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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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七の二「決して気分のいい話ではないですよ?」

※文中にグロテスクな表現がございます。
稲光が部屋内を照らし、ゴロゴロと低く響く音が肝を揺らしていく。
心臓は飛び跳ね続けていて、衣の上からそれを押さえつける。
「どう思う?」
はっとして前を向くと、秋の宮の翠色の瞳がじっと見つめてきていた。
「どう… とは」
倖奈が瞬くと、相手はにやりと脇息に凭れ直した。
「何か思うところはないのかね?」
秋の宮の笑い顔がまた一瞬白く浮き上がり、それから雷の音が響く。
音が収まる頃に、きしり、と外の簀子がなった。
「俺自身としては、そういう喩えは嬉しくないのですが」
はっとして振り向けば、簀子には見慣れた人影。雨の匂いを含んだ風に、若竹色の直垂と短い髪を揺らして、史琉が立っていた。
「やあ、校尉」
秋の宮は斜めに座ったまま、ゆったり右手を振った。
「君にも来てもらえて嬉しいよ。入りたまえ」
「失礼します」
言って、史琉は硬く歩み寄ってきた。
また、隣の間から人が飛び出してくる。その彼が茵を置くと。
「ついでに盃もね」
秋の宮が笑う。彼はもう一度走り、盃と堤子を載せた膳をもう一つ置いていった。
「君は呑める口だよね」
見上げて、秋の宮が問うと、立ったままの史琉は頷いた。
「頂きます」
彼が倖奈の隣に置かれた茵に腰を下ろす。
がしゃりと腰に佩いた太刀が鳴り、若竹色の袖が揺れ盃を取るのを、倖奈は視線で追った。
その盃に秋の宮が堤子の中から酒を注ぐと、雨の匂いの中に酒精の薫りが混ざる。
緩やかな動きでそれを運び、史琉は唇を寄せた。
「如何かな?」
「大雑把な表現でよろしければ」
「言ってみたまえ」
「美味いですね」
史琉が応えると、秋の宮は笑い、己の盃を傾けた。
「理久も酒が好きだったな」
「はい。時折、御相伴に預かります」
「酒癖が悪いから大変だろう」
「そうですね」
口の端を吊り上げて、史琉は頷いた。
「泣き上戸でいらっしゃるから。いつも、延々と都にいらっしゃるというご家族の話を聞き続ける羽目になります」
秋の宮は溜め息を吐いた。
「連れて行けば良かったものを、渋るからと置いていったのだよね。それなのに愚痴を言っているのか」
「奥方のお気持ちを尊重されているんです。ただ、己の気持ちも吐き出さないと… と、それだけでしょう」
史琉は、ゆっくりと酒を舐めている。
それでもやがて空になった盃に、秋の宮がもう一度酒を注いだ。
「君から話をすることはないのかね」
「ありますよ。昼の公務ではお伝えすることもない、市井の噂話でも、兵の中での流行り事でも」
史琉は目を細め、また盃に口を付ける。
今度は少し早く中身を呑み込んで、また半分は残っている盃を握った手を下ろす。
膝の上で酒を揺らす史琉に対して、今度は秋の宮が盃を呷った。
「随分と他愛ないことだ」
「ええ、本当に」
冷えた笑いを貼り付かせたまま喋る横顔を、倖奈はじっと見つめた。
それから正面を見れば、目尻を下げた秋の宮も盃をいじっている。
「私にも話をしてくれたまえよ」
史琉は笑ったまま首を傾げた。
「どのような話をお望みなのでしょうか?」
秋の宮は鼻に皺を寄せた。
「君、私と倖奈の話を聞いていたのではないかね?」
「はて?」
にこりと唇を歪めて史琉が応じると、秋の宮は長く息を吐き出した。
「…訊き方を変えよう。そうだな… まずは… 生まれた家は?」
すると、史琉はふっと笑んで。
「貧しい家でしたよ」
と答えた。
「貧しい?」
