俺は現実を受け入れる事にした。
こうなってしまった原因がどこにあるのか、それは俺には分からない……いや、分かるはずもない。
「……迎えに来ました」
突き付けられた現実。
「あなたが……黎司が、呪われた日狩の一族だからです」
先祖が犯した罪。
「黎司……あなたが決めてください」
力強くも優しい声。
その声を聞きながら思い出す。
出会いの日……日常が壊れた日の出来事を――。
その日は朝から雨が降っていた。
小雨が断続的に降り続け、肌に纏わりつく制服がとても気持ち悪い。もう何日も降り続ける雨に誰もが嫌気を指しているのは明白でため息がそこかしらで聞こえていた。
「梅雨はまだのはずなのに、うっとうしい雨だね」
「本当だね。これじゃどこにも遊びに行けないよね」
うしろで女子達が話をしている声が聞こえ、何気なく教室の窓から外を眺めた俺は不思議な光景を目の当たりにした。
……女の子?
教室の窓から見える中庭に傘も差さずに佇む一人の女の子。雨に打たれ前髪が額に張り付き、全身がずぶ濡れになっているにも関わらずその場にじっとしている光景はかなり異様だった。
着ている服は真っ白なワンピースに胸のところに赤い花らしき刺繍があるもので、かなり容姿が幼く見えるが中学生? いや、下手をすればそれ以下にも見えてもおかしくないほどの身長が低く、加えてあどけない顔立ちをしていた。
「……え?」
一瞬、目があって微笑まれた気がしたが、その笑みはどこか悪寒を感じてしまった。
どこの子だろうか? 今の時間なら学校があるはずなのに……。俺が通う高校の近くには中学校や小学校はない。もしかして近所の子が勝手に入ってきたのだろうか? でも、それなら先生が連れ出すと思うのだが。
「あ……あれ?」
少し考え事をして窓から目を離していた俺は、もう一度窓の外を見たときには女の子はもう姿を消していた。俺は辺りを探してみたがそれらしい姿を見つける事は出来なかった――。
朝から容赦なく降り続けている雨は昼過ぎから雨足を強め、地面を抉るように打ちつけていた。
授業も終わり、クラスメイトも仲の良い友達と一緒に帰っていく中、俺は廊下でぼんやりと外を眺めていた。下校していく生徒がさしている傘が色とりどりの花々に見え、心が洗われるような気がしている。
雨の中を寄り添うように咲き乱れては散っていく儚いの花々。
……俺って、詩人だな。
なんて馬鹿な事を考えて教室に鞄を取りに戻ろうとした俺は、不意に視界の隅を掠めた”もの”に導かれるようにそちらに向いていた。
「……な、なんだ?」
薄暗い廊下――雨が降って曇っているとはいえ、外から光が入ってきて明るいはずなのに、廊下の向こうから空間を切り取ったように真っ暗な闇が広がって迫ってきていた。
……夢、なのか?
