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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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七の五「わたしを信じてくれてなかったの?」

掴まれた腕はじんじんと軋む。
胸の底もずしりと重たく、裡に渦巻く何かを吐き出そうとしてもそれを言い表す言葉が見つけられなくて、倖奈はただじっと前を歩く人の背を見つめた。
その人が止まったのは、元の、倖奈へ寝所にと宛てがわれた場所に戻ってきてから。
振り返った冴えた視線に、ぎゅ、と身が縮む。
「一人で出かけるなと言ったろう?」
低く言われ。
「…ごめんなさい!」
さらに縮こまる。だが、見下ろしてくる顔に責めるようなものがなくてほっと息を吐き出した。
何か言いたいと唇を開きかけた次の瞬間。
「もう、寝ろ」
先にそう言って、史琉は倖奈の脇を摺り抜けていった。
振り返ることもできずに、呆然と立ち尽くす。
頬が、手が、体が芯から冷えてきたことに気付くまでそうして。
「寒い…」
ぶるり、と身を揺らす。
「…史琉?」
それから振り返っても、廊下には誰もいない。刻限も遅いだけにどこも格子が下ろされて、寝静まっているようだった。
屋根を庭木を叩く雨音だけが響き、風の中にも湿った匂いしかしない。
瞬いて、喉の奥から溢れそうになった呻きを押さえ込もうと両手を口に当ててから、はっとした。
――おやすみなさい、は?
指先が触れる唇は乾いている。
ひゅうひゅうと呼吸を繰り返してから、倖奈はそっと一歩踏み出した。

ぐるりと棟の外側の簀子を廻って、別の部屋へ。
格子の隙間からは灯りが零れているその前に立ち。
「人の気も知らずに…」
聞こえてきた声に、息を呑む。
――誰?
耳を澄ませば。
「呑み過ぎだ」
一つは律斗の声で。
「分かっている。ついでに喋り過ぎた」
もう一つは史琉のものだった。
「嫌なことを思い出させやがって」
史琉の声は硬く昏い。
「だが、それを忘れた史琉というのも想像できないな」
対する律斗の言葉はいつになく柔らかい。
倖奈は身を固めた。
「少なくとも俺は… おまえの話を聴いて、今までと変わった」
雨音に混じって律斗の言葉が聞こえてくる。
「目指すところはおまえと同じだ。魔物に人が喰い殺されることのない世界――だろう」
すると、史琉がふっと笑う気配がした。
「ついでに言えば、理不尽な理由で故郷を追われたりとか、権力を握る人間の勝手で他の人間が苦しむというのも無くしたいな」
「そうだったな」
きしりと中で床が鳴る。
「おまえが居て良かったよ」
「…ふん」
嬉しそうな律斗の溜め息に次いで、史琉の笑いが聞こえてきた。
「分かり合えるというのは有難いな」
その言葉が聞こえた瞬間。
何かが胸の中で弾けた。
その勢いに任せて、がばりと格子を持ち上げて。
「…史琉!」
中を覗く。
灯台の灯りの中からも視線が返ってくる。
そこに居たのは、髪を下ろし寛いだ姿の律斗と、向かい合うようにして座っていた史琉で。
「倖奈」
彼が掠れた声で呼んでくる。
両手で羽織った衣をぎゅっと掴んで。
「史琉。律斗は知っていたの?」
震える声で問えば。
「…それは」
と史琉はゆっくりと視線を逸らした。
律斗は眉を寄せて見遣ってきたが、それに構わずに。
「わたしには言ってくれてなかったのに」
上擦った声で言うと、彼は黙ったままになってしまった。
「史琉」
呼んでも動かず、倖奈はゆっくりと顔を伏せた。
ぎゅ、と両手を握り締め、俯いたままでいると。
「…これだから女は面倒くさい」
溜め息が聞こえ、腕を掴まれた。
慣れない感触にはっとして顔を上げれば、掴んできたのは律斗だった。
