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花の如く 作者:秋保千代子

第四章

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壱の二「何も考えていない方がまだマシだったりもするしね」

通り過ぎていく流れを、床に手と額を付いて送る。
ざわめきが遠くに消えてから体を起こせば、元の席に残ったままの芳永が肩を竦めてみせた。
史琉も口の端だけで笑う。
緋色の袖を揺らして、芳永は史琉の前まで歩いてきて、それから史琉も立ち上がった。
「早く終わったねえ」
くすり、と芳永が笑う。
陽はまだ空の東寄りにいて、会議の場が開かれてからまだ間もないことを告げていた。
会議に連なっていた面々は散開していき、閑散とした渡廊を二人はのんびりとした足取りで巡り、門へと向かう。
「…あの人が本気を出すと、これくらい簡単なんだね」
それでも小さな声で、芳永が言うと。
「恐れ入りました」
史琉は頷き、笑みを零す。
「そうなの?」
芳永も笑顔で首を捻り。
「ええ…」
史琉はもう一度頷いた。
「ずっと、会議の場がまとまらないのは、大臣、納言の皆様がそれぞれに違う考えをお持ちだからだと思っていました。それを、秋の宮様は、あのようにお話なさるだけで纏められた」
自分勝手な方向を向いている人間たちの視線を無理矢理一つの方向にまとめ、一つの言質を引き出す。それが簡単なことでないのは、貴賎も何も問わないだろうから。
「秋の宮様の見識と人徳に、恐れ入りました」
だが、芳永は低く笑った。
「…僕の目には、他のお大尽達が何も考えていない、決められないように見えるんだけどね」
一層小さくなった声に、史琉も苦笑を浮かべる。
「皆が皆、そうとはお見受けしませんが」
同じように低く抑えられた声で応じると、芳永は足を止めた。
「そのとおりさ」
言って、視線を左右に巡らせる。史琉も止まり、目を細めた。
「何も考えていない方がまだマシだったりもするしね」
「…はい」
芳永は口許を袖で覆って、ぼそぼそと続ける。
「考えていることが国の利益へと繋がっていかないこと、もっと言ってしまえば、自分勝手なことじゃあ堪らない。例えば、三条の大殿」
その彼のすぐ脇に立って、史琉は頷いた。
「先日の件も、何が狙いか読めていませんから…」
「そうだね。指示があって押し入ってきたのは確かみたいだけど、その先は結局分からないままだし」
芳永も頷く。
「客人が飼っている魔物、というのも気になるね」
「客人というのが何者かも気になりますが、魔物が、将監殿の追われている魔物だったということも」
「うん、そうだね」
と言って、芳永はまた大袈裟に肩を竦めた。
「魔物が出たって話を聞くと嫌な気分になるよ。もっとも北の地に比べれば、大分少ないのだろうけど」
史琉は首を振る。
「魔物を厭うのは、誰しも同じなのでしょう」
そう言って笑んで、視線を渡郎の通ってきた先に送る。
向こうからは、また色とりどりの袍の一団が歩いてくる。
その先頭は、浅紫の袍をまとい、冠を真っ直ぐに付けた秋の宮で。
「芳永… じゃない、式部大輔」
妙に気色ばった顔で呼びかける。
「はい、内務卿様」
芳永もすうっと締まった笑みで受けた。
「北の国府の下にいる軍籍の資料と… ついでにここ数年の収穫や何かが分かるような資料を用意してくれたまえ」
「かしこまりました」
僅かに瞬いた史琉に。
「式部省、というのは、そういう資料の倉庫なんだよ」
そう笑いかけて、芳永は早足で去っていった。
秋の宮は、後ろについていた一団にすらすらと指示を告げていく。
最後に彼は、曖昧に笑んで立ち尽くしていた史琉に大真面目な顔で告げた。
「校尉。今日は先に戻っていてくれたまえ。私は引き続き、打合せだ」
「はい」
「今日こそゆっくり休みたまえよ」
「ありがとうございます」
ゆっくりと腰を折り、史琉は静かに笑う。
ふん、と秋の宮は胸を張り。
つ、と視線をさらに奥へと送った。
渡廊の床を鳴らして走ってくる影に、二人で目を見張る。
「おや、春宮」
秋の宮が声を上げる。
史琉はすっと三歩退く。
走ってきた、黄丹色の衣装の少年は秋の宮を見上げた。
「…今日も間に合わなかった」
そう言って、眉尻を下げる。唇もへの字に曲げた少年に、秋の宮はにこりと笑ってみせた。
「そんなに落ち込んで、如何したのかな?」
「如何も何も… 今日も皆にお会いできなかったと思って」