その闇の中から静かに響いてくる足音に誰かがこちらに向かってくるは分かった。しかし、その足音は妙に俺の耳につき、いつしか拳を握りしめて背中を冷や汗が伝っていた。
「……こんにちわ」
暗闇の中から突如聞こえてきた声に俺は心臓を鷲掴みにされて腰を抜かしそうになった。
年齢は俺と同じか少しくらい下の感じがする女の子の声(姿は見えないので声だけで判断)だが、その声に潜んでいる暗く陰のある感じが俺の身体に纏わりついて離れなかった。
「……雨、ですね」
「っ――な、なんだっ?」
また聞こえた声は先ほどよりはっきりと俺の耳に届き、次いで俺の手を包む温もりに慌てて振り解き一歩後退った。
黒い闇の中から伸びているその手は白く綺麗な指をしており、日焼けした事がないのではと思うほど白く透き通っていた。酷く混乱した頭でもどこか冷静な部分が残っているようで、この手が何かを知りたがっている。
夢ならば面白いし、話のネタにはなる。
しかし、一方でそれを知ってしまうと危険だと警告している部分もあり、俺はその場から動く事も出来ずにいた。
「ごめんなさい……驚かすつもりはなかったのです。ただ、あなたには私が見えているようなので」
先ほどとは一変、今度は沈んだ声が闇の中から聞こえ、近づいて来ようとしたので慌てて一歩後退って正面に広がる黒い闇を見つめていたが、不意に黒い闇は波打つようにうねり、何かの形を作り始めていた。
俺は呆然とその様子を見つめていたが、黒一色で統一された”それ”は真っ黒なドレスか着物を纏ったような姿を形成していた。長い黒髪のように伸びた細いものが窓から差し込む少ない光を浴びて煌めき、足元は真っ白で透けるような白いつま先が覗いていた。同じように白い指先を胸の前で合わせて恥らうようなポーズをとっているが、どういうわけか顔だけは吸い込まれそうな黒い闇に覆われて見えなかった。
「私は闇姫……闇に囚われた魂を浄化する者」
「……闇姫? 魂を浄化する者? って、そうか……これって、演劇部の出し物か何かだろ?」
「あなたは見えざる者が見える力を持ってますね?」
「へ? 見えざる者ってなんだ? ……もっと、分かるように説明してくれ」
俺の質問に答えるつもりはないのか沈黙だけが辺りを占めて、とても居心地の悪い空気が流れていた。
うちの演劇部は意外と金が掛かった事(特殊メイクや特撮など)をして”それ”を一般生徒に見せて反応を見て劇に使うか試す事がある。これもその一環だと思ったが、闇姫と名乗った女の子からは反応はなくどうやら違うようだ。そうなると本当に何者なんだ? まさか、本当に幽霊か化け物なのか? それに「私が見えているようなので」って言ったよな? まるで他の人には見えないような言い方だったが――。
「家……帰らないのですか?」
「え、あ……いや、そろそろ帰るけど」
完全に思考の中にいた俺は突然話し掛けられて上ずった声で返事をしてしまった。表情のない顔で見つめられても怖いと思ってしまうが、声の感じは俺を心配しているように聞こえる。ますますわけの分からない状況になってきたが――
「それなら早く帰った方がいい……危ないから」
「……え?」
意味も分からず聞き返した俺の声に闇姫から返答はなかった。
静かになった闇姫をただ見つめていたが不意に窓から光が廊下を走り抜け、轟音が足元を揺らしていた。窓の外に目を向けると空から幾重にも枝分かれした閃光が地面に向かって伸びていた。
「雷か……こりゃ、すごいな」
数度、空が光に包まれて落ち着いた頃、廊下に目を向けた俺は目を疑ってしまった。
「あ、あれ……?」
今までそこにいたはずの闇姫はいなくなっており、いつもと同じ廊下が続いているだけだった。まるで狐に化かされたような感覚を覚えて俺は頬を抓ってみたが、しっかりとした痛みが返ってきた。
……今のは何だったんだ?
自問自答しても答えなんて出てくるわけもなかったが、頭の中に残っている声は確かに俺の耳に聞こえていた。
一夜明けて――。
今日も昨日と同じで雨が降り続いて、ジメジメした湿気が容赦なく身体に纏わりついていた。
黒板の前で誇らしげに胸を張って授業をしている先生を横目に、俺はぼんやりと中庭を眺めていた。昨日みたいに白いワンピースを着た女の子がいるかなと思ったが、今日はただ無人の中庭に雨が打ちつけているだけだった。
……昨日のは幻だったのか?
