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花の如く 作者:秋保千代子

第二章

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四の六「他に人がいると、おまえとどんなふうに口を利けばいいのか分からなくなる」

夜更け、冷たくなった風が御簾を揺らす。
几帳で仕切られた部屋の中に寝息が響く。
一番奥の几帳の陰で、美波はもう眠っているようだった。
反対側、一番簀子寄りの布団では、颯太が丸くなっている。時折ごにょごにょ呟いているが、どうも人の名前らしい。聞いたことのない名前ばかりなので、おそらくは故郷の夢なのだろう、と倖奈は笑みを浮かべた。
そのまま膝で擦って、御簾の際に寄る。
三編みから解かれて柔らかくうねる髪を背中に流して、ぎゅっと小袖の胸元を両手で押さえて、息を殺す。
隙間からは、仄赤い炎と。
「…どうだった?」
「見つからなかった」
史琉と律斗の声が漏れてきた。
「通りには当然いなかった。一応、川原も見に行ったが、暗くて血の跡は分からなかった。親切な御仁に拾われたか、死んだか…」
律斗の溜め息が響く。
「おまえも何やっているんだ。腕を切るなんて半端なことをするくらいなら、最初から…」
「…反省しているよ」
史琉の声も響く。
「駄目だな。都に行く話が出てから、調子が狂いっぱなしだ」
それからもう一度、律斗の溜め息が聞こえた。
ついで、カタン、と何かが床に置かれる音がして、しゅるしゅると紐のような何かが巻かれていくような音が響く。
そして。
「倖奈。出て来いよ」
不意に呼ばれ、倖奈はびくっと肩を揺らした。
唇を震わせて応えようとするが、声が出ない。瞬いて、ぎゅっと両手を握り締めて、何度も息を吸って、逡巡しているうちに。
ばさ、と御簾が捲れ上がった。
「呼ばれたら、とっとと出てこい」
向こう側に立っていたのは律斗だった。
直垂を着、折烏帽子を付け、腰に太刀を下げた彼は、右手で御簾を支えて、鋭い視線を落としてきた。
「グズグズしてないで、とっとと動け。邪魔になるな。だから女ってやつは…」
ぎり、という歯ぎしりの音まで聞こえそうな形相で睨まれ。
倖奈は恐る恐る、立ち上がった。
そっと御簾を潜り、簀子に出る。すぐに、ばさっと御簾が下ろされた。
庭は夜の闇に沈んでいたが、墨色の空には銀色の雫が沢山散っている。
遠くからは笛と太鼓の音が聞こえ、赤い揺らめきも見える。
「お祭り…」
呟くと。
「時若とシロは相当楽しんでいるようだな。戻ってこないよ」
苦笑いを含んだ史琉の声がして、振り向く。
彼は直に簀子に座っていた。
切袴に小袖だけの姿で、膝の上には鞘に納まった太刀を載せていた。脇には低い燭台が置かれ、周りには布や何かの道具が置いてある。
思わずそれをじっと見ると。
「刀の手入れは早くやってしまわないと、のちのち面倒だからさ」
と、史琉が笑う。
「お星様の明かりを頼ってやってたんだよ」
倖奈は、こくん、と頷いた。
横に立っていた律斗は、すっと身を返す。
「もう一度だけ見てくる」
「ああ、気をつけて。よろしくな」
たんたんたん、と足音を響かせて律斗が去っていく。
その背中が角を曲がって見えなくなってから。
「倖奈」
呼ばれ、もう一度肩を揺らした。
振り返れば、史琉は笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「眠らないなら、こっちにおいで」
倖奈は瞬いて、また両手を握り締めた。
「…わたし、史琉の傍に行っても良いの?」
「なんでそんなことを訊くんだ?」
史琉は軽く目を見張った。
そのままじっと見詰め合う。そして、先に視線を逸したのは史琉だった。
