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花の如く 作者:秋保千代子

第二章

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参の一「今朝から、西のほうの沼地で魔物が沸くようになったんだってさ」

まどろみの中に、夜の闇が蘇る。
そこを小さな男が薄い丸い物を抱えて駆け抜ける。
――あれは、祭壇にあった鏡ではなかったかしら?
社に連れ込まれた時に見えた、くすんだ祭壇の上で辺りを歪めて映していた鏡。男が抱えていたのは、あの鏡だったような気がする。
彼は逃げる前、咄嗟にあれを掴んだのだろうか。そうだとしても、あれに一体何の価値があるのだろう。
倖奈は、とさり、と寝返りをうった。
すると、瞼の裏の景色も変わる。
塗籠から抜け出す前に、燭台の灯りだけで見えたもの。
ぱっと駆け抜けた美波に、彼女を左腕だけで受け止めた史琉に、その背中に回された両腕。
――どうして?
美波は史琉に抱きついたのだろう。
史琉もそれを嫌がらなかったのだろう。いや、もしかしたら、当然のように感じたのかもしれない。そうだとしたら。
倖奈は唇を噛んだ。
体を丸め、己れの腕でぎゅっと体を抱きしめる。
――私は、声も掛けてもらえなかったの。
その後も、泊まる屋敷に戻って来るまでの間も。
離れた所から、背中と横顔を見つめることしかできなかった。
――嫌われるかもなんて思ってもいなかったのに!
腕に力を込める。強い力に、そっと瞼を持ち上げた。



仄白い陽の光に目を細め、三編みをきつく結い直してから。
几帳の陰から覗くと、大部屋の庭に面した側に人がいた。
「おお、ようやく起きたか?」
忙しなく箸を口に運ぶシロと。
「あ、おはようございます。倖奈さん」
御櫃の前にきちんと正座した颯太がいて。
「朝御飯、食べます?」
問われ、倖奈はおずおずと踏み出した。
「お前が最後だ。いつまで寝こけているのかと思ったぞ」
声に振り向くと、簀子に近い柱にもたれかかって、時若が書を読んでいた。
彼は顔を上げることもなく。
「攫われるわ眠り続けるわ、人の邪魔にしかならない奴め」
と言う。
倖奈はぎゅっと唇を噛んだ。
「…そんな言わなくたって、いいじゃないですか」
ぼそり、と颯太は呟いて、それから。
「どうぞ!」
ぱぁと笑って、手招きした。
「食欲あります? 昨日の今日だから、お屋敷のお嬢さんたちはぐずっちゃって大変らしいですよ」
倖奈を座らせると、彼はてきぱきと、膳を出し、食事を並べ始めた。その彼に。
「他の… みんな、は?」
倖奈は上目遣いに問いかける。すると、颯太は手を止めて、部屋の奥を振り返った。
「美波さんは、その… 頬が腫れているのが嫌だといって、出てきてくれないんですよ」
眉を下げて言い、それから首を振って。
「校尉と律斗さんは国府に出かけています。やっぱり昨夜の件で」
言葉を継ぐ。
「そう…」
溜め息混じりに呟いて、倖奈は、目の前に並んだ膳を見つめた。
それを、さらにじっと見てきて。
「倖奈さんは平気なんですか?」
颯太が言う。倖奈は顔を上げた。
何故か心配顔の颯太が。
「いや、その、あんなのに捕まったこともなんですけど… その」
ボソボソと喋る。
倖奈は曖昧に笑った。
「まあ、良い。食え食え」
横合いからシロが言う。そう言いながら、彼はまだ箸を動かしていた。
倖奈も箸を持つ。
二口三口食べたところで。
ふと顔を上げると、シロと目が合った。
「食えるのは良いことじゃ。体が元気な証じゃからな」
シロは、最後の一口を飲み込み、ずずっとお茶を啜り、大きな溜め息を吐いた。後ろに姿勢を崩し、腹をさすりながら。
「体が丈夫でなければ、神気は発揮されない」
言う。
すると、パン、という音が響く。
箸を止め振り返ると、時若が体を起こし、書を両手で閉じていた。
「体が丈夫でなければ、などということはない」
低く響く声で睨みつけてくる。
「俺の親は二人とも、体は弱かった。だが、【かんなぎ】として充分に働いた」
だが、睨まれた方のシロは。
「ほほう」
ふふんと鼻を鳴らし。
「お主は働いておるのか?」
と哂う。時若のこめかみが引き攣る。
「十二分に。己の力を何に使うのかも理解していなかった者と一緒にするな」
「…お主、自分の指導のせいだとは思わぬのか」
シロはなおも笑み。
「聞けば、お主と倖奈は、北の神殿でずっと共に居ったそうではないか。お主の方が年嵩じゃ、倖奈に物を教えるのはお主の役目ではなかったのか」
湯飲みを颯太に突き出した。
「お替わりじゃ」
颯太も引き攣った笑いを浮かべ、急須を手にする。
シロは全く頓着せずに、受けたお茶をまた啜りあげた。
「冷たい奴じゃのう。まあ、わしも人のことを何だかんだ言えるほど優しくはないが」
時若が無言でそれを睨みつける。
倖奈はそっと横を向いて、颯太も溜め息をついた。



