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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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六の二「美しい恋人の姿を見て喜ばない殿方はいないと思うわ」

手紙に記されたのは、屋敷内の一角。
主殿にも程近いこじんまりとした棟だった。
ただ一つ巻き上げられていた御簾の前に立ち、一つ息を吸ってから。
「天音様」
倖奈は中に声をかけた。
「お入りくださいな」
声を返されて、倖奈はおずおずと踏み込んだ。
途端、明るい香りが体を包んで、思わず立ち竦む。
部屋の真ん中に腰を下ろしていた天音は、ころころと笑った。
「素敵でしょう?」
言って、すぐ隣に置いてあった衣をふわりと持ち上げる。
その下からは、鉄色の丸い香炉が現れた。
「衣装に香を焚き染めていたの。今年の季節は過ぎてしまったけれど、昨日と同じ沈丁花の香りにしたわ」
「昨日頂いた香袋の。…頂いた文からも同じ香りがしました」
「ええ。衣装と一緒に、焚き染めておいたから」
微笑んで、天音は手招きする。
倖奈は右手で懐の懐剣を抑えながら進んで、天音の正面に座った。
「お嫌いじゃなかったかしら? 他にも香りはあったのよ。芙蓉、金木犀、椿、桜…」
その倖奈に笑いかけながら、天音は言った。
「でも、昨日もよく似合っていらっしゃったし。こちらでよろしいですよね?」
倖奈は瞬いた。
「…この香りは嫌いではないです。ですけれど、よろしいと言われても…」
すると天音は、にっこりと笑うと、立ち上がった。
部屋のそこかしこには、色とりどりの衣装たち。
その合間を抜けて、天音は倖奈が入ってきた処に立ち、そこの御簾を下ろした。
「着飾らせるのがお好きな方がいらっしゃるのよ。その御方の頼みだから」
言って、深く深く笑う。
「倖奈さん、今日もお洒落していただける?」
細い手を差し出され、一瞬の間の後に、手を重ねる。
立ち上がらされ、そのまま元の衣装を取られ、別の衣装を掛けられる。
「…どなたかお聞きしていいですか?」
掠れた声で問うと。
「…終わったら教えてあげるわ」
と天音は笑うだけで。
細かな織の上に刺繍の施された帯で、白と見紛うほど淡い黄色の衣装を留められる。
その衣装は今まで着たことのあるどの衣装よりも、滑らかで柔らかい。
その上で座らされ、また白粉と紅をたっぷりと塗られる。
天音は静かに笑って。
「似合うわ」
と言ったが、倖奈は眉を寄せた。
「…わたしは落ち着きません」
「そう? 綺麗よ?」
天音の声は変わらず華やかに響く。
だが、倖奈は眉を寄せた。
どこか嬉しくないのは、天音に云われるからだろうか。では誰に言われたいのだろうと考えた瞬間、浮かんだ顔は一つ。
眉間をますます険しくすると。
「本当は、愛しい方に一番お見せしたいでしょう?」
天音が笑う。倖奈ははっと目を開いた。
何度か唇を空回りさせた後に。
「…でも、彼は喜ばない気がします」
そう言うと。
「そうかしら? 美しい恋人の姿を見て喜ばない殿方はいないと思うわ。もっとも、どのような姿を美しいと思うかはその方次第でしょうけれど」
朗らかな笑い声を返される。
だが、それは一瞬で。
「倖奈さんの愛しい方はどうなのかしら?」
天音は、しんと呟いた。
「史琉は…」
何を言うだろう。
懸命に考えても何も浮かばない。
また、ぎゅっと眉の間に力が入っていく。そこをつつかれて、倖奈はハッとした。
「そんなお顔は駄目よ」
天音が真正面から覗き込んで、笑う。
その笑みの雅やかさに、倖奈はほうと息を吐いた。
「…天音様は、何もかも完璧なんですね」
昨日茉莉が言っていた。化粧も衣装も完璧だと。倖奈はそこに、立居振舞いも表情も全てだと加えたくなった。
