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花の如く 作者:秋保千代子

第三章

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参の一「大学寮の書庫に行っておいでなさい」

何かしたい、と思いは逸るものの、結局何も出来ないまま数日が過ぎ、風の暖かさが増してきた頃。
「良いお知らせだよ」
芳永がにこりと笑って、書状を差し出してきた。
「…これは?」
受け取りつつも、倖奈は首を傾げた。
「秋の宮様のところからの遣いが大急ぎで持ってきてくれたんだ。大学寮への入場許可の文書。これを持って行けば、入れてもらえる」
芳永は、目元に皺を寄せて応えた。
「君と美波君は、【かんなぎ】の力について学びに来たんじゃなかったっけ?」
倖奈は、あ、と呟いた。
「じゃ、じゃあ…」
大学寮、という名は、其処は如何にも学びの場であるような気がした。
そんな思いを裏付けるように。
「大学寮の書庫に行っておいでなさい。いろいろと勉強になるはずだよ」
向かいに立った男が微笑む。
倖奈はぱっと笑んで、頭を下げた。
「…ありがとうございます」
「早速行ってくるかい?」
「ええ、そうします!」
くるりと踵を返して、真ん中の芳永たちの使う主屋から北の対へ、ぱたぱたと簀子を渡る。
ちょうどその時、一番手前の部屋から、ぬっと人が出てきた。
「倖奈?」
その影は、倖奈を見ると軽く目を見張った。
「…颯太!」
「どうしたの?」
背がひょろりと高い、年の近い少年が首を傾げる。
「出かけてくるね」
答えながら、倖奈は彼をじっと見つめた。
「…颯太も?」
颯太は、小袖に袴といういつもの格好のままだが、脇に風呂敷包みを抱えていて。
「うん。オレは律斗さんのお供」
そう言って笑い、振り向く。その先、部屋の中には、もう一人居た。
「実家の… 道場を貸してもらえることになっている」
視線を受けて、そこに居た律斗がボソリと呟く。
彼はきっちりと結い上げた髪の上に折烏帽子を載せて、煤竹色に織り文様の入った直垂を着ていた。その腰には北の地から変わらず、重たげな太刀が下がっている。
律斗はそれをすいっと撫で、それを羨ましそうに見つめながら、颯太が笑った。
「貸してもらうっていうより、律斗さんがそこの人たちに稽古を付けることになっているんだって。それにオレも一緒に混ぜてもらうんだ」
そう言えば、船に乗っていた間も、ここへ来る道中も、折々に律斗は颯太に稽古をつけていた。その続きなのだなと、考えて。
「頑張ってきてね」
倖奈は笑った。
「倖奈も気をつけて」
「どこへ行こうと言うんだ」
律斗が目を細めるのに、倖奈は芳永からの話を掻い摘んで話した。
「…美波を知らない?」
そうして、問うと。
「先程出て行ったようだが」
低い声で律斗が答える。
それから、二人が倖奈が来た方へ歩いていってしまった。
「…美波、居ないんだ」
倖奈は、しゅん、と肩を落とした。
そして、手元の書状に目を落とす。そこには、倖奈と美波、そして時若の名が記されていて、北の地から来た【かんなぎ】への許可状だというのが容易に見て取れた。
簡単に、美波と二人で出かけるのだと思っていたが。
―― 一人、で行くの?
ぎゅと眉を寄せ、書状も握りかける。
その瞬間、くい、と袖を引かれた。
瞬いて、振り向くと、袖の下に白い影が見えた。
「次郎!?」
呼ぶと、黒い瞳がじっと見上げてきた。
「あなたが… 来るの?」
恐る恐る言うと、犬はこくりと頷いた。
その様にふわりと笑ってから。
「…犬も入れてもらえるのかしら」
首を傾げる。
「入れてもらえなかったら、外で待っていることになるわよ」
だがそれにも、犬はゆっくりと頷いて、倖奈はくしゃりと目尻を下げた。
「じゃあ、一緒に来てくれる? 迷子になったら… 助けてね」
言って、自分でも情けなくなる。
――道、ちゃんと覚えておかないと。
この間のように、運良く誰かに会って、連れてきてもらえるとは限らないのだから。と、そこまで思ったところで。
――今日は出かけていないんだった。
史琉と時若がいるのではないか、とはたと気がついた。
二人は連日、芳永に連れられて内裏で行われているという会議に連れ出されていた。今朝はそれがなく訝しんだら、流石に休みたい時があるんだよ、と芳永が笑っていた。
史琉は北の地へ文を出さねばならないから、と言っていた。
本好きの時若は、ここぞとばかりに奥の間で書を読みふけっているはずだ。
