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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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伍の三「シロは何を企んでいるんだ」

さくさくと草を踏む音に合わせて白い尻尾が揺れる。
それを、ぬっと伸びてきた腕がむんずと掴んだ。
「何処に行くんだ?」
尻尾の主――大人の腰までもあるような大きさの白い犬は、目をひん剥いて振り返った。
掴んできたのは、武骨な手。手首から後も、筋張った、太さの割には力強さを感じさせる腕。
そのままゆっくり視線を進めて見えたのは、意味ありげに笑う男の顔だった。
「ご主人様の処か?」
そう言って、史琉は口端を釣り上げる。
初夏の笹の葉の色の直垂を着た彼は、短い髪を風に揺らしていた。
ついでに袖も揺らして、彼は姿勢を落として片膝を付き、黙したままの犬――次郎を見つめた。
「ほら、答えろよ。何処に行くんだ?」
「…何の捻りもない問い方だな」
もう一つ聞こえた声は、史琉のわずか後ろに立つ男のもの。
こちらは灰褐色の直垂に折烏帽子をつけた律斗だった。
目を細め、息を長く吐き出した彼を振り返り、史琉は目元に皺を寄せた。
「いいじゃないか。考えたら、こいつに訊くのが一番手っ取り早かったんだ」
今度は、律斗は首を捻った。
だが、史琉はますます笑い。
「無理に捜し出そうとか探ろうとかしないで… とっとと捕まえて吐かせりゃ早い」
「吐かせる、ね」
律斗はもう一度息を吐き出して、それから次郎に視線を流した。
次郎も真っ直ぐに視線を律斗に返した。
背筋を伸ばして両腕を腰に充てた姿は、背が低めで細身ながらも逞しく見える。
その見た目通りの強さが声に篭る。
「ついでに言えば、こいつは分かっているんじゃないのか?」
律斗が言うと、史琉は笑んだ。
「俺もそう思う。知っていて、動いているだろう?」
そうして、史琉はゆっくりと視線を次郎に戻した。
白い毛の中で黒い眸が円らに光る。史琉は笑みを崩さずに。
「シロは何を企んでいるんだ」
と言った。
「それも倖奈が狙いだろう? そうでなきゃおまえがあいつにばかりくっついて動くことはないんじゃないのか?」
次郎は黙って、史琉を見つめ返した。
そのまま二人と一匹は、一瞬黙り込み。
「ここまで話したんだ」
史琉は笑って、手を離した。
「さぁ、案内できるんだろう?」
もう一度、史琉の顔を見つめてから、次郎はゆっくりと顔を前に向けてかさりと草を踏む。
かさかさかさり、と音を立ててから、彼はゆっくりと振り返った。
「な?」
と史琉は律斗を振り返る。律斗は、大きな溜め息を吐いた。

そんな二人と一匹の遣り取りに、颯太はずっと目を丸くしていた。
だが、史琉が立ち上がったのを見て、はっとして踏み出す。
「校尉? 律斗さん?」
声をかけると、二人は振り向いた。
「颯太。出かけるぞ」
史琉が笑う。
「え? あ、はい」
颯太が慌てて頷くと、律斗の溜め息が響いた。
「こいつも連れて行って… 喧嘩に数で勝負する気か」
「向こうもこっちも何人だろうと負ける気はないぞ。おまえがいるからな」
史琉が振り向きもせずに言うのに、律斗はふっと笑った。
「よく言う」
そう言って、律斗が踵を返す。
史琉も笑い、それから真っ直ぐに颯太を見た。
「颯太。太刀を忘れるなよ」
「…はい」
颯太は頷いて、己の腰を見た。
この間与えられた太刀は左腰にしっかりと下がっている。
勿論、史琉も律斗も、常通りに下げている。
先ほどの言と合わせて、何処に喧嘩に行くのだろうと、颯太はゴクリと喉を鳴らした。
まだ慣れない重みが腰にずしりとかかる。
不意に生温い風が吹いて、頬を撫ぜ、草花を揺らす。
先を行っていた次郎は、足を止めて空を見上げた。空は高く澄んで、雲がやや早く流れていく。
一際大きな雲を見送ってから、次郎はゆっくりと歩き出して。その後ろを三人がついていった。



