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花の如く 作者:秋保千代子

第四章

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壱の一(ここで立ち止まっていたら、元のままだ。ならば立ち向かうだけ)

鏡に映る己の顔に溜め息を吐く。
――瞼、腫れぼったい。
指先で触れれば本当に膨らんでいる感触がする。眠らなかったからだ、と倖奈はもう一度溜め息を吐いた。
冷やせば何とかなるだろうかと、腰を浮かせて振り返ったところで。
「おはよう」
上げていた御簾の下から、青年が顔を出す。
「…おはよう、史琉」
応えて。倖奈はぎこちなく座り直した。
「…どうしたの?」
「まあ… 昨日の今日だから」
そう言って彼は笑んで、部屋に入ってきた。
すっと捌かれたのは浅緑の袍の裾。そのまま彼は腰を下ろす。真正面に向かい合って、倖奈は視線を逸らした。
「…今日も、宮中に?」
「ああ」
答えに視線を戻し、じっと顔を見て。
――どうして、瞼腫れていないの!?
思わずそのまま瞳に吸い込まれていく。
「おまえこそ、どうしたんだよ」
だが、声にはっとして横を向いた。
「な、何でもない…!」
そのままぐるりと体を回して、鏡に向き直る。だが、鏡には己だけでなく、衣装も冠も整えた後の史琉も一緒に映っていて、また溜め息を吐いた。
「何なんだよ…」
くすりと笑って、彼は倖奈の後ろに動いた。鏡の横の箱にあった櫛を手に取ると、次いで髪を一房持ち上げる。
倖奈が黙っていると、史琉はゆっくりと彼女の髪を梳き始めた。
「史琉」
僅かにむくれて呼ぶと、何だ、と返される。
「眠くないの?」
「いいや?」
「…どうして」
一緒にいたいと駄々をこねたのは確かに自分だ。それを受け入れてもらった結果として、陽が昇る直前いい加減にと部屋まで送られてくるまで、たまに微睡むくらいだったというのは倖奈も史琉も変わらないはずなのに。
思わず恨みがましい声が出る。
「どうして、眠くないの?」
「…普段から夜を徹して働いているもので」
くっくっと史琉は笑う。倖奈は頬を膨らませかけて、止めた。
黙るとまた、史琉は櫛を動かし始めた。
穏やかな手つきに、ふっと力が抜ける。
外からは雀の声がのんびりと聞こえてくる。鏡に僅かに陽の光が爆ぜて、目を細めるとくらりと頭が傾いて、はっとして目を見開く。それを三度繰り返した後。
櫛が箱に戻される音が鳴り、史琉の硬い指先が倖奈の耳の後ろの髪を掬った。
その感触に、背筋がゾクリと疼く。
倖奈は唇を空回せた。
だが、史琉は。
「倖奈。飾り布、どうした?」
普段と変わらない声音で問うてくる。
「こ、ここにある… よ?」
跳ねる心臓を宥めながら、櫛の入っていた箱から紅色が淡く溶けたような色の薄布を取る。
「買ってから、結局何度も付けていないだろう?」
「…そう、かも」
都に着いたばかりの頃に、市で出会った少女から買い受けたそれを、史琉はするりと結わえた。
「良し」
言って、倖奈の肩越しに鏡を覗き込む。
一緒に映った鏡の中で、倖奈は目を丸くする。
「なんて顔してるんだよ」
鏡の中で史琉も笑う。
「だ、だって…」
倖奈は熱くなる頬を両手で覆った。
そのまま視線を落とす。
耳許で史琉がくすりと笑う。
「…匂い袋は?」
「え?」
振り返り、思いの外近かった顔にまた心臓が跳ねる。
「この間、匂い袋を貰ったんじゃなかったか?」
だが、言われたことに熱は退いていく。
「天音様に頂いた物」
「ああ… 貰い物だって言っていたな。何の匂いだっけ?」
「…沈丁花」
応えて、袋は何処に仕舞っただろうと思ってから、不意に違うことが思い浮かんだ。
「史琉」
呼ぶ。彼は首を傾げた。
「…史琉は何の花が好き?」
首を捻って視線を合わせると、彼はきょとんとなった。
「俺が好きな花?」
それに頷いてみせると、眉を寄せられた。
「…俺にそういう風流なことを求めるなよ」
困ったような笑い声に、倖奈も眉尻を下げた。
「ごめんなさい」
「いや、でも待て。考える。考えさせろ」
すっと視線を横に流して、史琉は黙り込んでしまった。その顔を見上げて、倖奈もぎゅっと唇を噛む。
やがて。
「…梅」
史琉がぼそりと呟く。倖奈は瞬いた。
「梅の花?」
「ああ…」
低い声で頷いて、史琉はゆっくりと振り向いた。
口の端を吊り上げて。
「梅がいい。白でも紅でも… 春一番に咲くしな。おまけに匂いも好い」
はっきりと言い切られる。
「梅の花」
繰り返して、倖奈は笑った。
「咲いているところが一番良いけれど」
笑い、緩んだ頬に史琉の掌が触れてくる。
そのまま近づいてくる顔に、慌てて目を閉じた。
唇がそっと触れ合う。
名残惜しそうに離れていくそれにゆっくりと瞼を上げれば、史琉は困ったような顔を向けてきていた。
「そう言えば、まだ話していなかったな」
「…何?」
目を見開いて、掠れた声で応える。史琉はゆっくりと首を振った。
「…俺がこの間、血塗れだった理由」
あ、と呟いて掌で口元を覆う。
史琉はもう一度笑った。
「悪い。戻ってきたら、今日こそ話すよ。だから、待っててくれ」
それにしっかりと頷いてみせる。
史琉も頷いて、もう一度頬を撫でてきた。
「じゃあ、もう行ってくるよ」
荒れて固くなった指先の感触に頬を染める。
史琉は静かに立ち上がる。
「行ってらっしゃい…!」
踵を返し真っ直ぐ歩く背中を、視線だけで追う。
御簾の下で一度振り返って笑い、彼は出て行った。
足音が聞こえなくなってから、ほうと息を吐く。
それから両手で頬を覆う。
微かに残る熱に、指先の、唇の、全身の感触を思い出して。
「…すっごい恥ずかしい」
倖奈は突っ伏した。



