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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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伍の二「お洒落、しましょう!」

移された先の屋敷は、そこが一つの屋敷だというのが信じられない広さだった。
――北の砦の敷地よりは狭くても。
あそこは屋敷というより、それこそ砦なのだ。生活の拠点だけでなく、警邏や政などを行うための拠点もある。
ところがここは、本来は生活のための処のはずだ。
主の公職を反映してか生活のためだけとは言い切れぬようだが、それでも広い、と倖奈は溜め息を隠せなかった。

寝殿造の棟の一つで、欄干に凭れかかってぼんやりと外を眺める。
澄みきった青い空の下、枳殻が白い花をわっと咲かせている。
その中には、谷空木の薄紅と菖蒲の紫がところどころ混じっていた。
「素晴らしいお庭でしょう?」
不意にかけられた声に振り向くと、茉莉がにこりと微笑みかけてきた。
「宮様のお屋敷に来たのは久しぶりだけど… いつ来ても、ここのお庭は素敵。宮様はお花が好きなのよね」
谷空木の薄紅によく似た打掛を纏った彼女に、倖奈はゆっくりと頷いてみせた。
「好きだというのが… 良く分かるお庭です。こんなに広いのに、塀の際まで手が行き届いていらっしゃる」
「まあ、もう見てこられたの?」
「はい… こちらに来た昨日のうちに」
茉莉が驚いたような声を上げるのにも、首を縦に振った。
「花があんまり綺麗に咲いていたので」
「…倖奈さんもお花が好きなのね」
にこりとさらに笑いかけられ、倖奈は所在無さげに視線をさ迷わせた。
だが、茉莉は気にしてはいないようで。
「莉紗もこの庭が好きなの。今朝ももう遊びに行ってしまったわ。ここの庭師さんたちは気のいい人が多いから助かるけどね」
からからと笑って。
「もうすぐ、お客様が見えるの」
と言った。
「倖奈さんもお会いになってくださる? 私の旧くからの友人… 莉紗を産む前に宮廷に出て働いていたことがあるんですけど、その時の後輩なの。今も女官として働いていらっしゃるんだけど、たまに遊びに来てくれるのよ」
倖奈は首を傾げ、瞬いた。
「わたしも… お会いするのですか?」
「ええ。倖奈さんにお会いしたいって、と彼女たっての願いなの。どこで倖奈さんのことをお聴きになったのかしら?」
首を傾げながらもが茉莉はさらに笑うので、倖奈もはにかんだ。
「ご一緒させてください」
断る理由もない、と応えると、茉莉は嬉しそうに頷いた。