「ええ… 家が、というより、村が、ですが。山間の小さなところで、田畑で育てた物と山に入って手に入れた物で食い繋いでいました。都や北の国府の街のように、衣装でも何でも十分に手に入れることができるというわけじゃなかった」
くすりと笑って史琉が言うと、秋の宮は瞬いた。
「その言い方は、それが昔のことだということだね。…今はどうなっている?」
「さあ? どうなっているでしょうね」
秋の宮が目を見開く。それに構わずに、史琉は膝の上で揺らしていた酒を持ち上げて、また舐めた。
「もう10年… いや、11年になるかな。軍に入る以前から戻っておりませんので」
話して、史琉は盃を口元から離し、笑った。
「よろしいですか?」
「いや、待て。そんなわけがなかろう」
がばりと、秋の宮が身を起こす。
「そう言われたら、今度はどうして戻っていないのかと問いたくなるだろう」
「おや、そうでしょうか」
「…君ね。ここまで人の興味を煽っておいて、黙るというのは卑怯でないかね」
溜め息と共に堤子が持ち上げられ、その中身が薫りと共にそれぞれの盃に移る。
史琉は黙ってそれを口元に寄せ、秋の宮はすっと飲み干した。
「戻っていない理由。もしかして、それは君が軍に入った理由と関係するのかな?」
それから、ふらりと脇息に凭れ直して、秋の宮は首を傾げた。
「さ、話したまえよ」
「…今、どうしても?」
史琉は眉を寄せた。
「…躊躇う理由が、何か?」
反対に首を倒して、秋の宮は笑う。
史琉は盃に口を寄せたまま、目を細めて。
ふと、倖奈を向いた。
その眸に見慣れない蔭が落ちているのを見つけて、倖奈は息を呑んだ。
だが、それが何なのかに思い至る前に。
「いや… 良いですよ」
彼は前に向き直り、盃の中を一気に飲み干して、嗤った。
ほんのり朱色に目元を染めた史琉の盃に、秋の宮がまた酒を注ぐ。
その盃をまた口元に持っていった彼の横顔は、昏い。
秋の宮は口端を綻ばせている。
「ワクワクするよ」
「さて、ご期待に添えますかどうか… 」
また一つ、雷が落ちた後に。
「決して気分のいい話ではないですよ?」
史琉は淡々と言葉を紡いだ。
「実り豊かな地というわけではなく、先程も言ったとおり生活は貧しい方でした。それでも、住んでいる人間にとっては唯一の故郷だった」



その山間の村には、稲は刈り取られた後の田があって、茅葺きの家が立ち並び、一番奥には土作りの蔵が三つあった。
その中は、主に村全員で使う祀りの祭具だったり、備蓄された食糧だったりするのだが。
史琉にとって、ここの主な用途は母から受けるお仕置きだった。
今日も朝一番に入れられて、木箱に凭れうとうとと船を漕いでいたが、がちゃん、と閂の抜かれる音にぱっと目を開けた。
「母さん?」
視線を扉に向ける。そこからは、苦笑いの母が入ってきた。
「史琉」
彼女ははあ、と溜め息をついた。
「少しは反省した?」
「うん」
史琉はにっこりと笑った。
「もうしないよ、母さん。だから、もうここから出して」
だが、母は目を細めて。
「しないよ、じゃなくて。今朝の話は、する、の方でしょ? あんたもいい加減に家の事、村の仕事を手伝ってくれなきゃ困るのよ」
「そうかなあ?」
史琉は首を傾げる。母は大げさに肩を竦めた。
「父さんがいないから、うちは少しだけ負担を軽くしてもらっているけど… それだって申し訳ない話なんだし。そろそろちゃんと働いて頂戴」
そう言って頭を振る。
髪は白い物が多くて、灰色に見える。目鼻立ちも決して派手な方でない。だが、人懐っこく砕ける笑顔と、その細い体のどこから湧いてくるのか分からない力は、間違いなく一人で彼を育ててくれた母のもので。
史琉はなおも笑って、飛びついた。
「俺、母さんのこと大好きだよ」
「あー、もう。知ってますよ。知っているから、母さんの力になって頂戴」
背丈はとっくに追いついた。それでも、膝をついて頭は母の胸に埋めるようにする。