「…言わせているのは俺か」
呟き声に、倖奈は首を傾げる。
史琉はすっと立ち上がった。
膝の上にあった太刀は左手で持って、倖奈の前に立つ。
そのまま、右手が伸ばされて、倖奈の左頬に触れる。
荒れて固い指先の感覚に僅かに目を細めてから、真っ直ぐに視線を向ける。
「…ごめん」
と、史琉は言った。
「…何が?」
唇を戦慄かせて問うと。
「寂しい想いをさせている… のだろう?」
彼はまた、苦笑いを浮かべた。
「北を出てからあまり喋っていないから、そう感じてしまうのは当たり前だと思ったさ。だけど、どうも他に人がいると、おまえとどんなふうに口を利けばいいのか分からなくなる」
「そう、なの?」
倖奈はキョトンとなったが。
「俺は照れ屋さんなんだよ」
史琉はまた嗤った。
そのまま、右手は頬を滑り落ち、肩に回される。ぐいと引かれ、倖奈は史琉の胸に倒れ込んだ。
肩を抑えられ、胸に頬を押し付けるかたちになる。
温かい匂いに、倖奈はくらりと眩暈を覚えた。
だから、史琉が腰を落とすのに逆らえず、座り込む。
片膝を立てた史琉の腕の中にすっぽりと収まって、倖奈はじっと唇を噛んだ。
左頬を彼に押し付けたまま視線を落とせば、史琉の左手が、白い布がきつく巻き付けられているのに、太刀を握りっぱなしなのが見える。
右手はすっと肩を離れると、髪をゆっくりと梳いていった。
穏やかな動きに、漸く肩の力を抜いたところで。
「前に、二人で祭り見物に行っただろう」
史琉の声が降ってきて。
「覚えているわ」
倖奈は応えた。
「あの時も… 知り合いに遭遇し続けて、その度にそいつと喋ってばかりで、おまえに構っていなかったなと思ってさ」
倖奈ははっと目を開いた。もう一度体を強ばらせる。
その体を史琉の腕がぎゅっと抱きしめてきた。
「ごめん」
耳元で囁かれる。
倖奈は、恐る恐る、両手を史琉の背に回した。
ぎゅ、と腕に力を込めて、頬をさらに押し付ける。
史琉の腕にも力がこもる。
倖奈は溜め息を吐き出した。
「そんなことを… 思っていたの?」
「…そうだよ」
ゆるゆると顔を上げると、史琉の困り顔が見えた。
それを見つめながら、ゆっくりと思考を巡らす。
昼間に感じた、その祭り見物の思い出は。ここのところ、言葉を交わせない不安から考え違いをしていたのかもしれない。
言葉を交わせないことから湧いたその不信も、実は自分が勝手に怯えていただけのことで。
――あなたがどれだけわたしを想ってくれているのか、分かっていなかったから。
勝手に、嫌われた、と思い込んでいただけなのかと思うと、すとん、と胸が晴れた。
「わたし… 何も知らないのね」
ふわ、と笑う。
「何も?」
史琉が怪訝そうな声で言ったが、倖奈は顎を引いた。
「あなたが何を思っているか、知らない」
じっと見つめながら、呟く。
「何を思って、何をしてきたのか、全く知らない…」
そうして、はっとした。
「史琉」
名を呼ぶ。
「なんだ?」
すると、真っ直ぐに見つめ返してくれた。
その穏やかさと。
―― 人殺し。
夕暮れに、男が何度も叫んでいた言葉の不穏さが重ならない。
倖奈は何度も瞬いて唇を空回らせたか、その様を史琉は微笑んだまま見ていた。
何度目かの空回りの後、倖奈は一度息を吸い込んで、漸く言った。
「人を… 殺したことがあるの?」
途端、史琉の顔から全ての表情が消え去った。
その冷たさに息を呑む。
そして、そのまま止まった暫し後に。
「ある」
史琉は言った。
倖奈はなお、彼をじっと見つめた。
すると、史琉はふっと表情を緩めた。
「前の… 理久様の前任の北の帥様は気の短い方でさ」
少しだけ視線を遠くに投げて呟いて、それから彼はまた真っ直ぐに顔を覗き込んできた。
