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楼閣の姫君

作者: 鈴の宮みつき

 今は昔──

 東と西を結ぶとある国に、天に聳え立つように建てられた楼閣があった。

 楼閣には巫女姫が住まわり、貴重な天の理を説く教典を護っていた。

 人々は、遥か西方、遠く東の海の向こう、また吹きすさぶ雪原を抜け北方、そして熱波と砂の王国からも、その教典を求めてやって来た。

 教典を授ける巫女は使者に言葉を与えることは出来ない。

 使者は長い旅の末に楼閣へとやって来て、ひと月の精進潔斎のもと誰とも言葉を交わすことを禁じられ、そして初めて言葉──教典を授けられるのだった。


 ある日のこと。

 楼閣に新たな使者がやって来た。遥か西方───砂漠の遊牧民の国からやって来た、異国の皇子。

 作法に則り無言でおとなった若き皇子は、案内された部屋で安座した。


 そのまま半刻ほど──いや、一瞬だったのかもしれないし半日以上経っていたのかもしれない──皇子は衣擦れの音に我に返った。

 寝ていたのだろうか──いや、まさか。

 気づくと眼前には薄いヴェールを垂らした女がいた。

 顔は、分からない。作法通り無言であるから、女が少女なのか老婆なのかすら判別がつかなかった。

 これが、巫女姫か──と思う。

 体重を感じさせない動きで舞うように皇子の元にやって来る。

 ふわりと漂う香。──幻惑、される。


 皇子はひと月、この地で精進潔斎し教典を賜る。

 この巫女姫と共に過ごすのか、と思うとなにやら妖しげな心地がする。


 ふわり。ふわり。


 巫女姫は舞うように印を結ぶ。それは歓迎の印であり、皇子の労をねぎらう言葉を感じさせた。

 巫女姫の手は、抜けるように白くそして繊細であり、その年齢の若さを皇子に教えた。


 ひとしきり舞い終わると巫女姫は会釈をし、部屋を立ち去った。

 ──やはり、体重を感じさせず、まるで夢のように思えた。




 それから。

 側付きと思しき童が現れ、皇子へ簡単な食事の世話や湯殿への案内、そして寝所の世話などを行った。

 やはり童も無言である。

 表情の乏しい童に寂しさを覚えるが、国で彼の帰りを待つ父王や臣下、そして許婚を思い、目を瞑る。

 言葉を発しない一日。その重みに皇子の心は思っていた以上に堪えていた。

 共に旅した家臣はこの楼閣へは上がることが出来ず、近くの宿で彼を待っている。

 家臣の無事を思いながら、暗闇へと意識を放った。




 翌朝、皇子は朝日に目覚め遊牧民のテントとは違う木製の建物に違和感を感じたが、すぐに自分の置かれた状況を思い出した。声を発することがなかったことを安堵する。

 ほどなく、夕べの童が現れ、床に敷かれた寝具を片付け始めた。

 絨毯や毛布とは手触りも寝心地も違う寝具に余計に疲れたような気がした。


 童は滝へと皇子を案内し、皇子は作法通りに衣服を脱ぎ去ると朝の水行を行った。

 砂漠では水はとても貴重な資源である。その水が惜しげもなく流れ落ちて行く様は圧巻としか言いようがなかった。

 皇子はおそるおそる足を浸け、その冷たさに思わず声を上げそうになった。

 ──だが、声は上げてはならない。


 しばし、滝の中に身を置く。

 その痛みに体中が悲鳴を上げた。冷たさと水圧の痛みに唸りそうになったが懸命に堪え、皇子は一心不乱に祈った。

 砂漠の神を想う。月と太陽の神を想う。

 この教典を授かることにより、民は更に豊かになる。神々の元へその身を捧げるための法と理を説く教典が民には必要だった。

 皇子は水行を終え滝壺から上がり、童より渡されてあった布で身体を拭いた。

 楼閣に戻ると、食事の用意がされていた。

 肉や魚はなく、野菜のみの簡素な食事であった。

 皇子は作法通りに手を合わせ、食事を採った。故郷で習った通り、二本の細い小さな棒を用いた食事法だったが、無事終えることが出来て皇子は安堵した。


 その後、教典を写す作業に入る。

 教典は異国の言語で書かれており、砂漠でそれらを学んで来た皇子であっても、飛び飛びでしか読むことが出来ない。

 だが、決して書き間違いがあってはならなかった。

 皇子は慎重に筆を運んだ。


 どれくらい経っただろう?