頭を過ぎった考えにわけも分からずに苦笑を浮かべてしまった俺を目ざとく見咎めた先生に――
「こらっ、何笑ってるんだっ」
と、半ば呆れながら注意にされてクラスメイト達からも失笑までもらってしまい、俺は頭をかきながら教室内を見渡していたが、ある一点に視線が釘付けになっていた。
――白いワンピースの女の子。
昨日中庭にいた女の子が今は廊下から教室の中をじっと見つめていた。前髪が顔半分を覆っているので表情は分からないが、口元が何か呟いているのは分かる。
『や、っ、と、み、つ、け、た、よ』
そう唇が動き、口角がゆっくりと上がっていく。その冷え切った笑みに背中には大量の汗が流れ落ちていた。
「どうしたんだ? さっきからおかしいぞ」
再度、先生に注意をされてしまったが俺は廊下から目が離せないでいた。今、目を逸らしたら危ない――直感でそう感じ取っていた俺は震える口を何とか動かして先生に伝えようとしたが、唇が張り付いたようになって動かなかった。
「廊下を見てないで黒板を見なさい……まったく」
そう言って先生は廊下を一瞥をして黒板に向き、チョークを走らせていくが、あの子には気づいてないのだろうか。それ以前に廊下側にいるクラスメイトも誰一人して気づいていない。ちょうど女の子がいる窓のところにいるクラスメイトはそちらには見向きもしないで黒板に書かれている事を必死にノートに写していた。
……まさか、誰も見えていないのか?
そんな考えが頭を過ぎった瞬間、俺は硬直していた。声を出す事も動く事も出来ない俺は、ただ目の前にいる女の子を見つめる事しか出来ないでいた。
たった今まで廊下にいたのに、いつ俺のそばに来たんだ? 目を離したわけではない。ずっと女の子を見続けていたはずだ。それなのに気づいたら女の子は目の前に立っていた。どこからか吹き込んでくる風で揺れている前髪の隙間から見えた瞳はドブ川のように濁った色をして、その身体からは生身の人間から感じる生気をまったく感じない。
光の宿らない瞳が真っ直ぐに俺を射抜いて身体は金縛りにあったように指すら動かす事が出来ず、何をされるのか分からない恐怖と現実から掛け離れた光景に俺の頭は思考を停止しようとしていた。
……この子は死んでいる。
それをはっきりと認識させてくれるのが胸にある赤い花の刺繍だと思っていたものが、白いワンピースに付いた血の跡だったのだ。しかも、その血の跡はたった今さっき流れ出たような感じがするほど生々しく、生臭い匂いのしそうな鮮やかな色をしている。
……俺、殺されるんだ。
発狂寸前の頭で考えても出てくる答えなんて一つだけだ。女の子は俺の首に手を掛けて徐々に力を篭めてきている。圧迫されて息を吸う事も吐く事も出来ない苦しさと死へと向かう恐怖感に全身から力が抜けていこうとしていた。
ああ……俺はこのまま殺されるのか?
何故、俺が殺されるんだ?
教えてくれ……なんで俺が殺されなきゃいけないんだ?
『だめ……そっちに行ってはだめっ』
朦朧としてきた意識の中、頭を駆け巡る走馬灯のような光景。その最後に出てきたのは、ぼんやりと黒く光る闇姫だった――。
ここは……?
白い天井、鼻につく消毒液の匂い――ここは保健室か? それにしてはやけに静かだな。今が授業中なのか、休み時間なのか、分からないが廊下を歩く音や話し声、それに外で振っているはずの雨の音すら聞こえてこない。
「なんで、こんなところに……くっ」
身体を起こして何が起こったのか確認しようとしたが、鋭利なもので刺されたような痛みが背中を駆け抜けていった。
「っ……なんで首が――」
痛む首を擦りながら冷静になりつつある頭で何があったのか徐々に思い出して、ふらつく足を無理やり動かして洗面台にある鏡の前に立った。震える指先で襟を少しずつ引っ張っていくと、首の一部が青紫色に変色して指の跡がくっきりと残っていた。
「これって……まさか」
首に残っていたのは間違いなくワンピースの女の子が絞めた跡だった。
そして、鏡に映った俺の顔は酷く青ざめてまるで死化粧をした死人のようで、生きているのか、死んでいるのか、分からない顔色をしていた。
でも、なんで俺は生きているんだ? どうして保健室で寝ているんだ? 分からない事だらけで頭がまた混乱してきた。とりあえず一旦、教室に帰ってみるか……でも、あの子がいたらどうしよう。いや、もしかしたらあれは夢で寝ぼけていた俺が机から転げ落ちてとかで保健室に運ばれたのか? いや、待て……それなら首の跡はどうやって説明するんだ。これは明らかに首を絞めようとした跡で俺は殺されかけたんだ。
「どうすれば、いいんだ……」
混乱する頭を抱え、その場に蹲った俺のうしろで何かが動く気配がした。
「動かないで……じっとしてて」
咄嗟に振り返ろうとした俺の頭に触れている手と、耳元で静かに囁く声には聞き覚えがあった。
それは昨日聞いた闇姫の声で優しく心の中に広がっていく。頭から首へ下りてくる指先の動きを感じ取り、身体が反応してしまうが次第に痛みが引いていく不思議な感覚に驚いていた。首を擦っている指の動きに身体中から力が抜けて空を飛んでいるような心地よさがある。
……この子は一体、何者なんだろうか?
