薄暗い森の中、早朝の太陽の光が茂った木々の葉の間を細く抜ける。
見た目十二、三の少年がよたよたと歩いていた。少年の頭より一回りほど大きな、無骨で木造の箱を大事そうに抱えている。蓋の四隅はしっかり固定され中身はまるで見えない。けれど、とにかく重そうだった。
森に道はなく、木々の間をぎこちなく進む。
危なっかしい足取りで、案の定木の根に足を引っ掛けて派手に転んだ。箱をかばう様に転んだ。
「っ……。四回目だっけ?」
見れば少年の服は泥だらけ、四股や顔は引っかかれたような傷でいっぱいだった。
少年は立ち上がって服を払う。汚れはぜんぜん取れない。
「少ないほう、少ないほう」
少年がまた歩き出す。しばらく進んで、また転んだ。
通いなれた自分の家への道中、彼は何度も転んだ。でも、箱は手放さなかった。
森の中に一人で住んでいる少年がいた。傾いた小さな家、なんとか一人で暮らしている。
森を抜けたところにある村で育った少年は、一年前からここにいる。
それは少年が決めたこと。そして、それは村のみんなが望んだことだった。
ある日、初めての来客があった。
訪れたのは妙齢の女性、黒いローブを着て、さらに深く黒い髪は腰まで長い。優しい笑みを浮かべていた。
「これに花を咲かせてほしいのです」
女性は小さな鉢を取り出してそう言った。それは少年の両手にも十分収まる大きさで、中には土、中央には小さな二葉の芽が一つ出ていた。
ここから少し歩いたところにある清流で水を汲み、これに毎朝あげてほしい。それを毎朝続ければ半年後には花が咲く。そう女性は説明した。
そして報酬として、おそらく少年の一生を使っても使い切れないほどのお金を提示した。
半年間毎朝水をやり、花を咲かせれば信じられないほどのお金をもらえる。誰もが怪しいと思う話。
少年は俯いて少し考えた後、顔を上げ笑顔で断った。
悲しい笑顔だと、女性は思った。
少年が断った理由。それは彼が一人でここに住んでいることと同じ理由。
「僕では、そのお仕事は成功できません」
それは嘘でも建て前でもなく、少年自身が本当にそう思うことだった。
少年が話す。
幼い頃は笑われるだけで終わった。他の子に比べて鈍感な子だと言われるだけだった。
決定的だったのは六歳の時、初めて麦を植えた。
不恰好で、大人のお荷物だった。手伝っているのか邪魔いているのかわからない、幼いながら気がついていた。
それでも、自らが任された仕事を終わらした。初めて大人に褒めてもらえた。
「始はみんなそうだった」
笑って頭を撫でてもらえた。うれしかった。
その年の秋、近年稀に見るほどの豊作だった。道端に偶然落ちた種すら穂をつけた。
少年は自分が植えたところを覚えていた。そこには何も変わっていない、むき出しの地面があった。
大人達はかける言葉を知らなかった。そして気がついた。
この子はこれまで何も成功したことがないと。
それ以来、少年に何かを任されることはなかった。そして実際、自分から何かをやってもことごとく失敗した。
その度に向けられるのは哀れみの視線。誰も何も言わない、無表情で、時に冷たい笑みを浮かべ、大人も子供も村人はみんな少年を見た。
やがて村人達は恐怖を感じ始める。この少年のせいで村が、自分達が不幸になるのではないのかと。
少年は自分に降り注ぐ視線に敵意が込められるのを感じていた。それでもどうすることもできなかった。まだまだ子供だったから。
十三歳になった時、森に一人で住むことを少年は両親に伝えた。その時の両親の驚いた表情がどこかほっとしていたことを、少年は忘れられない。
森に住む家も一人で造りたかったが結局成功せず、村の人達に手伝ってもらった。皆快く引き受けてくれた。
ここに住んで一年がたった。暮らしは決して楽ではない。
それでも、少年はそれなりに楽しく暮らしていた。森の木々や動物は、怒鳴ったり笑ったりはしない。
「だから、僕に頼んでもおそらく花一つ咲かせることはできません」
少年が笑顔で話し終えた。女性の穏やかな表情は変わらない。少し間をおいて、口を開く。
「ええ、知っています」
あなたは自分が思っている以上に有名なのですよ、そう続ける女性を、少年は少し怖く感じた。
その後、女性は一方的に話しをして帰っていった。
一人になった部屋の中、少年は木造の椅子に座って俯いたまま動かない。動けなかった。テーブルの上には女性が持ってきた小さな鉢が置いてある。
「もし成功したら、あなたを助けましょう」
空気が固まったのを覚えている。
そして、半年後にまた来ます。そう言って出て行った
女性が言った言葉が少年の頭の中で反芻する。意味は目が霞むほどによくわかる。