「もう、5年になるかな… その頃、北の地で盗みやら殺しやら悪さを続ける破落戸の一味がいてさ。前の北の帥様が、そいつらに業を煮やして、一気に殺せって命じたんだよ。で、その仕事にその時の校尉と俺と、他にもう二人で行って… その時に」
口元に浮かんでいた笑みはすうっと深く沈んでいく。倖奈は黙って、史琉の胸元を掴んだ。
「最悪だった」
彼は低い声で話し続けた。
「助けてくれ、殺さないでくれ、と叫ぶ人間に… 生き物に刃を向けるんだ。斬るたびに血が吹き上がってさ… 魔物と戦うのとは違う怖さだった」
そこまで言って、史琉は黙った。
倖奈も唇を噛んで、じっと見上げた。
さわ、と風が通る。
燭台の炎が影を揺らした後に。
「軽蔑した?」
ぽつん、と掛けられた言葉に、倖奈は目を見開いた。
「…何が?」
倖奈は首を傾げる。
史琉は昏く笑い、見つめてきた。
「こんな… 簡単に人を殺せるろくでなしだったのかって… 軽蔑した?」
「どうして…」
倖奈は頬を歪め。
――どうして、蔑むことが、謗ることができるだろう。
頭を振った。
「史琉は、前に… 成したいものがあるから軍にいるって言っていたわ」
「…そうだっけ?」
「だから、怖いけど戦えるって」
「…言った、かな? 忘れた…」
何かを嘲るような笑みを浮かべたままの史琉の頬にそっと手を添える。
「それもきっと… 成したいもののためだったのでしょう?」
――成したいものとは何なのか、も知らないけれど。
両手で顔を包んで、真っ直ぐに瞳を覗き込んで。
「史琉が信じてやってきたことを… 否定なんてできない」
言うと。
史琉の眸が、くらりと揺らいだ。
「参った…」
そう呟いて。彼は右手を倖奈の肩から離し、頬に添えられた倖奈の手をそっとどかすと、そのまま自分の顔をその手で覆ってしまった。
座り込んだまま、倖奈は肩を震わせた。
「史琉」
掠れ声で呼ぶ。
「…なんだ?」
応えながらも、史琉は右手で顔を覆ったまま、立てた右膝にごとんと頭を乗せた。
その肩におそるおそる両手をかける。
ビクリ、と肩は揺れたが、振り落とされることはなかった。それでも顔は上げられない。
倖奈はまた唇を戦慄かせた。
「わたし、あなたが好きなの」
小さく、小さく、呟く。
「ずっと一緒にいたい。たくさん話をしたい。わたしの話を聞いてほしくて… あなたの話が聞きたい」
彼は何も答えない。
その微動だせずにいる彼の肩を掴み。
「史琉」
倖奈はさらに掠れた声で呼んだ。
「ああ…」
すると漸く、掠れた声が返ってくる。
「史琉、わたしは…」
それに被せるように口を開くと。
「…頼む、それ以上言わないでくれ」
やっと史琉が顔を上げた。
「気が狂いそうだ」
顔を覆う右手の指の隙間から、じっと視線が送られる。
倖奈は眉を下げた。
「気が狂うくらいなら… やっぱり、わたしは史琉の傍にいないほうがいい?」
「…そうじゃない」
史琉が小さいながらも強く言い放つ。
そのまま太刀の鞘を握ったままの左手と空いた右手が背に回されきて、引き寄せられる。
「どうしてそうなるんだ」
首の後ろに手が添えられて、上向かされる。
そして、あっという間に唇に唇が重なってきた。
驚いて、身を離しかけて、首を支える手に押し留められる。
最初は僅かに重なっただけだった唇は、そのまま何度も啄まれ、やがてそれがどんどん深くなっていく。
鼻にかかった声を上げ、身じろぐが、抱きしめてくる腕は緩まない。
倖奈も史琉の肩を掴む手に力を込めた。
深く吸われ、やっと唇が離れた時に。
「史琉」
小さな声で呼んで、見上げる。
「わたし、あなたの傍にいてもいいの?」
「当たり前だろう」
史琉の声と視線は真っ直ぐに返ってきて。
またすぐに、口づけられた。
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