今更ながらの疑問に我ながら変だとは思うが、なんで俺の心配をしてくれるのだろう。
「君に一体……?」
聞いてはいけないような気がしていた……でも、聞かなければ何も分からないと思った。
「……私は私」
しかし、まったく予想していない答えが返ってきて俺は慌ててうしろを振り返った。まだ少し痛む首を押さえ、見上げた先には昨日と違って人の形はしておらず、最初に見たときと同じ黒い闇だけが広がり、その中から白い指先が伸びていた。
「私にあるのは『わたし』という存在だけ……それ以外は、私にはないから」
「私だけ? 闇姫って名前は……?」
「それは誰かがそう呼んだだけ……本当の名前なんて、私には…………ない」
そう言ってゆっくりと白い腕は闇の中へ吸い込まれていった。
何故だか分からないが昨日とは違って恐怖などは感じられず、穏やかな気持ちが心の中に流れていた。
「来る」
「え? 何が――」
闇姫の研ぎ澄まされた声が響き、次いで窓ガラスを突き破って”何か”が飛び込んできた。
粉々に砕けたガラスが日の光を受けて煌めき、その中に舞い降りた胸元に赤い花のような血の跡を付けた白いワンピースを着た女の子。
割れた窓から吹き込む風に揺れる前髪の隙間から真っ赤に染まった異形の瞳が見える。教室で見たのとはまったく違う化け物じみた瞳に身体がすくみ、俺をじっと見つめて口元から垂れ落ちるヨダレ、逆手に持った赤い雫が滴り落ちる包丁――何もかもが前に見たときは掛け離れたものだった。
「な、な……なんだっ」
「早く逃げて……このままでは殺される」
闇の中から伸びてきた指が俺の頬を撫でてワンピースの女の子へ向かっていった。睨みを効かせるワンピースの女の子は人間では考えられない速度で飛び退いて距離を取ろうとしているが、すかさず闇を触手のように数本伸ばして足に絡めていた。しかし、体勢を崩す事なく手に持っている包丁で闇を切り刻むと柄を回転させ、闇へ突き立てていた。
「くっ……かはっ」
闇の中から苦しそうに吐き出される闇姫の息が聞こえきた。それを聞いて嬉しそうに口元を緩ませているワンピースの女の子は、赤く染まった瞳を俺に向け――
「お兄ちゃんを……返してもらうから」
低く心の底から恐怖を感じる声を出し、俺を見つめながら舌なめずりをしていた。
今度こそ間違いなく殺される。逃げなくては――そう思っているのに膝が笑ってしまって立つ事が出来ない。じりじりと近づいてくるワンピースの女の子から逃げようと床を這うようにして後退って行くが鈍い痛みと共に背中が壁に付いていた。
「さあ……一緒に行こう、お兄ちゃん」
「く、来るなっ」
「なんで……なんで、私を避けるの? お兄ちゃん、私の事が嫌いなの?」
髪を振り乱してわけの分からない事を喚き散らし、血走った赤い瞳を俺に向けているワンピースの女の子は何かを考えているのか表情を一変させ、口角を上げて笑みをこぼしていた。
「だったら、一緒に行こうよ……誰にも邪魔されない、二人だけの世界に」
振り上げられた包丁が煌めき、俺の身体目掛けて振り下ろされてきた。
咄嗟に手をかざし目を閉じたが一向に何も起きない。痛みすら感じる間もなく俺は死んだのか? でも、さっきと何も変わってない気がするが。
恐る恐る目を開けてみると、目の前には黒い闇が俺を庇うように広がっていた。
「また……お前かあっ――邪魔をするなっ」
「くっ……あ、ああっ」
小さく闇の中からうめき声が聞こえ、剥がれ落ちるように粒子となって散っていく。闇の一部を突き抜けるようにして包丁の先端が俺を狙うように向いていた。かすかに動く包丁の先端から伝うように流れ落ちる黒い粒子はまるで血のように見えて、どんどんと俺の足元に広がっていた。
