲がった唇が面影を残している。
「…時若なの?」
掠れた声で呼ぶ。
その一瞬だけ、黒く落窪んでいた眼窩か輝く。
「う… うぅ…」
「時若!」
倖奈は叫んだ。
「どうして!?」
「どうしても何も… アオに瘴気を移されたのだろう」
ざく、と草を踏んでヒイロが歩いてくる。
「アオは餌にして食べきるのではなくて… 瘴気を移して、己の分を減らしたようだな」
「何の… ために?」
ヒイロに見向いて、問う。彼は首を傾げた。
「瘴気が減れば… アオ自身は消えることができるかもしれぬからな」
「ふざけんなよ!」
史琉が叫ぶ。
「簡単に呑み込まれてるんじゃない! 時若!」
じゃり、と土を踏んで、腕を前に伸ばし、時若が踏み出した。
倖奈はごくりと喉を鳴らした。
「時若」
呼んで、手を伸ばす。
そして、指先が届きそうになった瞬間、ばちん、と何かが弾けた。
「ぐわああああ!」
時若は吠え、後ずさった。
そのまま頭を掻き毟り、蹲る。
史琉を抱きしめる腕に力を込めて、倖奈はそれを見つめ、呟いた。
「…どうしたの?」
「おぬしの神気が苦しいんだろ?」
その場に立ち、ヒイロは目を細める。
「魔物になりかけているんだ。もともと此奴が持っていた神気のおかげで人間に留まれていたようなもので…」
唸り続ける時若を見下ろして、ヒイロは言った。
「本当はもう。魔物になっていてもおかしくないんだ」
「それじゃあ…」
「もしかしたら、今この場で全ての瘴気を消せれば、分からぬでもないが」
ヒイロは続け、膝をついて時若の顔を覗き込んだ。
瞬間、時若は跳ね起きる。
後ろに跳んで、喉を掻き、叫んで、彼はさらに飛んだ。
ざあ、と流れる風に乗って空に舞い上がっていく。
「時若!」
史琉が叫び、立ち上がろうとして、膝をついた。
倖奈は彼をもう一度抱きしめた。
「史琉」
微かに呻いている彼を掠れ声で呼ぶと。
「ああ…」
返事をし、史琉は顔を上げた。
顔を押さえる右手の、その指の隙間には赤い雫が滲んでいた。
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