挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
花の如く 作者:秋保千代子

第一章

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

2/100

壱の二「何だかんだ言って、魔物が来るのにはもう慣れっこなんだけどね」

その向こうがどうなっているか、誰も知らない。
だから、何故向こうから【あれら】が襲い来るのかを分かるはずもなかった。

「でも、気になるわよね」
砦の中でも南側に位置する棟の中の、三方を本棚が埋めた部屋の中。御簾を捲って外を窺いながら、若い娘が笑う。
「何がだ」
部屋の真ん中の文机に向かって座っている、やはり若い男が、視線を手元に落としたまま不機嫌に応える。
「魔物がやってくる理由よ」
娘は男に向き直る。
彼女は曙色の長着に花葉色の帯を絞め、背中に艶やかな髪を長く真っ直ぐ垂らしていた。
そして、紅を佩いた唇を弧の形にして白魚の指を添えて。
「気にならない? 時若ときわか?」
そう問うと。
美波みなみ
対する男は眉を寄せた。
「北の草原に何故多くの魔物が現れるか… それは、北に瘴気が生じている場所があるからに決まっているだろう」
ほっそりとした体を若草の襲の狩衣に包んだ彼は、ばん、と手元の冊子を閉じて顔を上げた。
「魔物どもは、瘴気の中から出でる。瘴気の発生原因は不明だ。これは、我々【かんなぎ】にとっては一番基本の知識だろう」
その視線は剣呑だ。それでも。
「何だかんだ言って、魔物が来るのにはもう慣れっこなんだけどね」
昼間にも関わらず薄暗い部屋の中、美波はまた笑った。
「でも、こんなに揺れてるのって久しぶりね」
ね、と首を傾げる。
「余程、石垣の傍まで来ているか、数が多いかのどちらかだな」
時若と呼ばれた若い優男も、はあ、と息を吐いて頷いた。
「だが、北の砦の、魔物除けの結界に近寄ってきているなら、その魔物は弱っているはずだ。それにどうせ、兵達が対応している。俺たちが慌てる必要はない」
そう言って、視線を横に流す。
その先には、部屋内から縁側に向かって膝立ちで進む少女。
倖奈ゆきな
鋭く呼ばれ、彼女は肩を竦めた。
彼女の肩でおさげの髪が揺れる。
そろり、と振り返った顔では、黒目がちの大きな眸が揺れていた。
「どこに行く気だ」
時若が低く問うと、倖菜と呼ばれた少女は華奢な肩を竦めた。
「…どこにも。ただ…」
「ただ?」
鋭い時若の声に、倖奈はますます体を縮こまらせる。
「外が気になるな、って」
思って、と言った語尾は地面を揺らす音の中に消えていく。
御簾も小刻みに揺れていた。
その外、揺れる庭では、普段と変わらぬ様子で、この砦で働く男女が行き交っている。
【あれら】――魔物たちは、姿形は様々だけど、揃って奇妙な色の鱗で覆われていて、醜悪で凶悪だった。
そんな恐ろしい存在が迫ってきていることを告げるのが、物見櫓の上の半鐘の役目だというのに、どんなに半鐘が鳴り響いても、誰も慌てていない。
魔物たちが石垣を乗り越えて砦の中までやってくることはありえない。
北の砦の魔物除けの結界の力を、そして警邏する兵士たちの動きを信じ切っているからこその反応だ。
それが当然だというように。
「もう一度言うぞ。兵達が対応している。俺たちが慌てる必要はない」
時若が苦々しげに言う。
「その様子を気にすることはない。仕事をしろ。ここにある文献の中から、少しでも結界の強化に役立つ術をさっさと探せ」
「あら、だって仕方ないじゃない」
その一方で、美波がからからと笑った。
「今の警邏担当の隊って、柳隊よね」
「…そのはずだが、それがどうした」
ぎゅ、と時若は眉を寄せる。
「柳隊を率いているのは、史琉でしょ?」
「…それがなんだ」
美波はさらに面白そうに笑った。
「倖奈は彼が心配なのよね?」
すると、倖奈の頬が、ぼっと染まる。
「え、えっと…」
「いいのよ、いいのよ。心配になるわよねえ、大好きな彼のこと」
おほほ、と美波が笑う。
時若はちっと舌を打った。
「あの阿呆のことなど心配してられるか」
「あら、阿呆なんて言わなくていいじゃない」
ま、と美波が声を上げる。
だが、時若はますます仏頂面になって。
「北の砦の役目だの何だのと大声あげて、只の人間が魔物に真正面から戦いを挑むのは馬鹿な行為だ。しかも、それを一度ならず何十回も繰り返しておいて、今まで生き延びられたのは己の力のお蔭だと思っている。その思い上がりは阿呆以外の何物でもない」
と言い切って。
「そんな男に肩入れして、おまえは本当にくずだな」
ぎろり、と倖奈を睨む。
少女はしゅんと項垂れた。
「もー。そんなことないわよ」
俯いた倖奈の顔を覗きこんで、美波は微笑んだ。
「彼は立派に戦っているのよ。そんな彼を好きになって何が悪いの」
ね、と肩を叩き。
美波はまた時若に向き直った。
主殿おもどのに行きましょうよ」
「…唐突に何を言い出す」
刻まれっぱなしの時若の眉間の皺を、美波は笑って突き。
「だって、今本当に魔物が間近まで来て戦っていたんだとしたら。終わった後、この砦で一番偉い人に報告に来るでしょ?」
そう言って、外を見遣る。
揺れていた簾はいつの間にか止まっていて、辺りにはまた常の昼間の静けさが広がっている。
「どんな様子だったか知りたくない?」
「…まあ、な」
う、と詰まった時若に笑い。
美波は振り返って倖奈にも笑いかけた。
「史琉の様子も分かるでしょ?」
「あいつはどうでもいい」
ぴしゃり、と言いきっておきながら、時若は立ち上がった。
「仕事は一時中断だ。行くぞ」
そのまま庭に出て沓を履き、彼は庭を歩き出す。
「ほら、行きましょ」
言って、美波も桃色の小袖を被くとひらりと外に出ていった。
「二人とも、待って!」
倖奈も立ち上がる。
藍色の長着の裾をからげ、一瞬外に向かいかける。
だが振り返り、部屋の中に置いていた、やはり藍色の小袖を被いでから。
彼女も、春の気配が近い庭先に降りた。
部屋の前の梅の木では、蕾の先が紅く染まり始めている。
「…もうすぐ咲くね」
その紅色に、倖菜は微笑みかける。
それから、走って二人を追った。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