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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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四の三「どこを狙われているか、分からないので」

居た堪れない気持ちで、倖奈は早々に大学寮を後にした。
見上げれば、空もくすんだ色に変わってきている。
――雨、降りそう。
周りの人もどことなく早足だ。倖奈も被衣を深く被るとぱたぱたと小走りで進み始めた。
大学寮の前の通りを東に抜けて川沿いへ、そこから南へ下っていこうとしたところで、隣にすっと気配が付いた。
思わず立ち止まり振り向けば、黒い眸が見上げてきていた。
「次郎」
倖奈は微笑んだ。
「今日もおまえはわたしと来るの?」
問うと、白く大きな犬はゆっくりと首を縦に振った。
「今日、ご主人に会ったわよ? シロと行かないの?」
じっと見つめてくる黒い眸。まっすぐに倖奈を写していて、彼が迷いなくこちらに来ているのだと知れた。
だから、ゆっくりと頬を緩ませて、また歩き出す。隣をぴたり次郎が付いてくる。
「…早く帰ろうか。雨が降ってきそうだもの」
そう言いながら進んでいって、ふと。
進む先の曲がり角から、見慣れた影が歩いてきた。
倖奈が瞬いて、名を呼ぶより早く。
次郎がたっと駆け出す。彼はすぐにその影に追いつくと、袖を引いた。
袖を引かれた相手は、ゆっくりと次郎を見て、振り返る。
視線が合うと、どくん、と心臓が跳ね上がった。
「…史琉」
掠れた声が唇から零れ落ちると、振り向いた相手も笑んで。
「倖奈」
名を呼び、手招いてきた。
ふわりと心が、足が軽くなる。駆け寄る間、彼は止まって待っていてくれた。
「…もう帰りか?」
隣に並ぶと、史琉が問うてくる。倖奈は頷いた。
「史琉も今帰ってきたの?」
言って、あれ、と首を傾げる。
彼は時若と一緒に会議に出かけていたはずだ。その証拠に、今も出仕用だという浅緑の袍を纏い冠を被っている。だが、時若がああ言って書庫に現れたののは疾うに会議が終わったからだろうに。会議が終わったから帰ってきたと言うには遅いのではないだろうか、と考えて。
「何処に行っていたの?」
ゆっくりと視線を動かすと、彼が左手に細長い布の包みを下げているのが見えた。
「時若と別れてから… ちょっと買い物にね」
そう言って、史琉は包みを僅かに持ち上げてみせる。
倖奈は瞬いたが、彼はゆっくりと笑うと、肩に手を乗せた。
行こう、と促され二人歩き出す。その斜め後ろを次郎が付いてきた。
「倖奈は大学寮か? 楽しかった?」
歩きながら、問われる。
「ううん… 今日は…」
倖奈は首を振った。
「どうした?」
史琉が目を細める。それを見上げてから、倖奈は視線を落とした。
「…あまり、知りたいことを調べられなかった。…もともと知りたいことはどこにも書いていないのかもしれない」
ぎゅっと被衣の襟元を掴んで、息を詰めて。
「わたしと同じような力を持った人って、やっぱりいなかったのかな」
呟くと。
「どうだろうな」
自分のものではない溜め息が聞こえた。倖奈も息を吐き出して、顔を上げた。
「もしいなかったとして… わたしに何をどうしたら良いか教えてくれるのは、誰?」
すると、史琉は顔だけこちらに向けた。
「…自分で考えろってことだろうな」
自然、眉が寄る。唇を噛みかけたところで、ふっと史琉は笑った。
「おまえは、何がしたい?」
唐突な問いかけに。
「え?」
倖奈は目を丸くした。だが、史琉は視線を前に戻して、ゆっくりと口を開いた。
「…人の役に立ちたいんだろう? それも、【かんなぎ】として。そうなるためにどうしたらいいか… それこそ、精一杯考えろ」
そこで一度息を切って。史琉はまた振り向いた。
真っ直ぐに視線を合わせて。
「俺が… 考えてやれればいいんだけどな」
と低く呟かれる。倖奈ははっとして首を振った。
「ううん… ごめんなさい。甘えちゃいけないところだったもの」
大人になるのだ。自分で自分の道を決められる大人に。
そう決めたのはついこの間のことだったではないか、と倖奈は掌に力を込めた。
「だから、頑張る」
書を読むことから離れようか、と不意に思いついた。
今必要なのは、知ることより、考えることかもしれない。
瞬いて、つい、足を止める。
――考えて、考えて。
誰かの力になれる日が来るんだろうか、とぎゅっと目を瞑る。そうしてから、ゆっくり顔を上げると、じっと史琉が顔を覗き込んできていた。