生温い風が庭木を揺らす。
茅葺きの大仰な棟からそれを覗いて。
「ああ、嫌な風が吹いたな」
と少年は笑った。
骨と皮しかないのではと思わせるような細さの脚を、括り袴の先から覗かせ、揺らす。
両腕は後ろの床に付いて、水干を着た体を支えている。
角髪に結った髪も脚の動きに合わせて揺れていて。
その様を少し奥まったところから見つめて、男は首を捻った。
「この風に何の意味が?」
問うと、孫に近いような年頃の少年はゆっくり振り返り、笑った。
「…今のは瘴気の風だった。結界が破れたな」
言葉はそれだけ。男は眉間に皺を刻んだ。
睨むような視線にも、少年はニヤニヤと笑うばかり。
男は恰幅の良い体を、少しずつ進めてその横に立った。
「言葉が足りぬ」
見下ろして言う。
「…説明が面倒くさいのじゃ。大殿」
だが、返ってきたのは間抜けた声。
「シロ」
低く鋭い声で呼ぶと、少年は足を揺らすのを止めた。
それを見て、男――三条の大殿はその場に腰を下ろした。
「何の結界が破れた。破れたことでなぜ瘴気の風が起こる。そしてその影響として何が起こる?」
手にした紙扇の先で床を叩く。
シロは二度三度と首を振ったあと。
「破れたのは… アオを突っ込んでおいた結界じゃ」
と言った。
「アオ、というのは… 借りる約束をしているあれか」
「そうそう。あれは瘴気の塊じゃからな。結界が破れたからあやつの瘴気がどんどん外に漏れて行っている」
両手を合わせ、それを離し、ひらひらと振る。
その様を大殿は黙って見つめた。
「まあ、今すぐに都がどうにかこうにかなりはせんよ」
シロは笑った。
「本来であれば、あの辺の住人やらが全て魔物と化しても仕方がない量だが、今はそうはならん」
「何故?」
大殿は眉を顰める。
「……倖奈がいるから」
シロはあっけらかんと笑った。
「倖奈というのは… あの北から来たという【かんなぎ】か」
「そうそう。一昨日、大学寮であったろう?」
大殿は首を傾げ。
「あんな、ただの小娘一人いることで何が変わる?」
「ただの…か。まあ、普通はそうじゃな」
シロは笑った。
「あれは神気の塊じゃ。瘴気というのは神気に触れると消える。あの膨大な量の瘴気も、倖奈の神気で消されていく」
両手を打ち鳴らし。
「六十年の間で、あんな神気の持ち主に出会ったのは初めてじゃ。瘴気を消し、それでも足りずに辺りに花を咲かす。どこまでいっても、神気が尽きる気配がない。同じく底なしの瘴気を持つ存在と、どちらが強いかな?」
シロは唇を舌で舐めた。
「ああ、楽しみじゃな」
両腕を天に突き上げ、シロは背を伸ばした。
「勿論、今のままアオを消すことだって叶うかもしれぬ」
「まだ、消すな!」
そこで大殿が叫ぶ。ゆっくりと振り向いて、シロはにやりとした。
「勿論。そういう約束じゃからな」
両手を下ろし、下のように床について、彼は首を揺らした。
「アオはそろそろ底を尽きかけておるからな。あれを消すだけなら、人を喰らわせ続けるだけで十分じゃよ」
ぴたりと動きを止めて、シロは真っ直ぐに大殿を見た。
「喰らわせて… 良いのじゃろう?」
昏い瞳。
大殿は僅かに身を退いて、頷いた。
「儂が喰らって良いと言った者はな」
「そうそう… 一人、どうしても喰わせたい男がいるんじゃったな」
シロが笑うと、大殿は眉を寄せて、もう一度頷いた。
「だが、まだ無理じゃな。もっともっと瘴気を減らしてから出さぬと、まだまだ何十人も喰らわねばなるまい」
紙扇で床をつついて、大殿は息を吐き出した。
「そういえば… 瘴気を減らすためにと結界に閉じ込めておいたのだったな」
「そうじゃそうじゃ」
シロは笑い、ゆっくりと立ち上がった。
「ただ、今の風でヒイロに場所がバレたかもな」
大殿は首を捻る。
「アオを隠されたりしたら面倒じゃ。ちょいと出かけてくる」
そう言って、シロは歩き、簀子まで行って振り返った。
「そうそう… 少し餌をもらえるかのう?」
「餌?」
「今の段階でアオに喰らわせてよい【餌】を」
シロが笑う、大殿は顔を歪め。
「…昨日帰ってきた阿呆どもを使え」
と小さな声で言った。



南の空を回った太陽を背に受けながら、歩き続け。
次郎は、都の小路を出ても尚進んで、緑の丘を歩いていた。
その後ろを付いて歩いて。
「…長閑ですね」
颯太は言い、視線を丘の麓に向けた。
なだらかな坂道沿いに、ちらほらと民家が立ち並ぶ。麓には水田の爽やかな緑が広がっている。
だが。
「その割には重苦しい空気だ」
前を歩いた史琉が呟き、律斗も頷いた。
「空気そのものが重い感じだ」
瞬いて、颯太はごくりを唾を飲み込んだ。
肌を撫ぜる風のどこか生温い感触に伝った汗を手の甲で拭うと。
「呑まれるなよ、颯太」
振り向いた史琉が笑った。
「え、あ、ええっと?」
瞬いて、首を傾げる。
その颯太にますます笑って、史琉は言葉を継いだ。
「胸を張れ。前を向け。――呑まれるなよ」
「はい」
もう一度唾を飲んで、颯太は首を縦に振る。
史琉は前を向き直り、次郎を追う。
そのまま真っ直ぐに丘を進んでいくと、目の前にこんもりとした、緑の濃い森が見えてきた。
その入口には朱色の鳥居。
覗き込めば、その先は上りも下りもなかったが、道というようなものはなく、木の根が張り出し、羊歯の葉が生えていた。
次郎はその中に迷うことなく入っていく。
「行くか?」
「勿論」
頷きあって、史琉と律斗が踏み込む。
颯太もその後ろに続く。
さくさく、と土を踏み、張り出した根を跨ぐ。
そして一際太く、盛り上がった木の根を越えたところで、史琉が振り返った。
「そこ、足元気をつけろ」
次を行く律斗が、一瞬瞬き、視線を下げる。
「…こんなところに穴?」
「随分深そうだな…」
そんな言葉が交わされた直後。
「…ぎゃあああああ!」
「馬鹿!」
「阿呆!」
悲鳴と二つの罵声が森の静寂を切り裂いた。
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