彼女はふふふと笑って、史琉の頭を撫でた。
「こんな甘ったれたことを言っているようじゃあ、もうしばらくこの中ね。お昼ご飯は抜き」
「ええ!?」
史琉はばっと顔を上げた。
視線が合い、二人、困った顔を向け合う。
「ちゃんと働かないようなら、ご飯はないよ…」
そう、母が言った時だった。
開け放たれた扉の向こうから、甲高い声が聞こえた。
「…悲鳴?」
二人はまた顔を見合わせた。
声は高く高く、そして幾つも聞こえてくる。
「何だろう?」
母がすっと史琉の肩を押して体を離すと、歩いていく。
扉から母の姿が消えても、史琉はきょとんとしてそこに立ち尽くしてたが。
間もなく、蔵のすぐ近くから悲鳴が聞こえた。
「母さん!?」
ぞくっと肩が震え、体中が冷える。
あたふたと駆けて、戸の枠に手をかけて外を覗き、息を呑み、呟いた。
「魔物…」
蔵の一つ向こうの家の脇に、大人の背丈ほどはありそうな、奇妙な色の大きな何かが人に齧り付いていた。
悲鳴の主は人だったが、その声はどんどん細くなり、最後は狼の立てる咀嚼の音に消えていった。
史琉は目を見開いて、それを見つめた。
真っ赤な血を滴らせる口を開けて、鋭い牙を覗かせる姿は、醜悪で、凶悪で。
「嘘… だ」
史琉はへたり込んだ。
その瞬間。男を食べ終わったらしい魔物が顔を上げた。
視線が噛み合う。
史琉はひっと喉を鳴らして、後ずさった。
魔物はのそりと足を出す。
「ばか、何やっているの! 逃げるのよ!」
横合いから大声が聞こえる。
はっとすると、母の腕が伸びてきた。
ぎゅ、と抱きしめられる。
「母さん…」
――食べられちゃうよ。
そう言おうとした瞬間、どんと突き飛ばされた。
蔵の中に転がり込む。
背中から倒れ込んで、呆然と上を見上げた瞬間。
ばん、と戸が閉まり、がちゃん、と閂の下りる音がした。
「母さん!?」
史琉は跳ね起きた。そのまま扉に寄る。
「母さん! 母さん!?」
史琉は戸を叩いた。
だが、返事はない。その代わり、魔物の唸り声が聞こえた。
「開けて! 開けてくれよ! 母さん!」
大声で叫ぶ。
「もう悪いことしないよ。仕事だってするよ、母さん。だから、もうここから出して」
どん、どん、と戸を叩き、呼んだ。
「母さん!」

かしゃん、という音が遠くに聞こえて、史琉はゆっくりと顔を上げた。
天窓から覗く空は、いつの間にか赤くなっていた。声も何も聞こえなくなっている。
史琉は瞬いて、立ち上がった。そのまま踏み出して、戸を押した。
あれだけ叩いてもビクともしなかった戸があっさりと開く。
ゆっくり踏み出すと、錆びた匂いが鼻についた。
そして。
「母さん…」
戸の前に横たわる体を見下ろす。
小袖は破れ、そこから覗く肌も破れ、肉と骨が見える。
うつ伏せになった体はピクリとも動かなかった。
「母さん…」
がくん、とその場で膝をつく。
そのまま見回せば。
そこかしこに、同じように真っ赤な人の体が転がっていた。
隣の家の男。向かいの家の女の子。その向こうには、いつもいたずらを共にした少年とその祖母の姿。
「まさか… 皆…?」
史琉はふらふら、と立ち上がった。
動かない彼らを踏まぬよう、そっと進む。
「皆…?」
角を曲がっても、その先にあるのは骸ばかりで。
「うわああああああ!」
史琉は叫んだ。
叫び、走り出す。
―― 誰か、誰か!
血の池を飛び越え、家々の並びを駆け抜けて、街に向かう道の近くまできた時に漸く。
彼は止まった。
肩で息をして、その先のものを見詰める。
それは、血ではなく、夕陽を浴びて赤く。
「良かった…」
振り返り、頬を歪めた。
「生きている人がいた」
そういう女の小袖は胸から下がべっとりと濡れている。
膝の上には、動かない少年がいた。
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