間もなく、客だと言って一人の女性が通されてきた。
菖蒲の紫と良く似た打掛の上に艷やかな髪を流し、細い顔には華やかな化粧。
体つきも華奢ながら、雅やかな空気を存分に纏って現れた彼女の顔を見て、倖奈はあっと声を上げた。
「ご機嫌よう」
彼女もまた倖奈を真っ直ぐに見つめ、微笑んだ。
「…天音様」
「覚えていただいていて、光栄ですわ」
「あら、もうお知り合いだったの?」
茉莉だけがきょとんとする。
天音はゆっくりと腰を下ろしてから。
「大学寮の書庫でお会いしたのよ」
と言った。
「その時はゆっくりお話できなかったから… 茉莉様とご一緒にこちらに見えたと聞いて、今こそお話できる機会だわと飛んできた次第」
「…それで倖奈さんに会いたいと言ってきたのね」
茉莉が手を打つと、天音はゆっくりと首を振った。
「この間は親しいお話は何もできていないの。だから、今ここで、改めて初めましてをしたいのよ」
そう言うなら、と茉莉も笑んだ。
「では、ご紹介しようかしら」
そう言って、向い合せに座った倖奈と天音の手を取った。
「北の地からいらっしゃった、倖奈さんよ。【かんなぎ】としてのお勤めで見えているの」
茉莉が言うと、天音はゆっくりと頷いた。
「倖奈さん。こちらが天音さん。先ほども言ったとおりよ、女官として内裏にお勤めなの」
「今は、【みかど】のすぐお近くよりも、大臣達の催しに侍ることが多いわ。だから、会議の場の近くで動いていることも多くて。校尉殿をお見かけしたこともあってよ」
告げられ、倖奈は戸惑った視線を返した。
だが、天音は気を悪くした風もなく微笑んだままで。
ゆっくりと手を握り返してきた。
「よろしくお願い致しますわ」
その手は滑らかで、しっとりとしている。
近くに寄ってこられた瞬間、揺れた袖からふわりと花の香りが立ち上った。
見上げれば、視線が合う。
細く形の良い眉。すっと通った鼻筋。紅を佩いて上品に弧を描いた唇。
思わず見入ってしまうと、茉莉が笑った。
「美人でしょう」
捻りのない言葉に倖奈はぎょっとなった。天音もまた苦笑いを浮かべる。
「茉莉様ったら」
「でも、本当だもの。私だってたまに惚れ惚れしちゃう」
茉莉はけらけらと笑った。
「せめてもの足掻きでお洒落だけはしようとするのよ。でも駄目ね、今日も完敗」
そう言って、肩を竦める。
「元々のお顔も綺麗なのに、衣装もお化粧も、香りまで完璧なんだもの」
ね、と視線を向けられ、倖奈はこくこくと首を振った。
それから、自分の着ている衣装の袖に視線を落とす。
茉莉に借りた、都に来てから始めて纏った梔子色。倖奈としては精一杯のそれも。
天音と比べると酷く虚しく見える。
ぎゅ、と眉根に力が入った瞬間。
「元々のお顔も大事かもしれないけれど、己を磨く努力をしなければ女は不細工になるわ」
天音が言った。
倖奈はゆっくりと顔を上げる。
視線は外れることなく天音のそれと絡む。
天音は嬉しそうに笑った。
「以前にお見かけした時から気になっていたの」
「…何が、でしょうか」
倖奈が瞳を揺らすと、天音はさらに微笑んだ。
「そんな不安そうな顔をしないで」
言って、振り向く。
「ねえ、茉莉様。倖奈さんはもっともっと美人になると思わないかしら?」
すると、茉莉は力強く頷いた。
「そうなのよ。初めてお会いした時は、もっと控えめな藍色を着てたのよ。でも、こういう明るいお色の方が可愛らしいわよね」
「髪も、よ。今日は垂らしているけど、この間はお下げだったのよ」
天音は笑みの色を変えていく。
「そうね。この間、解くようになったの。このほうが可愛いと思うわよね」
「あとはお化粧かしら。でもお若いからこのままでも素敵かしら?」
倖奈はきょとんとなったが。
茉莉と天音は、悪戯っ子のような笑みを交わしあった。
「倖奈さん!」
茉莉の声に、びくっと肩を揺らす。
「お洒落、しましょう!」
え、と呟いたが、彼女はすっくと立ち上がる。
ばたばたと去っていったかと思うと間もなく、葛籠を抱えて帰ってきた。
「家に帰ればもっとあるんだけど」
そう言って開けられた箱の中には、以前見たのと同じように色とりどりの衣装たちが詰まっていた。
いつの間にか、天音がどこからか鏡を運んで来て、倖奈の前に置いた。
戸惑う倖奈をよそに。
「さあ、やるわよ!」
茉莉が心無しか鼻息荒く言う。
天音も頷く。
そのまま。
次から次へと倖奈は衣装を着せられた。
石楠花、苧環、杜若に黄菖蒲の色ととっかえひっかえ着せながら。
「やっぱり明るいお色がいいわね」
「少し淡いほうが雰囲気に合うわよ」
などと二人は言葉を交わしている。
「お化粧は?」
「白粉を塗り過ぎたらオバサンよ?」
「じゃあ、少し控えめに。紅は差しましょう?」
倖奈が呆然としている間に、衣装は立葵の色のものに決まっていて、紅も佩いていた。
鏡越しに、嬉しそうに髪を櫛で梳く茉莉の顔が見えて、倖奈は頬を赤らめた。
「可愛いわ、本当に。これを見て驚かない男性はいないんじゃないかしら」
「そんな…」
驚かないなんて、と返そうとして、不安に駆られる。
だが、それをはっきりと言葉にする前に。
「私たちはこれがいいと思うけれど」
と茉莉が口を開いた。
「でも、普段は倖奈さんがしたい格好を好きに選んでね」
「そのとおりですわ。自分が納得していない格好だと、どんなに素晴らしい格好でも動いているうちにおかしな事になっていきますもの」
脇に座っていた天音がそう言って、すっと手を伸ばしてきた。
その手は小さな袋を倖奈の袖の中にふわりと落とした。
「匂い袋を入れましたのよ。本当は焚き染めると良いのだけど… 今日は急場凌ぎの方法ですわね」
そっと袖に鼻を近づけると、そこからは季節外れの沈丁花の香りがした。



天音は一刻あまり滞在して去っていった。
その後、茉莉が散らかった衣装を箱に仕舞おうとするのを手伝おうとすれば、大丈夫よと笑顔で返され。
倖奈は所在無さげに庭に出た。
濃くなった緑の中に咲く花々。匂いだけは自分もそうなのに、とても馴染めない。
白粉を叩いた顔もかさついて落ち着かない。
うろうろと同じところをさ迷っていると、かさり、と近くの草が揺れる音がする。
はっと振り向けば、大きな犬がいた。
「次郎!」
ほっと笑んで、膝をつく。
「…最初に見つかったのがおまえで良かったわ」
ぎゅっと白い体を抱きしめる。
すると、慣れない香りにか、彼は鼻を鳴らした。
倖奈は首を振った。
「おまえでもそうなんだものね…」
呟いて、袖に顔を埋める。
「美波は… この格好を見て、なんて言うかしら?」
時若は、律斗は、颯太は、それに芳永も、慣れない格好をさせられた自分を見て笑うだろうか。
それに、何よりも。
「…史琉は」
こんな自分を見て驚くのだろうか。呆れるのだろうか。
ぎゅっと眉を寄せて首を振ると、柔な髪が揺れる。
そういえば、史琉に言われて解いたのだと思い出して、だが彼が何も言ってこないことにも考えが至る。
「…変な格好って思っているのかな」
ね、と同意を求めるように次郎を見れば彼は不思議そうに首を傾げた。
そっと腕を解くと、彼はまたゆっくりと去っていった。
「…次郎? 何処へ行くの?」
問いかけに答えることなく、彼は草の向こうに消えていく。
――そう言えば、この間も。
芳永の邸に不逞者が押し入ってきた日も。気が付けば何処にも居なくて、思い出したように帰ってきた。
考えれば、彼はいつもそうだ。
犬一匹でふらふらと出かけるような場所があるのだろうか、と倖奈は首を傾げた。
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