食べる物が無くなれば、もう遣ることもない。
皆が黙りこくり、薄紅の花びらが妙にのんびりと庭を舞った後に、きしりと外の簀子が鳴った。
「校尉、律斗さん」
颯太が、お帰りなさい、とほっとした表情を見せた。
「おお、何か面白い話は持ってきたか?」
ニヤニヤとシロが笑う。
松葉色の直垂の袖を揺らし、折烏帽子をむしり取って、史琉は苦笑した。
「…面白いかどうかなんて知らないぞ」
「何かあったんですか?」
颯太が眉を寄せる。
「…いや。俺たちは関係ないと思うんだが」
史琉は、さっと裾を捌いて腰を降ろしながら。
「今朝から、西のほうの沼地で魔物が沸くようになったんだってさ」
呟く。
「…沸く?」
颯太は首を傾げた。
「そう」
史琉が頷き、横にすとんと座った律斗も首を振る。
「今までも確かに薄暗い場所ではあったが特別瘴気が溢れるということはなかったような場所に、今朝方、突然魔物が現れるようになったらしい」
颯太の差し出す湯飲みを、悪いな、と言って受け取って。
「だから、昨日の男を捜したくても、そこに手をとられて出来てないんだってさ」
はぁ、と史琉が息を吐く。
「それはそれは」
シロはニヤニヤを深め。
「男と関係あるかも知れんぞ」
と言い切った。
「何故、そう思う?」
史琉は唇の端を釣り上げたまま、眉を寄せた。
シロは顎を擦りながら。
「逃げた男は、何を持って逃げた?」
「…鏡だったらしい、と聞いているが」
「それは、その廃れた社の御神体だったりはしないか? そうだとしたら、瘴気を内に蓄えている可能性は充分にあるぞ」
ふ、と口元を緩ませて、シロは言葉を続ける。
「社という清かな空間から出た途端、瘴気が漏れ溢れていたら…」
「鏡から魔物が沸くっていうのか?」
史琉が笑みを消す。律斗もすっと表情を引き締める。
颯太も黙って、三人の顔を順に見つめ、それから外に近い場所から動かない時若を見た。
その時若も眉を寄せていて。
「お前は…」
ずしりとした声を出した。
「どこまで、何を知っているんだ?」
「どういうことじゃ?」
シロがきょとんとして振り向く。
時若の顔が険しくなる。
「神気のこと、瘴気のこと… 何故、そこまで詳しい? お前だって、ただの【かんなぎ】だろう?」
「そうじゃのう…」
シロは宙を仰いだ。
そこで、もう一回簀子が鳴った。
「ああ、次郎…」
のそり、と現れた大きな白い犬に、シロは笑いかけた。
「史琉に言われて、逃げた破落戸を追っていたのじゃろう?追い駆け切れたのか?」
次郎はゆっくり、首を縦に振った。
「お手柄じゃ」
皆の視線を背中で受け流して次郎の横にひょこひょこと歩み寄り、シロは跪いた。
「で、どこだった?」
シロが首を傾げると、その耳元に、次郎が鼻先を寄せる。
「…西、じゃそうじゃよ」
振り返ったシロが楽しそうに笑う。
「件の沼地かのう?」
途端、がん、と床を蹴って時若が立ち上がる。そのまま、進み出した背中に。
「おい、じっとしとけよ」
史琉がおっとりと声をかける。
ぎろり、と振り返り。
「…常日頃、先頭で突っ込んでいるお前が言うか」
時若はそう言うと、ずかずかと歩き去っていった。
足音が聞こえなくなってから。
「…まあ、ね」
史琉は肩を竦めた。
「昨日、どうも派手だったらしいよ」
律斗は、はあ、と息をついた。
「そのつもりは全くないんだが」
「でも、東の帥様は微妙な顔をされてた」
くすり、と史琉は笑って。
「そんな中でまた派手に見えることをしたら、東の国府の衛士の顔を潰しかねないだろ?」
こきこき、と首を鳴らした。
「そんな言いながら…」
颯太は瞬いて、史琉を真正面から見つめた。
「すごく行きたそうですけど?」
「…ばれた?」
史琉がからりと笑う。
律斗はもう一度溜め息をついて、立ち上がった。
「阿呆の監視がいるだろう」
「それが一番の理由ってことにしとくか」
ははは、と笑って史琉も立ち上がった。
「わしも行って良いかのう?」
ひょこりと前に飛び出したシロの頭を、史琉はぽんと叩いた。
「何の手出しもしないというのが条件だ」
「何じゃ? お主のやることにか?」
「全て」
そう言って簀子に出て行こうとする背中に。
「史琉!」
倖奈は腰を浮かせて、声を投げた。
史琉はゆっくりと振り返ると、どこか困ったような顔で。
「留守番してな」
そう言った。
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