「離せっ、離せって言ってんだろうがっ」
「は、早く……逃げて」
闇の向こうで狂ったような叫び声を上げているワンピースの女の子が包丁を抜こうとしているのか、闇の中からは苦しそうな息遣いが聞こえ、小さく震えていた。それでも必死に俺を守ろうとして黒い闇を広げてようとしている闇姫だが、粒子となって剥がれ落ちて先ほどよりも一回りほど小さくなった気がする。
「なんで、俺を助ける? どうして、そこまでする必要があるんだっ」
「こ、これが……かはっ……私の使命だから、はあ……はあ……それしか、ないから」
闇姫は弱々しい声ながらも、まだ俺を守ろうと闇を広げようとしているが苦しげに息を吐いた音が聞こえ、黒い粒子が飛び散っていた。黒い粒子は俺の顔に飛び散ていたので拭ったが、俺には黒では赤い血のように見えた。
「もういいっ、君も逃げるんだっ」
「だめ……私はこれが使命、くはっ……逃げる事は出来ない」
闇の中から聞こえる闇姫の断固とした意思。それは揺るぎない決意の言葉。
その声が引き金になったのか、大きく膨れ上がった闇から無数の触手を広げるようにして俺から離れて、うしろにいたワンピースの女の子を飲み込んでいった。
「があっ――は、離せっ、この、ぐあっ」
身体中を締め上げられてもがき苦しむワンピースの女の子を容赦なく包み込んでいく闇姫。必死に抵抗するワンピースの女の子だったが、次第に化け物じみた赤い瞳から黒い瞳へ、狂気に満ちた表情は優しく歳相応のあどけない表情へと変貌していた。
顔以外を闇の中へ吸い込まれて断末魔の叫びにも似た声を上げているワンピースの女の子が――
「た、助けて……お兄ちゃん」
俺に助けを求めるような悲しげな瞳を向けて腕を俺に伸ばそうとしていた。
「あ、ああ……お、にいちゃん」
やがて闇の中に完全に飲み込まれてしまったワンピースの女の子は飲み込まれる寸前――
『ご、め、ん、な、さ、い』
瞳から流れ落ちる一筋の雫と共に、そう呟いていた。
何が起こったのかさっぱり分からない俺は、ただ見つめる事しか出来なかった。女の子が最後に呟いた言葉の意味を俺は理解する事も出来ずに呆然と蠢く闇を見つめていたが、次第に形を元に戻して俺の前にやってきていた。
「……終わりました」
闇の中から荒い呼吸を整えようとしているのが聞こえ、白い腕がゆっくり現われてきた。しかし、心なしか薄く透けているような気がする。
「大丈夫……なのか?」
「……私は……はあ、はあ……大丈夫です」
ゆらりと蜃気楼のように揺れている闇から伸びる指が俺の頬を撫で、そして腕の中へ包み込んでいた。
「お、おいっ、大丈夫かっ?」
「少し、こうして……はあ、はあ……いてください。……それが、あの子の願いでもあるから」
小さく搾り出す声はどこか辛そうで心が締め付けられていた。
「あの子って……もしかして」
「今は私の中で浄化され、霊界へ行く準備をしています」
俺の声に反応して闇姫の腕に力がこもっていく。あの子って言うのはワンピースの女の子だろう。しかし、『お兄ちゃん』っていうのはどういう意味だったのだろうか? 俺にも妹はいるが生きているし、死別した妹がいるとは両親から聞いていない。
「願いって……」
「……あの子は実の兄に恋をしていました。でも、ある日……兄に身体を汚されてしまった」
ぽつり、ぽつり、と語るように話し始めた闇姫の声はとても辛そうだった。しかも話の内容は普通に聞くのにはショッキングで耳を覆いたくなってしまう。