真っ直ぐに黒い瞳で顔を見つめられた後、腕をぐいと引かれる。
体は簡単に回って、背中から放り出される。
そこをがしっと受け止められ、見上げれば、史琉の顔が見えた。
その顔を見つめてから振り返れば。
「あとは自分で何とかしろ」
律斗が、ぎりと奥歯を鳴らして睨んできた。
「分かってるって」
だが、史琉は穏やかな声で応じる。
律斗は静かに格子を下ろして出て行った。
呆然と、閉められたそこに灯台の炎が二人分の影を揺らすのを見つめた。
激しい雨音も相変わらず聞こえてくる。
何度か瞬いた後に、くい、と背を押され、体を起こした。
ゆっくりと振り返ると、史琉が見つめてきていた。
その口元に笑みが浮んでいることにほっとして、倖奈は体の向きを変え、座り直した。
正面に、片膝を立てて座った史琉が居る。
手を伸ばせば簡単に触れられる近さなのに、動くことも口を開くこともできずに、ただ見つめ返すと。
「…言いたいことがあるんだろう?」
史琉が笑うので、倖奈は静かに頷いた。
「沢山ある気がするの。でも…」
と、胸の前でぎゅっと両手を握る。
その奥底で先程まで渦巻いていた何かは、今はいない。
「…なんだろう」
さっきは一体何に突き動かされたのだろうと眉を寄せて顔を伏せる。
動きに合わせて、先に行くほどうねる細い長い髪が、しゃんと鳴って流れ、止まる。
「思っていることを素直に言ってくれ」
そこに低い声が降りてきて、また顔を上げる。
史琉は、少しも動かないまま、微笑んでいる。
その顔を見つめ、首を傾げて。
――思っていること?
「…例えば」
考えて。
「さっき秋の宮様のところで聞いた話は、知らなかったことだから驚いた」
言うと、少しだけ胸の底が重くなる。その感覚に眉を顰め、もう少しだけ言葉を継いだ。
「でも知らないのはわたしだけで、律斗は知っていたのね」
「…律斗はね」
すると、史琉は苦笑いを浮かべた。
「あいつと… 他にも数えるくらいさ。誰彼構わずするような話じゃないだろう?」
そうなのだろうかと首を倒すと、史琉の笑みが深くなる。
「聞いていて気分の良い話じゃない」
「そう… かもしれないけど」
倖奈は首を振る。
「それでも、私は知っていたかった」
史琉が通ってきた道を。成したいと願っているものが何なのかを。
そう思うと、また胸がぎしりと鳴った。知っていた律斗に対しても、話を聞きたいと口にした秋の宮に対しても、ずっと知ろうとしていなかった自分に対しても。
――ああ、そうか。
知ろうとしていなかったから知らなかったのか、と不意に思い浮かんで、唇を噛んだ。
いつか教えてくれるだろう、と心のどこかで思っていた。甘えていたのだ。
本当は、知ろうとして動かなければ何も知らないままで終わるというのに。
「わたしは本当に子どもなのね」
つい嗤うと、史琉が首を傾げた。
「どうしてそうなるんだ?」
「だって、何も知らないし知ろうともしないし。だから、何もできないままだわ。変わりたい、大人になりたいというのは口先だけ」
言って、そんな自分が可笑しくて、引き攣った笑みのままでいると、史琉が眉を寄せる。
その表情に、不意に違和感を感じて、倖奈は口元を引き締めた。
「史琉は… そうは思わないの?」
問うと、史琉はふっと息を吐き出した。
「大人になるのがいいことばかり… とも思えなくてね」
倖奈はくっと目を見開いた。
「…そうなの?」
知っていることも出来ることも増えて何がいけないのだろう、と今度は倖奈が首を傾げてみせると。
「前に言ったろう? 俺は人を殺したことがあるんだ」
史琉がゆっくりと口を開いたので、頷いた。
「人を助けたくて軍に入ったはずなのに、その軍の仕事として人を殺したんだ。矛盾した話だろう? でも、今もし同じ命が出されたら、俺はそれに従って人を殺せる自信がある」
