挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
花の如く 作者:秋保千代子

第三章

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

49/100

弐の五「お洒落をしたんだね」

歩きに歩いて、川岸に出たとき、倖奈は思わず飛び跳ねそうになった。
――ここからなら分かる!
さらさらという水の流れる音と柳の木陰が続くそこは、先程ふらふらと歩いていた川沿いだった。ここからは川下へはずっと似たような門構えの邸が続くが、その中でも芳永の家はさすがに分かる気がした。
「多分… 分かる、よね?」
息を吐いて歩き出そうとして。
不意に脚に温かいものが触れた。
「…え!?」
慌てて視線を下ろすと、じっと黒い瞳が見上げてきた。
「…次郎?」
見間違いではない、と思う。真横に寄り添って立っているのは、大人の腰近くの大きさの白い犬。
シロとともに、北の地からずっと一緒だった犬。
「あなた、シロと一緒じゃないの?」
首を傾げたが、彼はじっと見上げてくるばかりだ。
「…わたしと来るの?」
反対側に傾げ問うと、彼?はゆっくりと頷いた。
「…そう」
倖奈は瞬いて、それから腰を落とした。
次郎の黒い瞳を真っ直ぐに覗き込んで、微笑む。
「でも、わたし迷子なのよ。無事にたどり着けるからしら?」
そう言えば、前も迷子になった時に次郎がいたな、などと思ったところで、次郎がしっぽを振る。
ぱたぱたと白いそれを小気味良く揺らしながら、彼も腰を落とした。
倖奈は吹き出して、右手を伸ばす。
そっと頭に触れても、彼はじっと見つめてくるだけなので、倖奈はほっとした。
「ねえ、次郎…」
呼んで、微笑む。
「すぐ迷子になるし、何も成さないし、わたしって本当に情けないわね」
呟く。だが、次郎が何も言わずにじっと見返してきた。
それにさらに笑いかけて。
「わたしも何かしたい。でも、どうしたらいいのか分からない。本当にできるのかどうかさえも…」
一度息を切って、首を振った。
「さっきは、何かしなきゃ、と思ったわ。でも、それも思いつきだけで、今は何をどうしたらいいのか分からない…」
ゆっくりと目を伏せる。
小さく頼りない手をゆっくりと次郎から離した時。
「倖奈?」
呼ばれる。え、と振り向くと、朝方邸を出て行った男たちがそのままの装束で川岸を歩いてきていた。
倖奈は立ち上がって、三人の顔を順に見つめた。
「何をしている」
その中から、つかつかと時若が歩み寄ってきた。
「えっと… さ、散歩…?」
眉尻を下げて応えると、彼の眉は釣り上がった。
「一人でフラフラしているんじゃない。第一、この犬はなんだ」
「なんだって… 次郎よ。シロが連れていた」
「知っている。それがなんで、おまえと居るんだ」
歪んだ唇から不機嫌な声が飛び出してきて、倖奈は肩を竦めた。
勝手について来たのだ、とは答えられず、ただ目を伏せる。
すると、時若はさらに厳しい声を出す。
「俺が聞きたいのは、何故、こいつがここにいるんだということだ」
倖奈は縮こまった。
「…シロに逢ったのか?」
そこに、史琉が横合いから言葉を差し入れてきた。
二人、はっと振り返る。
倖奈は見上げて、頷いた。
「なのに、一緒にいるのは、次郎だけか?」
史琉が微かに首を傾げる。それにも、倖奈は頷いた。
「シロとは、少し話をして、すぐに別れたわ。次郎は、どうしてか一緒に来ていたの」
すると、史琉は、へえ、と笑った。
「一緒でも… 平気?」
倖奈は恐る恐る言った。だが、史琉は眉一つ動かさずに口を開いた。
「俺は何とも言えないな。芳永様が犬をお邸に入れさせたくないと言えば…」
駄目だ、と言いかけた声を。
「そうは言わないよ」
芳永のくすくすという笑い声が遮る。
「君たちの知り合いの飼い犬だというなら、それを信じるさ」
「ありがとうございます」
史琉が腰を折る。
時若は、ちっと舌を鳴らし、すたすたと歩き出した。
それから、笑顔の芳永がすいと寄ってくる。
「一人で出歩くのも結構だけど、治安が悪い所も多いから、気をつけて」
そう言って、彼は倖奈の肩を軽く押して、歩くように促した。
頷いて、歩き出す。次郎はぴったりと真横に付いてきた。
その横に芳永が付き、振り返れば、浅緑の袍のままの史琉がゆっくりと付いてきていた。
倖奈は、振り返ったまま、口を開きかけたが。
「倖奈」
横から呼ばれ、振り向いた。見上げれば、芳永が細長い指で、倖奈の袖を指した。
「お洒落をしたんだね」
「…茉理様にお借りしました」
可笑しいだろうか、と眉を寄せたが、芳永は目元に皺を刻んで言った。
