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花の如く 作者:秋保千代子

第二章

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壱の一(一行が乗った船は南に進んでいた。)

ぱちり、と目を開けた。
それから、ゆっくり起きあがる。
青錆色の空気の満ちた部屋の中、窓から射し込む白い光が床の上で揺れている。
「船の中…」
と、倖奈は呟いて、ぐるりと見回した。
今まで横たわっていた寝床の隣では、見慣れた黒い真っ直ぐな髪が流れている。
「…美波?」
呼ぶと、床に座わる彼女は月明かりでも分かるほどはっきりと眉を寄せた。
「…どうしたの?」
「どうしたも何も…」
彼女は、抑え込んだ声を出した。
「あなたが港を出てからずっと寝てたから…」
そう言って、黒い髪を左手で掻き上げる。
「一緒にいてあげたんでしょ」
倖奈は瞬いて。
「有難う…」
と、呟いた。
「みんな…は?」
「別の部屋で寝たりなんだリしてるわよ」
訊くと、美波は低い声で答えた。
「史琉…は?」
さらに、気になる人の名を上げると。
「外に… 出てったみたいだけど?
美波は肩を竦めて、言った。
「…そう」
ほうと息を吐いて俯けば、髪が三編みに結わわれたままなのが見えた。やおら立ち上がる。
美波は何も言わない。
寝床の脇に畳んで置いてあった衣をさらりと被って、倖奈は部屋の戸にかかっていた簾をくぐった。
抜けた先にも木の板が続く。
そして、キンと冷えた空気が頬を撫ぜていって、慣れない潮の匂いが全身を包んだ。
屋根が終わり、空からの光が直接振りかかってきて、藍色の被衣の上に小さな模様を作る。
目を細めて見回すと。
「おお、起きたか?」
知った声が聞こえて、振り向く。
その先ではシロが看板の床に座り込んで、次郎の頭を撫でていて。
縁にもたれ掛かって史琉が立っていた。
彼を呼ぼうと唇を浮かせた瞬間に。
「随分寝ておったな」
シロが笑う。倖奈は一度口を閉じて、首を振った。
「…どれくらい?」
おずおずと歩み寄りながら倖奈が問うと。
「出港から2刻ばかり寝ておったな」
シロはすっと答えた。
「…そんなに時間経って… いたんだ」
「おお。だから、日は沈んで月の時間じゃ」
笑い、シロは墨色の空と海の狭間に指を向ける。
そこでは、上側が少し欠けた月が漂っていた。
「お月様も我らの船旅に付き合ってくれるそうじゃ」
それから、ふっと表情を引き締めて。
「もうダルくはないのか?」
シロは言った。
「大丈夫よ」
倖奈はお下げ髪の先をぎゅっと掴んで、微笑んだ。
シロもにっこりと笑った。
それから漸く史琉の正面に立てた。目が合う。
「無理はするなよ」
微かに首を傾げ、史琉は言った。
「一月は船に揺られていることになるんだからな」
倖奈は黙って首を縦に振った。
史琉は笑んで。
「今のところは誰も船酔いとかしていなくて、良かったよ」
言って、フイ、とその視線を倖奈から船が進む先に投げた。



