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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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伍の七(不意に沸き起こった感情はぐさりと胸に刺さってきて)

ゆっくり歩いて、宛てがわれた棟に戻ってくる。
庭先の簀子には誰もいない。ぐるりと辺りを見回したが、庭や隣の棟に向かう渡廊にも誰の影もなかった。
――そう言えば、次郎は何処に行ったのかしら?
あの気持ちの悪い風が吹く前に、ふらりとどこかに行ったままだ。他にも、北の地から共に来た面々はどうしているのだろうと気になり、倖奈は棟に上がると静かに廊下を回った。
その北側に来てようやく人の姿を見つけて。
「美波」
そっと相手を呼ぶ。
彼女は長い髪をさらりと流して振り向いた。
そして、倖奈と目が合うなり、細い眉をぎゅっと寄せる。
「…何、その格好」
美波は険しい顔のまま、視線を上下に動かした。
それで倖奈ははっとした。
――そう言えば、先程、茉莉様と天音様に着せていただいた着物のままだ。
そっと視線を下ろせば、立葵の色の袖が揺れる。ゆっくりとそれを持ち上げれば、季節外れの花の香が立ち上る。鼻に擦れた袖先には僅かに白粉がついて、倖奈も眉を寄せた。
――宮様は似合っているとおっしゃってくださったけれど。
「…なんでそんな格好しているの?」
美波は刺を隠さない声で言ってきた。
顔を上げて、倖奈はもう一度彼女を見つめた。
「勧めていただいたから。…でも」
そこまで言ってから、はっとなる。
続こうとした言葉を慌てて飲み込んだが。
「でも… 何よ?」
美波はますます不機嫌に問うてくる。倖奈はゆっくりと息を吸った後、同じくらいゆっくり言葉を吐きだした。
「着るきっかけは勧めていただいたからかもしれないけど、このままで庭を散歩してくることを決めたのはわたしだわ。ただ…」
美波の片眉が跳ねる。その仕草にずきという痛みを感じながらも、倖奈は最後まで言葉を吐きだした。
「決めた理由は、分からない」
「…変なの」
ぼそり、と言って美波はこちらに背を向けようとしたが、倖奈は一歩踏み出して。
「…美波」
と呼んだ。
もう一度振り返った美波の表情は先程と寸分変わらない。
背に長く流した黒い髪も、鮮やかな紅色の小袖と肩にかけた打掛も北の地から寸分変わらなく見えて。
「美波は、どうして? どうしてその格好? いつも紅色を着るのはなぜ?」
不思議なくらい平坦な声で問う。美波ははあ、と溜め息をついた。
「…何言ってるのよ。好きな色を着て何が悪いの?」
答える声は刺々しい。だが。
「…紅色が好きなの? でも、わたしにいつも勧めてくれたのは、藍色だったわ」
倖奈が目尻を下げて言うと、彼女ははっと目を見開いた。
「…それは」
声も小さくなる。
「どうして、私には藍色だったの? 髪を結えって言ったの?」
言いながら、先ほどの茉莉と天音の姿を思い出す。あれがいいこれがいい、こっちが好きだと喋っていた二人のことを。
――好きなものを勧めてくださった茉莉様と天音様と。自分が着るくらい好きな物を勧めてくれなかった美波と。
衣装を勧めてくれたという結果は同じことだったのに何か違うと、不意に沸き起こった感情はぐさりと胸に刺さってきて、倖奈は唇を噛んだ。
美波は何度か瞬いてから、すっと視線を横に向けた。
そのまま、沈黙が降りる。
座ったまま、立ち尽くしたまま、全く違う方向を見ていると。
「何をしている」
更に低く押し殺したような声が部屋に響く。
振り向くと、時若が御簾を潜ろうとしているところだった。
後ろで一つに結わえた髪は僅かに乱れていて、袴の裾も皺が寄っている。
「お帰りなさい… 大学寮に行っていたの?」
倖奈が言うと、時若はああと答えて部屋に入ってきた。
そして、東向きの窓際にどかりと腰を下ろし、どさりと脇に抱えていた荷物を置いた。
濃い紫の風呂敷から現れたのは、数本の巻物で。
「借りてきたの? 一気に読む気?」
美波が呆れたような声を上げる。
「そうだが、悪いか」
時若はギロリと睨み返し、美波は肩を竦めた。
「そうじゃないけど… よく飽きないわね」
「飽きるわけないだろう。毎回違うものを読んでいるんだ」
「違う本でも同じようなことを書いてあったりするじゃない」
「本が違えば全く同じことが書いてあるわけではない。異なる視点からの考察も多いぞ」
言い合う二人をよそに、倖奈はそっと机に寄って、巻物を覗き込んだ。
記された題は、神気と瘴気の関係について記したものらしいことを示している。
――読んだことない。
倖奈は口元を綻ばせた。
――あとで貸してって頼んでみようかな。
「…人の読んでいる本にまで興味が湧くようになったのか」
心を読んだかのように言われ、倖奈は目を丸くして振り向いた。
横に座っている時若は口を尖らせて。
「前からそうであれば苦労はなかっただろうに」
と呟く。
倖奈は瞬いたが、時若はふいと横を向いてしまった。
「倖奈もだが、美波は都に出させていただいた真桜様のお気持ちを忘れていないだろうな」
美波が黙る。だが、時若は口を閉じず。