部屋を出ると、次郎が待っていた。
ふわりと笑うと、彼は尻尾を振って後を付いてくる。
そのままぐるりと廊下を回り、棟の表側へ。
庭からは颯太の絶叫が聞こえてくる。その声の源、遠く、低い木の向こうに律斗と颯太が居るのを認めてから、反対側の部屋をのぞく。
「時若?」
中に居た青年に、倖奈は僅かに上擦った声を上げた。
「…宮中に行っていたんじゃないの?」
すると、狩衣を纏い、一つに結わえた長い髪を背に流した彼は不機嫌な顔を向けてきた。
「今日はここで待っていろという話なんだ。史琉だけ出かけた」
「…そうなの」
言って、御簾を潜る。
「誰を待っているの?」
「近衛の… 将監だといったな。あと、泰誠。魔物退治に手を貸せと言われた」
「…そうなの?」
目を丸くすると、時若は大仰な溜め息を吐き出した。
「史琉の奴め、都に来ても魔物絡みに首を突っ込んだらしい。それが泰誠たちも絡んでいた件だったようで、その流れでだ」
鼻を鳴らして、彼は手元の書に視線を戻してしまった。
――この間のは、魔物が関係していたのかしら?
史琉が後で話すと言っていたことを思い返しつつ、倖奈は文机を挟んで時若の向かいに腰を下ろした。
「美波は?」
「出かけた。行き先は知らん」
「そう…」
これで会話が途切れ、時若はずっと下を向きっぱなしになってしまった。
次郎がのそりと、真っ白な体を倖奈の横に寝そべらせる。
倖奈は、文机の上に手を伸ばし、一番上の書を取って開いた。