右手に陸を眺めながら、一行が乗った船は南に進んでいた。
逆くの字の形の豊葦原瑞穂国、その東南の縁を回って、船は北の地から逆くの字に大地が折れ曲がる辺りの内地にある都に一番近い港へ向かっている。
元々この船は商船で様々な荷を運ぶのを生業としており、その荷と称される物以外にも旅人を乗せてやることもよくあるのだといい、その荷と人を入れ替えるのか時折港に寄りながらの旅路だった。
出港より10日。
晴天に恵まれて、帆いっぱいに風を受けた結果。
「ほれ、もうここまで来た」
甲板の上、縁を掴み身を乗り出して、シロは陸を指さした。
「あそこに何があるか知っておるか?」
問われ、倖奈は首を傾げた。
指示す先は青々とした葉に覆われた土地の中で少し高くなった場所で、木の陰からほんのり朱色の何かが見えた。
「あそこは豊葦原瑞穂国の中で一番東に出っ張っている所でな」
とシロは、足元の次郎を撫でながら言った。
「遥か昔、豊葦原瑞穂国を平らかにするのに活躍した雷の神が奉られておるのじゃよ」
倖奈は、ほうと息を吐いて、陸を見つめた。
「じゃあ、見えているのは鳥居?」
「そうじゃな」
シロは水干の袖を風にはためかせながら、笑った。
「以前、陸伝いにこの辺りに来た時に立ち寄ったのじゃが、なかなか気の行き届いた場所だったぞ」
倖奈も風を孕んだ藍色の被衣をぎゅっと掴み押さえて、笑んだ。
「あなたはいろんなことを知っているのね」
するとシロは首を傾げて見せた。それにもう一度笑いかけて。
「時若も物知りだけど、シロは違うところで物知り」
「まあ、のう…」
シロは船の縁から上半身を乗り出して、水干の袖の先を風に揺らして遊びながら言った。
「長生きしている分、な」
倖奈は軽く目を見張って、相手の顔を見つめた。
にこにこ笑うその顔は、17、8歳といったところだろうか。
細い体も少年と呼ぶのに相応しい。
史琉や時若より、ずっと幼い印象がある。
だが。
「…わたしより、年上、だから?」
「当然」
シロは胸を張る。
それに倖奈はほっと微笑んだ。
「ついでに」
とシロが続ける。
「あちこち旅したからのぅ…」
「どんなところを?」
「そりゃもう、豊葦原瑞穂国の東西南北、全てじゃよ」
「…すごい」
倖奈は、ほう、と息を吐いた。
今はもう、こざっぱりとしている一人と一匹だが、出会ったその日は汚れまみれだったことを思い出す。
あの埃と泥は、二人が長い旅を続けてきた証左だったのだろうか。
そう思っていると。
「倖奈は?」
シロがくるりと振り向く。
「お主は今までどうしていたんじゃ?」
「…北の国府から出たことが無かったわ」
「ほう。では、この旅はお主にとって一番の遠出ということか」
シロが笑うのに。
「そうね…」
と、倖奈は俯いた。
――国府の外に出かけるなんて、考えたこともなかった。
こうして船に揺られているなんてことも、想像つかなかったことだった。
と、俯いたままでいると。
「それはそれは」
とシロの笑い声が聞こえて、顔を上げた。
「見聞きすること全てが新しく知ることになるんじゃろうな」
見れば、彼はニヤニヤ笑っていた。
「新しく知ること…」
「だって、知らなかったことなんじゃろう」
と、倖奈の呟きにシロが被せた。
「北の国以外の土地は全て。自身の力も分かっていなかったくらいじゃしな」
「分かっていなかった…」
倖奈はもう一度呟き、ゆるりと顔を上げた。
見上げた先には、風を受けてほっと微笑む少年。だが、彼は不意に背側を向いた。
釣られて、倖奈も振り向くと。
「史琉」
短い髪を潮風に晒しっぱなしの青年に。
「律斗も」
きっちりと直衣を着こなし髪も結った青年がいた。
「どうしたんじゃ?」
シロが笑うと。
「…美波が、倖奈が船室に居ないってむくれてたからさ」
史琉は少し苦いものを含んで、笑い返してきた。
「どうしてるのかと思ってさ」
「ほう、あっちのお嬢さんがのぅ…」
シロが頬を掻く。
「気の強そうな印象だが、寂しがり屋さんかのぅ」
「…まあ、何というか」
史琉は首を傾げて見せる。
「確かに美波は調子が悪そうだけどな」
「そうなの?」
倖奈も首を傾げる。史琉は苦笑いを深くする。
「初めて北を離れたのに緊張しているか、船旅に飽きたか… なんだろうな」
「飽きた?」
倖奈は瞬いた。史琉は首を振る。
「時若も、緊張しすぎて眉間の皺が深くなってるしな」
すると、ほぅ、とシロが目を丸くする。
「あちらこそ、気の強そうだがのぅ。何を緊張するんだ」
「まあ、あいつは任命があって都に向かってる身だし」
史琉は肩を竦め。シロは瞬いた。
「それはお主も一緒じゃろうが」
言って、シロはすっと史琉の前に立った。
「…お主は緊張してなさそうじゃのぅ」
「皆の心配で、俺の緊張は吹っ飛びました」
史琉はまた違う笑みを浮かべた。
「腹の調子は頗る良いよ」
それから。
「お前たちはどうなんだ?」
「わしはいつも通りの旅じゃよ」
史琉の問いに、シロはニッと笑う。
「周りの景色を見て、進むだけ。倖奈には、わしの話に付き合ってもらってたんじゃよ」
「ふぅん?」
史琉は首を傾げ、倖奈を見た。
「何を話してたんだ?」
「…この向こうにお社があると教えてくれてたのよ」
倖奈が言って西に見える丘を指差すと、史琉もそちらを見遣り、へえと呟いた。
「案外、シロは物知りなんだよな」
「…案外ってなんじゃ」
「そのままだよ」
史琉は笑い、顔を伏せた。
「まあ、楽しんでいるならいいさ」
「ほう…?」
シロは首を捻り、それからムフフと笑った。
「ああ、そうか」
「なんだよ、気色悪いな」
「いやいや。悪かった、と思ってのう」
眉を顰めた史琉にひょこひょこと立ち寄り、シロは彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「お主の恋人を取って悪かったな」
「…おい」
史琉が低い声で呻く。
だが、シロはからからっと笑い片手を上げて、甲板を前方に歩いていった。
彼の足元には、すっと次郎が続く。
その背中をちらりと見遣ってから。
史琉はこつんと床を鳴らして、倖奈に寄ってきた。
「史琉?」
倖奈はじっと彼を見上げた。
両端が緩く釣り上がった唇が見え、それをじっと見つめる。
「…どうした?」
史琉が頬を引き攣らせる。
倖奈ははっとして、首を横に振った。
「何でもない…」
被衣をぎゅっと握りしめる。
「…本当に? 体調が悪いとか何もないか?」
「うん」
首を縦に振ると、史琉がほっとしたように笑う。
「史琉は?」
倖奈が問うと。
「大丈夫だよ」
と、緩く笑われる。
「律斗の方が余程… いや、何でもない」
と、縁から離れて立ったままの青年を振り返った。
それに吊られて向き直ると、律斗と視線が合った。
彼は微かに唇を開いてから、ぷいと横を向いてしまった。
そのまま史琉を見上げても、彼もあらぬ方を向いていて。
胸の底を冷たい風が吹く。
それに吊られて倖奈は縁に凭れかかって、視線を落とした。
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