肩を落とし、しょんぼりと春宮は呟いた。
「朝一番の学問の時間の後じゃ、間に合わないんです。昨日もその前も、皆と話がしたいなと思っていたのに間に合わなくて」
「今日はまた格別早く終わったからね。間に合わなくても仕方ないだろう」
「…サボれば良かった」
ぶう、と春宮は頬を膨らます。秋の宮は体を揺らして笑った。
「そうもいかんだろう。ほれ、御祖父殿もお怒りだ」
その言葉に、はっとして少年は振り返った。
「お祖父様!」
彼が走ってきた先からはやや早足で、恰幅の良い男が歩いてくる。
紫の袍を着て冠を付けたまま、先程の会議の後真っ直ぐに春宮の元に行ったのだろうと伺わせる出で立ちの三条の大殿は。
「春宮。またしても…」
眉間に皺を刻んだ。
「ああ、怒らないでください」
その大殿にあどけない声で両手を振って、春宮は笑いかけた。
「せめて、校尉とはお話してもいいですか?」
急に振り返られて、史琉は目を見張った。
春宮はぱぁっと明るい笑顔。だが、秋の宮もまた目を見張っていて、三条の大殿に至ってはこめかみが引き攣っている。
一瞬のうちにその全てに視線を巡らせて。
「私は… とても」
史琉はゆっくりと口を開いた。
「そうです、春宮。無闇矢鱈に話をせがむものではない」
後ろから低い声で三条の大殿も言う。
「だけど… 様々なことを知るべきだと常々おっしゃるのはお祖父様でしょう?」
それに振り返って、春宮は変わらず明るい声で話し、見回した。
「そうだ、思い出した。秋の宮は読んだことがありますか? 色のしきのみやの書を」
また話を振られた秋の宮は一瞬瞬いて。
「…いいや」
答え、それに落胆した様子もなく、春宮は喋り続ける。
「読んでみてください。【みかど】に連なる血筋の中でも神気の強い… 【かんなぎ】として広く活躍されていた方の書。二十年に及ばぬ人生の中で様々な考察を残されているんです。大学寮の棟丸々一つを埋め尽くすくらいの書を。きっと沢山の物事を知っていたに違いないと思うんです…!」
「だが、色の宮は… いや、なんでもない」
秋の宮が首を振る。
それさえにも止まらず、春宮は瞳を輝かせた。
「色の宮も素晴らしい方だったと思いますが、でも、僕は秋の宮のようにもなりたい。沢山のことを知って、良いことを考えられるようになって、それを皆に納得させられるだけの話ができるようになりたいです」
「おや、嬉しいお言葉だ」
秋の宮の笑いにますます苦味が加わる。
「ねえ、お祖父様」
春宮は三条の大殿を振り仰いだ。
「だから、もっともっといろんなことを知って、考えてみたい。だから、校尉と話をしてみたいです。都とは違う土地の生活の様子、他にも…」
「知らぬ方が良いこともあるのですよ、春宮」
そう言って、三条の大殿は引き攣った笑みでもって少年の肩を叩いた。
それから暗い視線を史琉に向ける。史琉は裾を捌いて、膝をついた。
「…私は武官。おまけに、作法も弁えぬ田舎者でございます故。春宮様に何をどのように申し上げたら宜しいか、皆目見当もつきません。何卒… ご容赦を」
ゆっくりと頭を下げる。
それから持ち上げれば、春宮は翠色の瞳をめいっぱいに見開いて。
ゆるゆると首を振った。
「残念です」
そのままツカツカと簀子を引き返していく。その後ろを大殿の大きな背中が歩いていく。
足音が完全に聞こえなくなってから、史琉は秋の宮を振り返った。
「…本当に策士だねえ。私だけでなく、大殿も敵にしないようにあんなことを言えるかい」
史琉は曖昧に笑い立ち上がる。
秋の宮は首を振った。
「本当に、先に戻りたまえよ。昨夜はきっと倖奈嬢と過ごせたのだろう? ゆっくりと休むべ…」
「余計なお世話ですよ、宮様」
ぴしゃりと言い切って、史琉は笑い。秋の宮もふふんと鼻を鳴らした。



車輪が大きく軋んで屋敷に滑り込む。
足音も荒く、大殿は主殿へ駆け込んだ。
だが、そこにいると思った影はいない。
「…シロよ」
低く呼ぶ。
だが、御簾さえも揺れない。
「シロよ。…色の宮!」
金切り声を上げても何も変わらない。
「殺す相手が変わった… 色の宮よ!」
そこまで叫んで、はあ、と肩で息を吐く。
「一体何処へ…」
首を振り、どかりと腰を降ろす。
濃い紫の袍は僅かに皺が寄っている。それにまた顔を顰め、大殿はじっと庭を見た。
その更に上、澄みきった青空を太陽だけが我が物顔で輝いている。
大殿はまた顔を顰めた。
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