「似合ってますよ。ねえ、史琉君?」
そうして振り向く。倖奈も振り向くと、史琉がどこか困ったような顔で頷いた。
「…そうですね」
言って、彼は足の運びが緩めて、視線を落とした。
だが、芳永はそのままの速さで進んでいて。倖奈は両方を見比べてから、芳永に付いて歩いた。
次郎はピタリとついて来る。その白い大きな犬と倖奈を見比べてから、芳永は笑んだ。
「茉莉はそんな衣装まで作っていたんだねえ」
「…これは作っただけで着ていなかった物だとおっしゃってました」
応えると、彼は目を細めた。
「本当になんでも作るねえ…」
呟いた彼の横顔を見上げて。
「茉莉様の手は」
と倖奈はしんと言った。
「荒れて… 指先ががたがたになっていらっしゃいました。針を持つので荒れるのだ、とおっしゃって」
「…そうだね」
すると、芳永は少し寂しそうに笑った。
「でも、手が荒れてしまうから裁縫は止めなさい、とは言えないのだよ」
「…そうでしょうか」
「そうさ」
眉を寄せてみせると、芳永の笑みはさらに深く静かなものになった。
「好きなんだよ。布を持って形を作るのが、そこに紋様を描くのが。それを誰かが着ているのを、喜んでいるのを見るのがね。僕や娘のだけじゃない、頼まれれば友人たちの分まで作ってしまう人なんだ」
声にも深い深い想いが篭っていて、耳の奥にしっかりと染み込んでいく。
「確かに荒れてしまうのは悲しいものがあるけれどね。好きなことに、誰かに喜んでもらえることに打ち込む、そういうところが愛しくて… 共に生きる覚悟でいる。だから、止めさせたりなんて、しないよ」
倖奈はじっと芳永の顔を見つめた。
「何かをしている方の手は… 荒れてしまうものでしょうか」
「そうだね…」
芳永はゆっくりと首を傾げた。
「荒れるというか… そういう形の手になるんだと思うな」
そう言って、彼は自分の手をひらひらと振ってみせた。
「僕の手は… そういう意味では何もしていない手だね」
細長い指はすらりと伸びていて、色も顔の色と近く、角がない。
「強いて言うなら、たまに紙で指先を切ってしまうくらい」
「あ…」
それなら覚えがある、と倖奈は吹き出す。芳永も笑んだ。
「それ以外というと… 通ってきてくれてる彼女たちは日に焼けているしねぇ…」
その指先を顎に沿えて、芳永は首を捻り。
「あと、律斗の手は、僕とは正反対だね」
視線をずっと前に向けて、呟いた。
「律斗は昔から剣術が好きで、暇さえあれば稽古をしていた。だから、刀を握るところにタコができている」
倖奈がじっと見上げると、彼は言葉を継いだ。
「実はね、昔から結構羨ましく思っているんだよ。男らしい手だってね」
そう言ってから、ゆっくりと振り向いた。
「史琉君の手もだね」
吊られ、倖奈も振り向いた。
史琉はずっと後ろをのんびりと歩いてきていて、視線の向かう先は川岸の柳や花で、こちらではない。
ゆっくりと前に向き直って、芳永は言った。
「やっぱり、ずっと戦ってきたから… と思うよ。骨ばって節くれだってて… 武士の手、って感じだ」
「武士の」
見上げれば、芳永は穏やかに笑っていた。
「頼もしいよね」
小さく首を縦に振ってみせると、芳永は笑った。
そうこう言っているうちに、視線の先に門が見える。
「さあ、着いた。ゆっくり休みたいねえ…」
言って、芳永は歩く速度を上げた。
門の前ではまた桂次が掃き掃除をしていたが、こちらに気づくと頭を下げてきた。
その彼に駆け寄って、芳永が喋りだすのが見える。その横を時若がすいっと抜けていった。
次郎ものんびりと歩いていく。桂次がやや驚いたような顔をしていたが、芳永と一言二言交わすと、すぐに中に入れてやってしまった。
そんな様子を見てから、倖奈も歩いていこうとして。ふと振り返った。
「史琉?」
10歩以上後ろで。史琉は立ち止まって、右手で口元を覆って、彼はじっとこちらを見遣ってきていた。
すっと細められた目元だけで、彼が何を思っているのか想像もつかず、倖奈は立ち尽くした。
「…どうかしたの?」
ぎゅっとお下げ髪の先を握る。
彼は何度か瞬いた後。ゆっくりと歩み寄ってきた。
そして、倖奈のすぐ傍に立つと、口元を覆っていた手をずらし。
すいっと耳元に顔を寄せてきた。
「綺麗だよ」
低い声が、耳朶を震わせる。
倖奈はきょとんとなった。
だが、彼はすぐに身を離し、またゆっくりと歩いていく。
倖奈はばっと振り返った。
史琉はまさに門をくぐって邸に入っていこうとしていたところで。
――今の…
何のことを言ってくれたのだろう、と問いたくてもできなかった。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