好きな兄にその身体を汚されても、大好きな兄なら――そんな気持ちを持ち続けて毎日を過ごしていたあの子。しかし、ある日両親と兄が”その事”で喧嘩をしている場面に出くわし、兄が酷く叱責されているのを聞いて逆上したあの子は台所から包丁を持ち出して両親を刺した。
「そして……我を忘れていたあの子は止めようとした兄も刺してしまい、自責の念を駆られて自らも命を絶った」
そこまで話して俺を包んでいた腕を緩め、ゆっくり離れていった。
「だけど、あの子は現実を受け入れる事が出来ずに、ずっと兄を探していた……兄の代わりになるべき人を」
「……代わり?」
「あの子と一つになってよく分かった……あなたはあの子の兄さんによく似ている。魂の波動……心地よい優しさに包まれた波動があの子を呼び寄せた」
悲しそうな声に次いで闇姫の中からすすり泣くような声が聞こえてきた。
「泣かないで……罪は償わなければいけないけど、いつか会えるから」
優しく母親が子供を諭すような声で話し掛けられて、闇姫の中から聞こえるすすり泣く声は大きくなっていた。
俺があの子の兄さんにそっくり? だから狙われたのか? 俺を兄さんの代わりに連れて行こうとしたわけか。でも、今の話を聞いてなんて言っていいか分からない気持ちでいっぱいだ。正直、複雑だよな……。
「あなたに謝りたいって言っている」
「……別にいいさ。それより、お兄さんと会えるといいなって、伝えてくれないか?」
「ええ……でも、あなたの声はちゃんと届いているから」
どちらの声に反応したのかは分からないけど、闇姫の中からは小さく「ごめんなさい」と何度も聞こえていた。
自分の身体を抱きしめている闇姫は表情はないが、きっと優しい笑みを浮かべているのだろう。文字通り、自らの身体を犠牲にして俺とあの子を救った闇姫――彼女がどんな存在なのか分からないが命の恩人である事には変わりなかった。
「それでは、私はこれで……」
「……え?」
突然、何を言い出したのか分からない俺は、かなり間抜けな返事をしてしまった。くるりと身を翻して歩いていく闇姫のうしろ姿を呆然と見送っていた俺だが、我に返り――
「お、おいっ、どこに行くんだよ」
少し荒げた声を上げていた。
「もう、行かないといけないから」
「行くって……どこへ?」
「私が住む世界……永久の世界へ」
振り返りもせずにゆっくりと歩みを進めて、俺との距離をとっていく闇姫。
命を助けてもらったのに、まだお礼の一言も言ってないのに――。
「助けてくれてありがとうっ! 俺……俺はっ」
「いえ……これが私の使命ですから。それに、あなたとはもう一度……会うような気がします」
小さく呟いた闇姫だが言葉を噛み締めるようにして、それ以上は喋ろうとはしなかった。
「気にしないでください」
それだけを言うと闇姫の姿が霞み始めた。人の形は徐々に崩れ出し、黒い闇は霧が消えるように散り始めていた。
「なあっ!」
「……なんですか?」
「名前……本当にないのか? 俺は――日狩黎司だっ」
力の限り俺は自分の名前を闇姫へ向けて叫んでいた。
「日狩……黎司。やはり…………そう、ですか」
悲しげに呟いて俺の方へ振り返った闇姫を見て、そのまま言葉を失っていた。
やがて闇姫の姿は宙に溶けるようにして完全と消えてしまい、俺だけが取り残されていた。途端に外からどしゃ降りの雨音、廊下を歩く足音、人の話し声が聞こえ始め、まるで今までの事が夢か幻だったかのように急速に俺を現実に戻していく。
ふらつく足でなんとか立ち上がった俺の目に鏡に映った俺の顔が映っていた。先ほどとは違って顔色はよくなっていたが、ふと首に視線をやると痣は綺麗に消えていた。