だが、天音は微笑みを崩さないまま、わたしもまだまだよと言った。
「愛しい御方に美しいと言われたことはないわ」
「…天音様でも?」
嘘のような話だと、倖奈は目を見張った。
「今一番与えていただきたい言葉。優しい抱擁よりも口づけよりも何よりも… ね」
その一瞬だけ、天音の顔に蔭が差す。
「そうやって、愛しい方の御心が信じられなくなる自分が一番嫌ね」
だがすぐに笑って、彼女は手を差し伸べてきた。
「さあ、どうぞ。次のお部屋にご案内するわ」



ざあ、っと風が吹くなり、ばさばさばさ、と木々の合間を黒い影が飛びぬけた。
「魔物か!」
男が叫び、太刀を抜き放つ。
鋭い切っ先は勢いよくそれを切り裂く。
また、別の男が横合いから来た影を払う。
一人、羊歯を踏んで駆け抜けると、その先にいた少し大きな影を刺し貫く。
「葵!」
最後、太刀を持たない男が両手を翳すとその隙間に光の玉が生まれ出る。
それは呼びかけられた男の太刀に飛び乗っていき、その勢いのまま男は太刀を振るった。
光に切り裂かれた影が霧散する。
地に落ちていた影も光を浴びて霞んでいく。
その様を見送ってから。
ほう、と若竹色の直垂を着た青年が息を吐いた。
「シロの技と同じだな」
「僕のがですが?」
光の残滓を右手に残したまま、一人太刀を下げず、桧皮色の上下にゆったりとした金茶色の羽織を来た青年が言うと、最初の青年が頷いた。
「そうです。知り合いと同じでした」
「その方も大学寮で見たのかな? 大学寮にあった文献の記載を元に作った技なんです」
一人だとできないのが難点ですね、と彼は笑う。
そこに咳払いが入り込む。
「それで。まさか、昨日の魔物もこれとは言わないな」
縹色に縦縞の織が入った直垂、二十歳を越えたばかりの年頃だろう青年が険しい声で言った。
すると、少し離れて立つ灰色の直垂に折烏帽子の青年が、太刀を納めながら溜め息をつく。
「人と同じ形だと屋敷で説明しただろう」
先の青年が振り返ると、後の青年は顔を顰める。
若竹色の青年は烏帽子の隅から零れた短い髪を指先で押し込みながら、困ったように笑った。
「昨日とは違います、近衛将監しょうげん殿。いいえ… 違うというより、いなかった、というほうが正しい」
縹色の青年は口を開いた方に視線を移すと、首を傾げた。
「いなかった?」
「ええ。昨日は人の形の魔物以外いなかった。ただ単に私たちが遭遇しなかっただけかもしれませんが」
「今日になって沸いた、という可能性もあるのですね。校尉殿?」
金茶色の羽織の青年が口を添えると、校尉と呼ばれた方が頷く。
「だそうです、葵」
「…分かった」
はあ、と息を吐き出して将監――葵はざっと踏み出す。
「行くぞ、泰誠」
金茶色の羽織の泰誠は肩を竦めて、残る二人を振り返る。
校尉――史琉も頷いて。
「律斗」
声をかけると、灰色の直垂の裾を軽く叩いてから、律斗も歩き出した。
そして、行き着いた森の奥には、雲が分厚くなってきた空に向かって伸びる大樹。
その傍に、彼ら四人は立ってじっと根元を見つめた。
そこも昨日と変わらず、大きな岩が太い木の根に抱かれるように埋もれていたが。
「漏れ出して、ますね」
泰誠がはっきりと言う。
「この岩の持っていた神気が弱かったのか、下に隠されている魔物が昨日より強まっているのかは分かりませんが。瘴気が漏れ出しているのは確実です」
岩を触り、その周りを具に見て触り、溜め息をついて。
ふっくらとした頬に丸い肩、普段は穏やかな空気を纏う彼が、険しい顔で振り返る。
「僕の今持っている物で、この岩の結界としての力を増す応急処置をしましょうか。策を練って、明日出直してきましょう」
すると、葵の眉が跳ねる。
「そんなことしなくとも… 岩をどけて、中の魔物を消してしまえば早いだろう」
きりっと歯を鳴らした。
後ろで、律斗が長く息を吐く。
