挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
花の如く 作者:秋保千代子

第二章

33/100

参の六「あなたに会いたかったの」

月の無い夜だった。
闇の中に沈みこんでしまいそうな藍色の被衣を目深に被って、倖奈はそろりそろりと砦の庭を歩いていた。
かさかさと芝を踏みしめて、梅の香りが溢れる林を抜ける。抜けた先は、石垣に続く階段があるだけの空間。砦の中でも隅にあるこの場所を通り過ぎれば、あとは石垣の上に出るしかない。
立ち止まり、空を見上げて息を吐き出せば、それは白く染まって溶けていく。
――今夜も逢えないかな。
ぎゅっと被衣の襟元を握りしめ首を振る。
僅かな隙間から、ふわと髪が零れる。結わえてこなかった髪は先に行くほどうねり、散らばっていく。
その髪をもう一度被衣の中に押し入れて、もう一度息を吐く。
暫し立ち尽くした後、踵を返しかけて、踏み留まる。
――やっぱり… もうちょっとだけ。
唇を噛んで、階段へ踏み出す。
一歩一歩踏みしめて登って行こうとして、中程でふと視線を庭に戻すと。
見上げてきている男が見えた。
「史琉…」
掠れた声で呟く。
「また、夜中にほっつき歩いていたな」
暗くて顔は見えないが、その声は朗らかに響き、彼が少なくとも激怒はしていないだろうと思わせてくれた。
「戻ってこい」
だから、言われ、倖奈は素直に階段を下る。
降りきったところに史琉は寄ってきて、二人は真正面で向きあう形になった。
「倖奈」
名を呼ばれ、倖奈はそっと顔を上げた。
星明かりだけで、顔の輪郭だけが見えるほどの距離。
彼は唇の端を上げて、両手を腰に当てた。
「おまえは人の話を聞いていないのか」
倖奈は黙って瞬いた。
「この間は戻れと言ったのに石垣にやってくるし… ずっと前には、夜中にほっつき歩くなと言ったはずだが」
史琉は一度息を吐いてから、言った。
「何をしている?」
倖奈は真っ直ぐに彼を見つめて答える。
「あなたに会いたかったの」
すると、彼が目を瞠る気配がした。
「俺に?」
倖奈は頷き、二度深く息を吸ってから。
「話をしたくて」
と言った。
「五郷校尉が亡くなった晩から… ずっと、あなたに会いたくて。夜に部屋を抜け出していたわ」
「どうして夜になんだよ」
「昼間は… わたしは時若や美波が一緒だから。あなたも他の人たちとずっと一緒にいた」
だから、と倖奈は言葉を継いだ。
「夜にしか… あなたとちゃんと話せる時間がない気がしたの」
史琉が深く溜め息を吐く音が響く。
「あの晩以降は、特に逢わなかったからな… 夜歩きは止めたんだとばかり…」
「止めてたわ、止められたから。でも、どうしても、あなたと逢いたくって… 怒られるだろうと思ったけど…」
「この数日はほっつき歩いていた、と」
微かに強い声音に、頬を引き攣らせる。
史琉はまた溜め息を吐いて、頭をがりがりと掻いた。
「ったく… オオカミに食われても知らねえぞ」
「…この砦には人食い狼が出るの?」
呟くと、一瞬だけ史琉は動きを止めた。
「…ああ。そうだな」
妙に平坦な声を出した後。史琉はふと表情を緩めた。
「それで? 怒られるのを覚悟してまで出歩いて、俺と何を話したかったんだ?」
柔らかい声に、倖奈はほっと息を吐いて。
「魔物のこと」
と言った。
「わたし、知らなかったの。魔物があんなに恐ろしいものだなんて」
真っ直ぐ見詰めながら、倖奈はゆっくりと唇を動かした。
「砦の兵たちや、時若みたいに魔物を直接消す力を持つ【かんなぎ】が魔物と戦っているというのは、ちゃんと話では聞いていた。だけど、それがどれほど恐ろしいものなのか、本当には分かっていなかったの」
「恐ろしい… ね」
史琉が呟く。倖奈は頷いた。
「あんなに簡単に、人が傷ついて死んでいくなんて… 考えたこともなかったの。魔物そのものがどれほど恐ろしいものかということも、それに立ち向かっていくことがどんなに怖いかということも何も分かっていなかった」
じっと見上げて、ゆっくりと言葉を続ける。
「怖くないの? 苦しくないの? 史琉は… ううん、史琉だけじゃない。あの日、あの場所に居た他の人たちも… 怖くなかったの?」
すると、史琉は僅かに首を傾げた。
「怖くなかった、と言ったらそれは嘘だな。皆ビビっていた… 俺だってな。五郷校尉は長く戦ってきた猛者だ。その人がああも呆気なくやられたんだ。自分もそうなるかも…って思うのは自然だろう」
「でも、あなたたちは戦った」
「それが仕事だからな」
史琉は軽い声で言う。倖奈は眉を寄せた。
「それだけで… 戦えるの、ね」
史琉が首を縦に振る。
「少なくとも俺は、戦う中で死ぬかもしれないことは覚悟の上でここに居る。その恐怖以上に成したいものがあるからずっと戦ってきたし、これからもそうするさ」