「あ、あれ? ……夢、だったのか?」
あれだけくっきりと残っていたのに、こうも綺麗に消えてしまうとは本当に夢だったのかと思ってしまう。しかし、首に触れた指先から感じる優しい温もりが、夢ではなかった事を教えてくれていた――。
あれから数日、雨は相変わらず降り続いていた。
放課後の廊下――廊下の窓から外を眺めると数日前と同じように色とりどりの傘が咲き乱れていた。いい加減、降り止んでくれないとカビが生えそうな気がしてきたが、それはお天道様の気分次第って事だろうな。俺達にはどうする事も出来ないし。
「天気予報も当てにならないよな」
窓の外に目をやっても、取り分け変わったものはなく窓ガラスに張り付く水滴が不思議な模様を描いているだけだった。
雨を見ていると思い出すのはあの日の出来事で、まるで夢のようだったが確かにあれは現実だった。俺の首からは痣は消えているが、鮮明に残る記憶は消える事はない。
そして、もう一つ変わった事がある。それはあの日以来、俺は今まで見えなかった”もの”が見えるようになっていた。聞こえてくる声も禍々しい呪いの言葉から悲痛を訴えながらすがりついてくるものまで多種多様で、疲労困ぱいしているのが正直な感想だ。どうしていいか分からない事だらけで今も隣を通り過ぎていったし、こういうときに相談できる人が欲しいよな。
「はあ……こんなときに闇姫がいてくれたら」
あの日から考えるのは闇姫の事ばかり。この変な力の事を聞きたいのもあるが、それ以上に闇姫自身に会いたかった。消える瞬間に見た表情のないと思っていた黒い顔が優しげに微笑んだのが幻だったのか、それを確かめたいと思っているのだがそれも無理な話だろう。
でも、消える間際に闇姫が呟いた『あなたとはもう一度……』という言葉を信じれば、また会えるのかも知れない。
「考えても仕方ないか。それじゃ、帰ると……ん?」
自嘲気味に笑みを浮かべて歩き出そうとした俺は足を止めた。いや、止めざる得なかったと言うべきか――。
「こんにちわ……黎司」
あの日と同じように黒い闇がいつの間にか廊下に広がり、その中から会いたいと思っていた人物の声が響いていた。
そして、現在――。
俺は自分が知らなかった事実を知らされ、日常を捨てようとしている。
「決めるのは黎司……あなた自身です」
ここで一歩を踏み出せば、俺はもう戻って来れないだろう。
平和な日常。何もない退屈な日々。
特別、感慨に耽る必要はないはず。
俺はこの世界に居場所がないと思っていたではないか。
「……行けば、すぐには返って来れなくなります」
「そうか……そうだよな」
これからどうなるかなんて分からない。でも、俺の心はどこかで楽しげに喜んでいる。
俺が望んでいる事……いや、俺の中に流れる”血”が欲しっているもの。
闇への渇望。
光を嫌う闇の従者たる一族ゆえかも知れないが、この目で見てみたい。
「行こう、闇姫」
怖いという気持ち、歓喜に満ちた心、相反するものが胸の中を占めて身体が震えだす。
それは恐怖なのか、武者震いなのか――俺には分からなかったが、闇姫を見ているとそんなものはどこかへ吹き飛んでいった。
「……分かりました」
闇を広げ、徐々に俺の迫ってくる闇姫。足元から這い上がってくる黒い闇は触手のように身体に纏わりつき、俺を飲み込んでいく。
光を拒絶し、闇で生きる事を選んだ一族。俺がそこに行くのは必然なのかも知れない。
心地よい冷たさに満たされて次第に意識が薄れていく中――
「いざ……永久の世界へ」
優しく響く闇姫の声を聞きながら、漆黒の闇へ飲み込まれていく快感に身体を委ねていた。 |