「【かんなぎ】としての修養が目的だ。忘れるなよ」
びしりと言い切る。
それを最後に、また部屋には沈黙が降りた。
三人が三人、違う姿勢で別の方向を向いたまま、時間が過ぎる。
どんどん赤く染まっていくその空気を裂いたのは、足音だった。
一番入り口近くにいた美波が立ち上がり、外に出る。
「あら、お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
のんびりと返ってきた声は史琉のもので、倖奈も立ち上がる。
間もなく上げられた御簾の傍に人影が立つ。
史琉だけでなく、律斗も颯太も居て、三人で出かけていたのかと思った次に。
「…なんでそんなに汚れてんの?」
美波が唖然とした声を上げる。倖奈も息を呑んだ。
颯太は背側が泥だらけで、何に引っ掛けたのかところどころ破れている。
律斗の灰褐色の直垂も土埃でさらに白く霞んでいて、史琉の前合わせにはべっとりと赤い染みが出来ていた。
「なんだ、その血は!」
本を閉じた時若も声をあげる。
だが、史琉は肩を竦めてみせた。
「大丈夫、全部返り血だから」
「そういう問題じゃない。何をしていたんだ、お前たちは!」
「え… と?」
時若の叫びに、颯太が口元を引き攣らせる。
だが、史琉は苦笑いをしたままで、律斗はそっぽを向いてしまった。
その様に颯太も口を噤む。
時若がぴくりとこめかみを動かした瞬間。
「時若」
史琉が殊更ゆっくりと言った。
「教えてもらいたいことがあるんだが」
「なんだ?」
時若が溜め息混じりに応える。
「魔物は瘴気から生まれるもの… だったよな」
「そうだ」
「その瘴気が尽きた時に、魔物は消える」
「そうだ!」
机に肩肘をついて、時若が眉を寄せる。
史琉は目を細めた。
「瘴気を消すためには、何をしたらいい?」
「手っ取り早いのは、神気を当てることだろう。【かんなぎ】の持つ…な」
時若はますます険しい顔になる。史琉も一度息を吸って。
「瘴気… が人に宿ることはありうるのか?」
と言った。
「東の国府でのことを忘れたのか」
はあ、と溜め息が響く。
「…そうだよなあ」
史琉は乾いた笑い声を立てた。
「本当に馬鹿なことを言う… お前の頭は腐っているのか!」
「…たまに頼ればこれだよ」
苦笑いを浮かべて、彼は肩を竦めた。
「…着替えてくる」
ぼそりと言って、律斗がまた歩き出す。
「待ってくださいよ!」
バタバタと颯太も追って行く。
史琉も、首を振って、踵を返した。
三人の姿が見えなくなってから、倖奈ははっとして駆け出した。
「待って…!」
美波の横をすり抜けて廊下に飛び出す。
だが、彼らに追いついたのは一つ角を回ったところでだった。
振り返った律斗が顔を顰める。颯太は瞬き、そんな二人に史琉は手を振った。
「行くぞ」
そう言って律斗は歩いていく。颯太は律斗と史琉、倖奈を順に見てから、律斗を追っていった。
待ってくださいよ、と言う颯太の声が遠ざかってから。
「史琉」
倖奈は真っ直ぐ史琉を見上げた。
「…何をしてきたの?」
相手は何も言わずに、苦笑いを浮かべた。そのまま右手を伸ばしかけて、止める。
「…あっちこっち汚れてて、悪いな」
「それは全然なんともない」
倖奈は眉を寄せた。
「何があったの?」
すると、史琉はゆっくりと頭を振った。
「俺も頭の整理がついていないんだ」
それから、中途半端に止めていた右手の先をゆっくりと倖奈の頬に添わせた。
「でも、必ず話すから」
向けられてくるのは、常と変わらない穏やかな視線。
それに心の底からほっとして、倖奈は黙って頷いた。
指先が離れていく。そこに白い物がついて、史琉は微かに目を見張った。
「…何か違うなと思ったけど」
そう言って、笑みを浮かべる。
「どこで覚えたんだ、化粧の仕方なんて」
その言葉に、はっとして両手を己の頬に当てる。
「…そんなしたら、折角のが全部剥げるぞ」
「で、でも…」
くくく、と史琉が笑う。倖奈は眉尻を下げた。
「…変、なのでしょう?」
だが、史琉は笑みを崩さないまま。
「そんなことないよ。見慣れていないから、違和感はあるけどな」
ゆっくりと指先で何かを掬うような仕草をした。
「いい匂いもするのにな。とにかく手が汚れているから、髪にも何にも触れないのが残念だ」
その言葉に、頬が火照っていく。
「…そ、そう、かしら?」
だが、史琉はゆっくりと笑んだ。
「兎に角、向こうで待っていろ。これだけ汚れていると、さすがに俺も辛いから」
「そう… よね。引き止めてごめんなさい」
しゅんとなりかけたところにまた笑みを向けられ、思わず笑みを零す。
史琉は頷いて、踵を返して、一歩踏み出したところでまた振り返った。
「倖奈」
呼ばれ、なに、と倖奈は首を傾げた。
「約束してくれ」
「何を?」
「…一人で外を出歩くな。次郎が一緒でも駄目だ。俺か、律斗か… とにかく誰かと一緒に出かけろ」
倖奈は瞬いた。だが、史琉の眼は真っ直ぐに見つめてくる。
その厳しさに心臓が跳ね、ゆっくりと首を縦に振った。
「一体、どうしたの?」
問うと、史琉はふっと力を抜いた笑みを返してきた。
「心配性なんだよ」
倖奈もまた微笑む。
史琉は片手を上げて、今度こそ歩み去っていった。
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