「成したいものがあるから…」
呟いて、倖奈はじっと彼を見上げた。
「わたしは… 何もなさない。…何の役にも立たない。ろくでなしって本当だったのね」
すると、史琉は大袈裟に首を傾げた。
「…どうしてそうなるんだ」
「だって…」
倖奈は一瞬だけ言葉に詰まり、俯いた。
「わたしは【かんなぎ】だって言われているけれど。術具を作ることも、結界を張ったりすることもできないの。それで、ろくでなしって… 言われているわ」
鼻と目の奥がかあと熱くなる。それでも、声を絞り出す。
「だから、花を咲かせたかったの」
それから俯く。
倖奈が黙ると、辺りは静まり返った。しんとした無音で耳が痛くなってきた頃。
「花を咲かせる、だって?」
史琉の乾いた声が聞こえ、倖奈は俯いたままぼそりと呟いた。
「砦に移ってきてから、人が『花が咲くと結界の代わりになる』って話しているのを聞いて、それなら私にも結界を張れるかもしれないと思ったの。だから、花を咲かそうと思って…」
「おまえ、そんなことができたのか」
驚いたような気配を含んだ声に、倖奈は恐る恐る顔を上げて、首を縦に振った。
「そこに蕾とか、枯れかけの花があれば… だけど」
「いや、何と言うか… すごいよ」
史琉が掠れ声で返してくる。倖奈は目を見開いた。
「すごい?」
「ああ…」
倖奈が呟き返すと、史琉は頷いた。
「時若には… 怒られるわ」
ぼそりと続けると、史琉は首を傾げた。
「どうして?」
「花を咲かしたぐらいで、魔物には何の影響がないから、無駄なことはよせって」
「無駄かなあ… やっぱり花が多いほうが結界が強いような気がするけどな、俺は」
史琉が首を傾げる。倖奈は首を振り、また俯いた。
「そうやって時若に怒られるから、いっぱい咲かすのは止めようと思って」
「…で、こっそり咲かして回っていたって?」
くすくすと笑う声。倖奈は黙って俯いたままでいた。
「…夜中にほっつき歩いてた理由は分かった」
「本当?」
「最初の晩も… そこに何かの花が在ったんだろう? 咲かせようとして、石垣から落ちそうになっていたんじゃ世話ないが」
そうっと顔を上げると、その頭に、ぽんと掌が落ちてきた。
「何かを一生懸命やろうとするのは良いことだ。出来ることからやっていかなきゃ… 最終的に何ができるのかも分からないからな」
倖奈は目を丸くした。
「変な顔するな」
「だって…」
倖奈はもう一度首を振った。
「花を咲かすことを、すごいって言ってもらったのは… こんなふうに、咲かせても良いと言ってもらったのは、初めてなんだもの」
すると、今度は、史琉が目を見張るような気配がした。
「誰にだってできることじゃないだろう? それができるのをすごいって言って何が悪いんだ」
そして、彼はくすりと笑った。
「俺はすごいと思うよ。それに、倖奈が何かしたいと思う気持ちも、色々言われるからこっそりやるんだっていう言い分も分かった」
倖奈は何度も瞬いた。
「そう言ってもらったのも初めて…」
「そうか?」
史琉が笑う。倖奈も頬を緩めた。
「有難う」
史琉が首を傾げる。
「なんで?」
「だって… 嬉しかったんだもの。…あなたと話ができて良かった」
「…それなら良かった」
もう一度頭を撫でられる。
「じゃあ、懲りずにまた頑張れ」
だが、と史琉が言葉を続ける。
「自分の身を危険に晒すような真似はするな。夜中じゃなくて、昼間にやりな。それと、北の方には寄るな。兵たちの詰め所に寄るんじゃない。石垣も駄目だ」
でも、と倖奈は眉を寄せた。
「でも、昼間は時若が一緒で…」
止められちゃう、と呟く。
がりがり、と史琉は頭を掻き。
「しょうがないな…」
ふう、と息を吐いてから、倖奈に顔を向けた。
「俺が付き合ってやるよ。旨く俺に逢えた晩だけにしな」
倖奈は目を見開いた。
「本当に? 一緒に来てくれるの?」
「…危険回避だ」
史琉は横を向いて、ぼそりと呟く。
「夜に仕事がある日は無理だが… そうでない日は付き合うさ」
倖奈は何度も瞬いて。
「あなたの邪魔はしたくない。したくないけど…」
そう言って、じっと見上げた。
「一緒に花を見て回ってくれる? それに… 話もしてくれる?」
すると、彼も向き直り。
「命が有る限り、幾らでも」
微笑んだ気配がした。
「有難う」
倖奈も笑む。
笑んだ途端、被衣が滑る。ふわり、と髪が舞ったのが見えた次の瞬間、視界が塞がれる。
そして、唇の上に慣れない感触が乗った。
たっぷり三つは数えた後に、ちゅ、と音を立てて感触が離れる。
倖奈は瞬いた。
再び開けた視界は、変わらず星明かりだけの頼りないもの。その中で、目の前に立つ男がその右手で口元に触れてきた。
「ご馳走様」
ゆっくりと唇の上を滑った後、その手は彼自身の口元に寄せられる。その動きで倖奈は先ほどの感触の正体に気が付いた。