「下に隠されている魔物が昨日より強まっている可能性があると、あいつも言っているだろう。もしそうだったら、迂闊に中に入っても太刀打ちできないかもしれないんだぞ」
すると、葵は振り返り、きっと睨んできた。
「やる前からできない事態を想定して何もしない。おまえは相変わらず腰抜けだな!」
「何だと!」
律斗が口元を歪める。
「まあまあ、二人とも」
肩をいからせた二人の間に、泰誠が身を滑り込ませる。
だが、葵は彼をも睨む。
「黙っていろ、泰誠! こいつはすぐああだこうだと屁理屈をこねて働かない男なんだ。帰ってきてもこうだとは…!」
「煩い! 向こう見ずの大馬鹿者め!」
そのまま、二人はぎゃあぎゃあと言い合っている。泰誠は肩を竦めて身を引いて。
苦笑いを一人離れて立っている史琉に向けた。
「校尉殿… 是非止めていただけませんでしょうか」
「喧嘩する程仲が良い、と」
「…僕が知る限りでは、それが当てはまるのは男女の仲だけです。この従兄弟たちには無理ですよ」
泰誠は溜め息をつきながら、ざっ、と史琉に歩み寄る。
「どうにか止めてください」
「本気を出した律斗には勝てませんので」
史琉が言い、ぽかん、と泰誠が口を開く。
「いや、本気じゃなくても勝てないな。兎に角、無理です」
彼は至極真面目な表情で言い切ってから。
「…ですが、律斗も馬鹿じゃない。そこそこで切り上げますよ。それよりも…」
と、視線を先ほどの大岩に向けた。
「あれを… どうするのが賢明と判断されますか? 今日は引き上げる、というのは同感ですが、その先の手段は?」
それに泰誠も苦笑いを消して、大岩に向き直った。
「…瘴気を消す力を持った方を連れてきたほうが早いですね」
史琉が僅かに首を傾げる。泰誠は振り返り、真っ直ぐに見つめてきた。
「昨日のあなたの判断は正しかったと思います。葵には悪いが、力づくで何とかなる相手ではないでしょう。一日で魔物を作り出すほどの瘴気を持っている存在なのですから、大きな神気でその瘴気を一気にかき消すようにしないと、こちらが危うい」
「…何か、その手段に心当たりが?」
史琉が問うと、泰誠は目を細めて首を傾げた。
「都にも神気を魔物に当てられる力を持った【かんなぎ】は何人もいるんですけどね。都の【かんなぎ】の悪い風習は、自分の力を他人に見せたがらないんですよ。書に残すことはするんですけどね」
あはは、と乾いた笑い声を立ててから、泰誠はふっと真剣な顔になった。
「時若殿。彼が出す炎は、瘴気を消すものだと思いますよ」
「ああ… そうですね」
史琉は笑った。
「彼なら、言えば来ますよ。好戦的なのは北の血なのでしょう」
「申し訳ございませんが、お力添えください」 泰誠も笑う。
「校尉殿。明日のあなたと時若殿のご予定は?」
「内裏に赴くことになっていますが、時若だけは外しましょうか?」
「ええ。是非」
二人頷き合う。
それから、泰誠は右の人差し指を軽く噛んだ。そして、懐から取り出した紙にさらさらとその指先で何かを書き付けて、それをぺたぺたと岩に貼っていった。
「本当に、取り敢えずの処置ですけどね。周囲に瘴気の害が及ぶのを防ぐことぐらいはできます」
泰誠がにこりと笑うと、史琉も頷く。
「さあ、葵! 一回帰りますよ!」
すると、言い合っていた二人が同時に振り返る。
律斗はざっと地を蹴って歩いてきたが、葵は。
「本当に放っておくつもりか!」
叫ぶ。泰誠はゆっくりと頷いてみせた。
「ほら、日も翳ってきましたし。一雨来る前に戻りましょう」
そう言って、彼が先頭で歩き出す。
「雨だけで済めばいいけどね」
史琉が小さく呟くのに、律斗は眉を顰める。
「史琉…」
口を開いた律斗を片手で制しておいて。史琉もまた歩きだし、律斗は黙って続いた。
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