――声をかけたら… 一緒に来てくれるかしら?
思い、両手をぎゅっと握り締めながら、北向きの部屋に回る。
「時若…」
名を呼びながら部屋を覗くと、彼は予想どおりの姿勢で本を読んでいた。
狩衣の襟元を僅かに広げ、髪を背中に垂らしたままの姿で、本から視線を上げもせずに。
「何の用だ」
と鋭い声が返ってくる。倖奈はぎゅっとお下げ髪の先を握りしめた。
「芳永様から、大学寮の書庫に入れるようになったと教えていただいたんだけど…」
言うと、時若はぎろりと視線を向けてきた。
「ごめんなさい…」
思わず、呟く。
だが、時若は真っ直ぐに立ち上がり。
「行く」
そうはっきりと言った。
ばさばさと読みさしの本を脇の机の上に積み上げると、彼は歩き出そうとする。
「ま… 待って!」
倖奈は慌てて呼び止めた。
「わたしも… 行っても良い?」
すると、時若は怪訝そうな顔で振り向いた。
「珍しいな」
倖奈は目を見開いて、一歩退いたが。
「さっさと用意しろ」
玄関で待っていると言って、時若はスタスタと歩いていく。その後ろをのんびりと次郎が付いていった。
倖奈はさらに簀子を回って自分の部屋に飛び込むと、被衣を取り出そうと箱を開けた。
北の地から着てきた藍色のものは洗われて、畳まれている。一瞬それを取ろうとして、倖奈は躊躇った。
――どうして。
慣れたものが一番だろうに、と思うのに、手は真っ直ぐに藍色のそれに伸びていかない。視線を落とせば、既に着ている小袖も、梔子色のものだった。茉莉が可愛いと、芳永が似合っていると言ってくれた、小袖。
――綺麗だよ。
ふと、初めてこれを着た日に切った言葉が耳の奥で蘇る。
――あれは、単に着物のことを言っていただけで…!
頬を赤く染めかけて、倖奈は首を振った。
それから、迷わずに水色のものを掴むと、ばたんと蓋を閉じて部屋を飛び出した。縁側を早足で回っていこうとして。
ふと、その南向きの部屋の中を見た。
そこには、文机に向かって真っ直ぐ座る人が居る。
――史琉。
出かけないからか、烏帽子を被っておらず短い髪がぱらぱらと横顔にかかっている。格好も小袖に袴だけと寛いでいた。
その姿を足を止めてじっと見つめていると、彼はすぐに振り向いた。
「…どうした?」
声をかけられて、はっとする。
「…ごめんなさい、邪魔をして」
視線を逸らしたが、逆にそれではっきりと文机の紙と硯が視界に入り、気まずい思いになる。
「いいや… 大丈夫だ」
だが、彼は笑って立ち上がり、簀子へ寄ってきた。
「何か用か?」
真正面に立って微笑まれるが、倖奈は首を振った。
「…何でもない、わ」
気まずさを紛らわすために、両腕で水色の被衣を抱きしめて、俯いて。
「出かけてきます」
と、芳永に書状を貰ったことを告げる。
すると、話が途切れた少し後に。
「一人で?」
渋い声が返ってくる。恐る恐る顔を上げると、史琉が眉を寄せているのが見えて、倖奈はまた首を振った。
「時若も一緒よ。あと、次郎も付いてくるみたい」
すると、史琉は吹き出した。
「次郎もか…」
そう言ってから、視線を倖奈から外す。口元もすっと締まる。
冷ややかな表情に、倖奈はぞくりとなった。
「…どうかしたの?」
小さく呟く。
しばらく、史琉は答えなかったが。
「ちょっと待ってろ」
言って、部屋に戻っていった。
瞬いて、視線だけでその背を追う。
彼は、文机の横合い、刀を置いていたところに屈み込み、何かを掴んでから立ち上がった。
「それは…?」
「懐剣」
史琉が握っていたのは、拳二つ分より少し長いほどの小刀だった。黒漆の柄と鞘の、余計な飾りは一切無いそれを。
「俺ので悪いが、持っていけ」
彼は倖奈の襟元に差し込んだ。
どうして、と問おうとして唇は空回る。だが、史琉は意図を察したようで、笑んだ。
「物騒だって、芳永様もおっしゃっていたろう?」
倖奈は瞬いて、手を胸元に寄せた。着物の布越しに固い感触を指先が感じ取る。重みもあるようで、胸が僅かに苦しくなる。
「わたし… 刀の振り方を知らないわ」
「良いんだよ。持っていることに意味があるんだから」
史琉は笑う。
「持っていけ」
それからもう一度言われて、倖奈は頷いた。
すると、史琉の右手が頬に触れてくる。いつもの固く荒れた指先に擦り寄ると、史琉の笑みが深くなる。
「気をつけて行っておいで」
穏やかな声に倖奈はほっと笑った。
「うん」
行ってきます、と言って、倖奈は小走りで門に向かった。
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