少年は、今まで考えることもなかった神様を、今少しだけ感じることができた。毎夜聞こえる狼の遠吠えのように声を出して喜びを、こらえて震える。その震えの半分くらいが、怖いという気持ちから来ているのを少年はよくわかっていた。
成功したら、と女性は言った。
自分を知り、知られることになった子供の時。あれから何度挑戦してもだめだった。そして失敗するたびに向けられたつめたい視線。その全てを思い出す。
家の中には一人だけ。
少年落ち着く為に大きく息を吐いた。震えは完全には止まらなかったけれど、いくぶん和らいだ。
それから、少年は準備を始めた。
水を入れる入れ物は転んでも壊れないようにと木の箱を用意した。丈夫さを第一に考えたせいで大分重くなった。
そして、次の日から少年は毎朝水を汲みに歩いて清流まで行った。
朝、太陽が頭を出した頃出発して帰って来るのは昼前。
清流までは道のない森の中、木々の間を進む。地面は網のように張り巡らされた木の根が段差を作り、平らな場所は一つもない。
その上に草が生い茂り、凸凹の地面はほとんど見えない。
少年は帰って来る度に新しい傷ができた。根に足を取られては転び、硬い草の葉で肌を切る。なんど往復しても少年は何度も転んだ。
一日仕事を終えるたびに安心できた。しかし、それ以上に不安も大きくなっていく。
少年は徐々に眠ることすらできなくなっていった。眠ってしまうと、もう一、二日起きれなくなるような気がして、睡眠時間は減ってゆく。
日々痩せていく少年、痩せるほどに転ぶ回数も増えていった。
這うように一日一日はゆっくり過ぎていった。
少年にとって永遠と言える半年が経った。
「もう少し……、もう少し……」
少年はぶつぶつ呟きながら家に向かう。森の中を痩せこけた少年が木造の箱を抱えてふらふらと進む姿は、正常には見えない。
そしてまた転んだ。
両手に力を込めて体を起こす。全ての力を込めているのに、見た目それはあまりに弱い。
両目の下にできた真っ黒い隈、そこを草で切り、赤と黒が混じる。
少年は満身創痍の体を起こす。もう少し、もう少しと呟いて。
顔を上げ、再び前を見る。そこで少年が止まる。
天井のように空を埋める木々の葉、そこから見える僅かな隙間が真っ黒だった。一目でわかった、それが曇りではなく下から上る黒煙ということ。
そして黒煙の出所がどこなのか。森の中の一軒家。
少年は走った。
走ることしかできなかった。転ぶ回数が倍になった。
走って、転んで、起きて、気がついたら泣いていた。
やっぱりだめだと思っている自分がいた。それが悔しかった。
走って行くうちに、空が紅くなっていった。
木々の間を転びながら抜け、地面に顔から滑り込む。擦りむいた顔を上げると、馴染みの傾いた家が大きく見えるほど燃えていた。視界はほとんど紅い。大きな炎は音を立てて存在することをはじめて知った。
少年は立ち上がる。両手にはまだ木の箱を抱えている。ただ燃える家を見つめる少年、気がついたとき自分の中で何かが消えていた。
「水をやらないと……」
そう呟いて、燃える炎の中へ歩を進める少年。家の中は真っ赤なだけで、何も変わっていない。
もはや意思などない両目が最後に見たのはテーブルの上の小さな鉢。一面の赤い景色の中で、そこに咲く花は飛びぬけてきれいな赤だった。
その日森で火事があった。
幸い発見が早く、近くの村の人たちが消火にあたり事なきを得た。
被害もけが人も出なくてよかったと皆が言った。
本当によかったと皆が言った。
焼けた森の中、被害がないはずなのにそこには焼け落ちた家があった。
地面すら墨と化し残骸はほとんどないそこに、妙齢の女性が立っていた。 黒いローブを着て、さらに深く黒い髪は腰まで長い。優しい笑みを浮かべている。
女性が見つめる先、残骸のほぼ中央に小さな鉢、そして小さな花が咲いていた。
赤色。
それはただ鮮やかな赤でなく、そこに浮かび上がっているように赤い。
花が咲いている鉢を女性が両の手のひらで持ち上げる。
「この花はね、近くにいる人によってだんだんと色を変えるの。そして、わたしが欲しかったのは赤い花。こんなきれいな赤は私もはじめて見るわ」
花びらを指で撫でる。その白い指に花の赤が写ってしまいそうだった。
そして、くるりと振り返るとゆっくりと歩き始めた。最後にもう一度だけ焼け跡を振り返る。
「この花はね、近くにいる人が不幸であればあるほどきれいな赤になるの」
いつもの笑み変えずに言った。
きれいな赤の花を携えて、女性は歩いて行ってしまった。二度と振り返ることもなかった。
森の火事から少しして、一人の魔女が国を取ろうと画策した。
すべて完璧だったのに、どういうわけか失敗した。 |