時折こっくりと船を漕いで過ごして。
ふと気がつくと、庭から聞こえてきた声が止んでいる。
日も真南を廻り終えている。
「お待たせしました」
掛けられた声に振り向くと、御簾を捲くって顔を覗かせたのは泰誠だった。
その後ろには、見慣れない紺色の直垂の男がいる。
誰だろう、と首を傾げると泰誠が笑った。
「倖奈は初めてですね。葵です」
そう言って後ろの男を見遣る。
「近衛の将監だ」
背格好は史琉の方が近い、だが眉や鼻の形が律斗に似ているなと思ったところで。
「校尉殿とご一緒の… 律斗殿の従兄弟ですよ」
泰誠が言い添えたので、倖奈は頷いて、笑いかけた。
だが、葵は憮然としたまま、一歩も踏み出さない。
時若は大きな音を立てて書を閉じる。
「これから行くのか?」
「ええ、少々遠いですが。昨日僕が作った結界は長続きしないものですから、様子が心配ですし。うまく魔物と遭遇できれば、それはそれ」
泰誠がはっきりと言い切り、時若はゆらりと立ち上がった。
「…さっさと行くぞ」
それに泰誠は頷き、ふと倖奈に向き直ってきた。
「倖奈も行きますか?」
「…わたし?」
思わず目を丸くする。時若もはっとして振り返る。だが、泰誠はにっこりと微笑んで。
「あなたも【かんなぎ】でしょう? それに僕の考えでは、あなたの花を咲かす力は時若殿と同じ系統だと思うんです」
言葉を続ける。
「先日お話を聞いてから、考えてみたんですけど… 『花が咲く』という現象は、あなたが花に神気――生命力をを分け与えるからだと思うんですよね。今は花にしか神気を分けれなくても、応用すれば魔物にぶつけて浄化させてやることも可能だと思うんです」
「…以前、シロが言っていたことに近いな」
時若が顎を擦って瞬く。
泰誠はなおも笑んだ。
「だから、行って何にも出来ないなんてことはないはずだ」
真っ直ぐに見つめられた倖奈は、瞬いて、俯いた。
――わたしにもできることがある…の?
ぎゅ、と懐の懐剣を握り締める。
――ここで立ち止まっていたら、元のままだ。
ならば立ち向かうだけ、と顔を上げる。
「行きます」
すると、泰誠は笑みを深くする。時若は、ふん、と鼻を鳴らして踵を返した。
「じゃあ、行きましょうか」
泰誠が言い、倖奈も簀子に踏み出した。
ことん、と音を立てて次郎も付いてくる。
「余計な人間を連れて行くのか」
横に立った瞬間、葵が顔を顰める。泰誠はにっこりと笑って首を振った。
「大丈夫ですって」
ねえ、と言って、泰誠は庭を向く。
「それでは、行ってまいりますね」
そちらには、涼しい顔をした律斗と肩で息をする颯太が立っていた。
視線を向けられた律斗は首を傾げた。
「何処へだ」
「昨日の森へです。時若殿と、倖奈も一緒に」
泰誠が答えると、律斗は微かに目を開き、そのまますっと倖奈を見てくる。
――そう言えば、出かけるときには声をかけろって言われていたんだ。
倖奈は唇を噛んで、ゆっくりと頷いた。
すると。
「…俺も行こう」
律斗が言い。今度は泰誠が目を見開いた。
「今日も?」
「…おまえはもういい!」
葵が呻く。だが、律斗はしれっと太刀を腰に佩くと。
「俺も行く」
きっぱりと言い切って、スタスタと歩き出す。
もう遠くに歩いて行った時若と、その後ろを真っ直ぐに進む律斗を、倖奈と泰誠で慌てて追う。次郎も尻尾を振って続く。
「余所者の力を借りるのか…」
ぼそりと呟いて、葵も歩き始め。
ただ一人、颯太は。
「つ、疲れた…」
長く息を吐いて、引っ繰り返った。
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