頬が熱くなる。
何度も瞬きを繰り返すと、史琉はくくっと喉を鳴らした。
「何か、納得できた?」
問われ、必死に首を振る。
「じゃあ、結論が出たところで…」
と、史琉は視線を倖奈を飛び越した向こうに投げた。
「芳永様。何なさっているんですか」
はっとして振り返ると、十歩以上離れたところの木の陰に緋色の装束の男が立っていた。
「気づいていたのかい?」
ぺろり、と舌を出して、背の高い男が笑う。
「ずっと同じ方向を歩いてくる気配があるな、とは思っていましたので…」
と、史琉も笑った。
「声をかけてくださって良かったんですよ?」
すると、芳永は大袈裟に首を振った。
「いやあ、君たちを見ているとついつい和んでね」
眺めていたくなるんだよ、と笑って歩み寄ってきた。
そのまま彼に合わせて、史琉が歩きだす。
倖奈も慌てて二人を追った。
「それはそれとして、倖奈」
と芳永が振り向く。
「今日は髪型が違うんだね。どうしたの?」
言われ、倖奈はまた頬が熱くなった。
「これは…」
と言って、俯く。
それにつられて、髪が揺れる。いつもなら三編みに結われているそれは先に行くほど渦巻いて緩く波打っていて、倖奈の唇も戦慄いた。
史琉は笑んで前を向いたままで。
芳永は何度か瞬いた後。
「…いいけれどね」
と呟いて、笑った。
三人と一匹、似たような門構えの並ぶ川沿いの通りを抜ける。
「さあ、我が家はもうすぐだ。一雨来る前に急ごう」
と、芳永が言った時に。
不意に、史琉が足を止めた。
「どうしたんだい?」
芳永が問う。だが、史琉は答えずに、厳しい視線を前に向けていた。
倖奈も瞬いて、ゆっくりと視線を前に向けた。
見えるのは、見慣れた墨色の瓦の門。
どちらかというと小ぶりのそれは開け放たれていて、地面に丸くなった影がある。
「…あれは」
と倖奈が呟いた瞬間。
「桂次!」
芳永が叫び、駆け出した。
「どうしたんだい… 一体何が」
と蹲る男の横に膝をつく。
芳永に揺さぶられ、男はうう、と呻いた。
呻き声と一緒に、赤いものが地を伝う。
――血。
そう思った瞬間、倖奈も駆け出した。
「桂次さん!」
門の前に駆けつけるなり、中を見遣る。
さあっと風が抜けた以外、邸の中はしんとしている。
「茉莉! 莉紗!」
芳永が叫ぶ。
そのまま立ち上がって走り出そうとした彼の肩は、ぐいっと掴まれた。
「史琉君!」
芳永が声を上げる。
「…下がって」
肩を掴んだまま、史琉はぞっとするほど低い声を出した。
「塀を背にしてください。どこを狙われているか、分からないので」
言いながらゆっくりと手を下ろし、彼は鋭い視線を門の中に向けた。
芳永が口を噤む。
「…倖奈。ちょっと預かっててくれ」
振り返りもせず史琉が細長い布包みを突き出してきたのを、倖奈は黙って受け取った。
包みはずっしりと腕にのしかかる。へたり込みかけたところを、隣に立った次郎がくっと支える。
倖奈はその次郎を見て、まだ蹲ったままの桂次と芳永を見つめ、史琉を見遣った。
無言のまま、ゆっくりと、史琉が邸に踏み入る。
ゆっくりと、二歩進んだところで。がさっと音を立てて、玄関の屋根の上から影が飛び降りてきた。
史琉が腰の太刀を抜く。
がん、と音を立てて刃と刃が噛み合う。
二度三度と音を立てあってから、影が僅かに後ろに飛び退く。
それを跳んで追いかけて、史琉が影に伸し掛る。
肘が影の首に掛かり、そのまま二人は地面に倒れ込んだ。
ごんっという音が響く。
がっと呻いて、影は動かなくなった。
史琉が身を起こす。
その足元には、気を失ったらしい男。小袖に括り袴とやたらに軽装で、口元から首にかけてだけは布がぐるりと巻いてある。
「…見るからに不審者だね」
不機嫌さを隠そうともせず、芳永が呟く。
史琉は頷いて、抜き身の太刀を握ったまま、ゆっくりと足を庭に向けた。
芳永もゆっくりと門を潜る。倖奈も静かにそれに続いた。
「茉莉様や美波は…」
揺れぬよう、声を必死に抑える。
「無事だと…良いけれど」
だが、芳永の声こそ震えていて。
倖奈は握るところを求めて、右手をさ迷わせた。
やがて、衣の上から懐の懐剣を握る。
――こういう時に、これは使うのかしら。
ぞっと背を冷たいものが伝う。
そのまま、心臓がけたたましく騒ぎ出す。
預かった包を抱きしめて、視線だけで史琉の背を負う。
彼は真っ直ぐに庭を歩いていたが、突然、地面を蹴った。
がさり、と草が鳴る。
同時に、主屋から影が飛び出してくる。
史琉が横薙に刀を振るい、影も振り下ろし、刃と刃が高い音を立て合った。
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