雪柳が揺れる。
暫し、倖奈と颯太は黙ってそれを見つめていたが。
「…それで?」
と、颯太が横を向き、言った。
「校尉と恋人になったの?」
それに、倖奈はゆっくりと首を振った。
「その晩のことを美波に離したの。そしたら、美波はわたしたちのことを…」
と、そこまで言って。倖奈は目を見開いた。
「何て言ったの?」
颯太がじっと見つめてくる。それに構わずに。
「そっか…」
と倖奈は呟いた。
――最初に、わたしたちを恋人同士と言ったのは美波だった。
口付けられた話をして、それを美波が砦の他の人達に広めたのだ。
それに困り果てた史琉がやってきて。
――あんなことを話せば… そういう関係と取られるに決まってるじゃないか。
そうぼやいていた。
「史琉はそのつもりはなかったのね」
「何?」
颯太が首を傾げる。
倖奈は目を瞑って、頭を振った。
――恋人っていう関係が、ね。夜中に会うのにうってつけだ。
倖奈が史琉に望んだのは、共に花を見て回り、言葉を交わし続けることで。そのための関係は、別に恋人でなくても良かったのだ。
史琉はただ、周りの話を格好の理由としただけだったのかもしれない。
「史琉は最初から…」
――わたしを好きだったわけではなくて。ただ、我が侭に付き合ってくれていただけ。
じん、と眸の奥が痛む。倖奈は俯いた。
その横で、颯太がゆっくりと首を傾げた。

几帳の陰で。
美波は眉根を寄せた。
唇を戦慄かせて、音もなく妹分の名を呼ぶ。
――そうよ。妹みたいに可愛がってきたのよ。
それなのに、と彼女はぎゅっと拳を握った。
――今まで、わたしには、あんな話したことなかったじゃない。
恋人との出会い。今の関係を築くに至った理由。今、彼をどう想っているか。その全てを。
――わたしには話さなかったのに、あんな奴には話すんだ。
ゆっくりと首を振ると、自慢の長い髪がさらりと流れた。
それをひと房摘み上げる手も、白くたおやかだ。
「髪… 少し、傷んじゃったな」
呟き、乾いた唇を少し舐める。美波はそのままじっと座って、几帳の向こうの影を睨んだ。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