史琉は視線を落とし、言葉を続ける。
「大人になるっていうのは、そういうことだよ。矛盾したことでもなんでもない顔をしてこなせるようになる。清も濁も併せ呑まなきゃいけなんだ」
そこで、ふ、と薄暗い笑みを浮かべて。
「俺は、自分がそうすることに対して迷いはない。だけど…」
と、顔を上げて、倖奈をじっと見遣ってきた。
「おまえにはそうなって欲しくない、何も知らないなら知らないなりに進んでいけると頭のどこかで思っていた。薄汚い人間になってほしくないと思っていて、事実おまえはそういうのと無縁のままだったから」
と言葉を切って、彼はゆっくりと俯いてしまった。
倖奈は一度瞬いて、見つめた。
「だったから…?」
「だから、聴かせたくなかったんだよ」
史琉は首を振る。
「もしこの話を聞かせた時に、おまえに嫌われないという自信はなかった」
瞬間。
また胸の底がずしりと重くなる。そこから湧き上がってくるのは真っ黒な何か。
それを何とか言葉に、声にしようと唇を戦慄かせる。
――あなたを嫌いになることなんか、あるはずないのに。
顔を上げない彼の袖に、ゆっくりと手を伸ばす。裾を掴み、皺ができてもなお強く握って。
「わたしを信じてくれてなかったの?」
呟く。
弾かれたように史琉が振り向く。それを真っ直ぐに見つめる。
何も言わずにただそうしていると、目の前が霞んでくる。
不意に史琉が笑った。
「そう… だよな」
乾いた笑い声を零しながら、史琉が両腕を伸ばしてくる。
「おまえを信じないで… どうしようって言うんだろうな」
そこに易々と捕らわれる。
肩に腰に腕を回されきつく抱き寄せられるのに、倖奈は黙って従った。
彼の胸に頬を押し付けた格好で、両手をそっと相手の背に回す。肩に回された手が少し動いて、顎を持ち上げられる。
顔と顔が近づいて、隙間はほんの少ししかない。
それでも静かに見つめていると、史琉は嬉しそうに笑った。
「…おまえはいつもこうだな。俺が考えもしなかったことを想っていてくれる」
言って、額に頬に、唇に、己の唇を寄せてきた。
一房髪を掬ってそこにも口付けられた後、もう一度唇を寄せ合う。
何度も何度も啄んだあと。
「ごめん」
史琉は低く言って、抱きしめてきた。
「泣くなよ」
首を振って、腕に力を込めて、それに応える。
「史琉」
呼ぶと、耳許で返事が聞こえ。
「大好き」
言えば、頷かれる。
「本当に大好き。だから、わたしの話を聞いてほしくて、あなたの話が聞きたくて。ずっと一緒にいたいって…」
――願っているの。
最期の言葉は口づけで吸い取られた。
「大丈夫だよ。離れやしない。できるものか」
くすくすと笑って、彼は頭を撫でてきた。
ふう、と息を吐き出す。
他にも何か言いたいことはあるような気もする。だが、それを表す言葉がもう探せなくて、倖奈はぐったりと身を史琉に預けた。
そのまま暫し、抱きしめたあと。
「落ち着いたなら、戻れ」
史琉はそう言って、ゆっくりと体を離した。
「おやすみなさいは?」
だが、倖奈は首を横に振った。
史琉が目を瞠る。
「戻らない。今夜は一緒にいたい」
そう言って腕を伸ばし、もう一度抱きつく。
強ばった肩口に頬を寄せて、擦り寄る。
史琉が大きく息を呑む。
「お願い。離さないで」
背中に回した腕に力を込めると。
「…参ったな、本当に」
史琉が呟く。
そのまま彼は後ろに引っ繰り返り、釣られて倖奈も倒れ込んだ。
彼の背に潰される形になった腕がそこから抜かれてはっとするが、直ぐに抱きしめ直されてほっと息を吐いた。
微笑むと、頬にまた唇を寄せられる。
その彼の肩の向こうで弱くなった灯台の炎が床に小さく影を揺らす。
橙色の温もりを見つめてから、倖奈はゆっくりと瞼を閉じた。
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