 また童が訪れ、食事の世話を受け、食後に片付けられた後には写経。


 意識が、混濁する。

 砂漠の濃い味付けの肉が懐かしい。そして何より、この沈黙が辛かった。

 火酒の刺すような刺激も、女たちの香と熱い身体も。


 これらが全て、教典を授かるために不要な邪な想いだと皇子は知っていた。

 激しく頭を振り、魔を払う。砂漠の民の悲願である教典を手にするために。

 皇子はまた、教典へと向き直った。




 夕刻。

 気づくとまた、巫女姫がどこからともなく現れた。


 ふわり。ふわり。


 音もなく、巫女姫は舞い、印を結ぶ。

 ──幻惑される。


 貴女はどんな顔をなさっているのか。

 その手に触れたら、どんな心地がするのか。

 何より、そのヴェールの奥の吐息はどんなに甘いのか。──その、声は。


 意識せず──皇子の下腹に潜む力は熱を持っていた。


 ふわり。ふわり。


 まるで皇子の全身をやわやわと愛撫するかのように、巫女姫は舞う。

 官能的な香が鼻腔をくすぐる。


 どれくらいの時が経っただろう?

 巫女姫はこうべを下げると、また何処いずこへと姿を消した。


 ──夢のように。




 それから、毎日皇子は潔斎を繰り返した。

 肉と酒と女を断ち、水に身を清めたことにより、意識は鮮明になるのだが、何故か巫女姫の官能的な舞に意識を奪われた。

 こんなこと──故郷では聞いていなかった。予想外の展開に皇子は困惑した。


 また、夕刻。

 巫女姫は何処いずこからか、夢幻のように現れて、皇子をいざなう。


 ふわり。ふわり。


 そこにあるのは沈黙。互いの息も凝らしたまま、端座した皇子は夢のように印を結びながら舞う巫女姫を見つめる。


 と、その時。

 悪戯な風が室内に飛び込んで来た。

 思わず皇子は声を上げそうになり、そして巫女姫は体勢を崩した。


 ヴェールがはらり、と床に落ちた。


 皇子は見てしまう。

 まるで古代の神話の姫君のような、天女のような、女神のような──美しい女性の姿を。


 思わず手を伸ばし、巫女姫の折れそうに細い手首を握っていた。


 なんと、たおやかな女性なんだろう!


 皇子は思わず声をかけそうになるのを懸命に堪え、そして巫女姫をこのかいなの中に囲い込んで、想うさまその、馨しい香りを嗅ぎ、そして清らかな吐息を感じ、柔らかな身体を抱きしめたいと欲した。

 突き上げるような欲求が身体を焼いた。まるで、地獄の業火だ。


 巫女姫の闇に光る星のような瞳が揺れていた。

 花びらのような赤い唇が震えている。

 ふっくらとしたあどけなさを残した頬が朱に染まっている。

 嗚呼──


 皇子は、その瞬間引き裂かれるような想いに息が出来なくなった。

 教典のことも、故郷のことも、彼の帰りを待つ全ての人々のことも頭から消えた。


 どちらからともなく近づき、皇子はその腕に抱き寄せると、唇を奪った。


 ──それは、禁忌。


 本能のままに、皇子は巫女姫を貪り、その甘い吐息を思うがまま堪能した。

 巫女姫の清らかな瞳からは止めどもなく泉が沸き上がる。

 巫女姫へ絶対の愛を囁きたかった。故郷も捨てると、教典も捨てると愛を乞いたかった。

 だが、巫女姫はたとえ皇子がその衣を剥ぎ取ってしまっても、身体中に口づけを注ぎ官能を呼び覚ましたとしても、そして痛烈な破瓜の瞬間すら、決して声を上げなかった。

 皇子もまた、声を上げることが出来なかった。

 夢のように甘い身体を貪り、その甘さに心から耽溺していたとしても。

 全て、無言のまま二人は愛を交わした。


 皇子は、巫女姫は──互いに寄り添い合うことの出来ない運命を知っていたし、この一瞬をどれだけ永遠であって欲しいと願ったとしても、それは夢でしかないと知っていたから。


 繰り返し、繰り返し、二人は唇を絡め合った。言葉の代わりに。




 数日後、書き上がった教典を手にし、皇子は楼閣を後にする。

 故郷で彼を待ちわびる、父王、臣民、そして許婚を想う。


 だが、皇子は知っていた。

 これから帰るは、皇子と言う名の抜け殻にしか過ぎないことを。


 その魂は──この楼閣の奥、言葉を持たぬたおやかな姫君の元にある。

 突き抜けるような蒼穹がもたらした風は、皇子の小さな呟きを掻き消し、そして何処へとなく持ち去った。


 言葉を持たない巫女姫だけが、その言葉を知っている。





<了>





この物語を読んで下さった全ての方に感謝致します。

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