猫
彼女が次に目を覚ましたとき、辺りは真黒な暗闇に覆われていました。
ここはどこだろう。私は彼に看取られて死んだと思うのだけれど。
うまく開かない目でも、何とか周りを見回すことはできました。だんだんと暗闇に目が慣れていきます。
どうやら彼女の寝ていた場所はとても大きな木の虚のようです。
なんとなく、見覚えがあるのは気のせいでしょうか。彼女が男と、少年と出会う前に寝床にしたことのある場所になんだか似ている気がします。
あれは、一晩の夢だったのでしょうか。
それにしてはずいぶんとはっきりと思い出すことができました。ぼんやりと、彼女が記憶に思いをはせていると、先ほどまでどこか遠くにあったような周囲の音が次第にはっきりと聞こえるようになりました。
――母さん、どこ? 母さん。
そんな声が聞こえてきます。
ああ、また孤独な子供が増えているようです。
とはいっても彼女にだって誰かを気にしている暇はありません。先ほど見ていた夢に出てくる男のように、黙って受け入れる余裕はないのです。
――ねぇ、君は母さんがどこか知らない?
どうやら声の主は周りの存在にも問いかけているようです。そんなことをしても無駄だろうと、言葉を返す存在はいませんでした。
――ねぇってば!
ぺちりと背中をたたかれて、彼女は初めて声が自分に向けられたものだと気づきました。
なんだか面倒なことですが、一つ文句でも言ってやろうと後ろを振り向いて、彼女は逆に飛び上がってしまいました。
なんとそこにいたのは彼女とおんなじ大きさの猫、それも子猫だったのです。
飛び上がったせいで彼女は天井に頭をぶつけてしまいました。
いきなりはねた彼女に驚いていた子猫も、そんな間抜けな失敗をする様子を見て吹き出していました。
――……ぷふっ。いきなりどうしたの?
あなたが驚かすから。
彼女は声にしようとしましたが、うまく口が動きません。
焦った彼女はまたまたびっくりして自分ののどに手を当てました。
するとなんともいえないふかふかとした感触が返ってくるではありませんか。
子猫が自分とおんなじ大きさなのも、口がうまく動かないのも、そして子猫の言葉がわかるのも、全部当たり前のことだったのです。
なぜなら彼女もまた子猫になってしまっていたのですから。
驚きっぱなしの彼女を見て、もう一人の子猫は笑い転げていました。
なんだか頭にきた彼女は照れ隠しに子猫をたたきます。
しかしそこは子猫の力しかありません。ぺちと情けない音しか出ませんでした。
そんな彼女の動作を遊ぼうとしていると勘違いしたのか、子猫は先ほどまで母親を呼んでいたことも忘れ、飛びかかってきました。
そんなことをされれば彼女も黙っていられません。しっかりと迎撃して応戦します。
どれほどそうしていたのでしょうか、体力を使い切って疲れ果てた二人はほとんど同時に虚の中でへたり込みました。
――はぁ、はぁ、はは……。……はぁ。
最後のはため息だったでしょうか。
どうしたというの。
彼女の思いは相変わらず声にはなりませんが、どうやら子猫には伝わっているようです。
――母さん、どこに行ったのかな……。
子猫は悲しげにつぶやきます。それに、彼女は答えませんでした。
子供を捨てる母親というのは、種族が変わっても存在するものなのでしょうか。
彼女は静かに憤りを感じていました。
――ただいま。
と、そんな風に彼女が憤っていると、虚の入り口から彼女の何倍もあるような猫が顔を出しました。
さすがに自分が猫になっているということは理解していたため、先ほどのように飛び上がることはありませんでしたがまたもや驚かされてしまう彼女でした。
――母さん、おかえり!
彼女の隣にいた子猫はそう言って猫の元へと駆け寄ります。
親猫は自分たちを捨てたのではなかったのです。彼女は勝手に親猫が自分たちを捨てたと早とちりして決めつけたことを恥じました。
人間だったら子供を放っておくなんて考えられないことですが、今の彼女は猫なのです。生き方に違いがあることなんて当たり前なのです。
彼女の親猫は野生に暮らしていますから、狩りをしなければ生きていけません。そして狩りをする場面に子猫を連れて行けないことくらい、考えればわかることだったと、彼女は反省しました。
――どうしたんだい?
しばらく子猫の毛繕いをしていた親猫は、いつものように甘えてこない彼女を不思議に思い、問いかけてきました。
いえ、なんでもない……です。
彼女の記憶で、最後に親に甘えたのはどれほど前のことだったでしょうか。優しいまなざしで自分を見つめる親猫に、彼女はどう接していいかわからなくなってしまいました。
たどたどしく近づいてくる自らの娘に親猫は一度首を傾げましたが何も言わず、彼女の毛繕いをしてくれました。
その暖かさに触れながら、彼女はなんとなく申し訳ない気持ちでただ一点をじっと見つめるばかりでした。
何度か日が昇り、そして何度か月か沈んだころ、彼女は親猫も兄弟である子猫もが寝入っている隙を見計らって虚を出ることにしました。
――行くのかい?
突然後ろからかけられた声に、彼女はびっくりしましたが、なんとなく彼女は予想していました。
後ろを振り返ると、気づかずにすやすやと寝入っている子猫の傍らで、体勢は変えずに目だけを開けてこちらを見ている親猫がいました。
親猫がいる時間を選んだのは、どこかで引き留めてもらうことを期待していたのかもしれません。
……ごめんなさい。
結局最後まで、猫の言葉は話せませんでした。それでも、家族故か、親猫と兄弟には伝わっているようです。
――構わないよ。
止めてはくれないのですか?
――止めたところで、結局あんたは私のもとを離れていくんだろう? それに生きてたらいつかは別れないといけないんだ。それが少し早まっただけのことさね。
彼女は静かに親猫の言葉を聞いています。
――あんたがここにいるべきじゃないってのはわかってたよ。あんたが私たちに対してどこか引いていたことも。
――あんたの目には私たちは映っていなかった。いるんだろう? 待ってる人か、待たせてる人が。
その言葉に彼女は真っ先に男のことを思い出しました。
愛しているかといえば愛してはいなかったけれど、嫌いかといえば絶対にそんなことはなかった。
ただ、そこに在るのが当たり前の存在。彼女にとって男はいつしかそんな存在になっていたのだと確信することができました。
今も男が生きてるかはわかりませんし、そもそも男の家まで子猫の足でいけるかもわかりません。
それでも彼女は男に会いに行くことを決めました。
ありがとう、ございます。
――礼なんていらないよ。あんたがどう思っていようと、私はあんたの母親だ。当たり前のことをしたまでなんだから。
静かに見つめる親猫にしばらく視線を返して、最後に一度、人間のように深く頭を下げて、彼女は虚を後にしました。
――じゃあね。
彼女の背中が見えなくなってから、親猫はそう一言だけ呟いて、再び目を閉じたのです。
第二話となる『猫』は代表作に
『光るきれいな石を拾いまして。 ~六畳一間の世界征服~』 http://ncode.syosetu.com/n2558dp/
を書いている 癸。さん http://mypage.syosetu.com/564200/
に書いて頂きました!
明日も投稿しますのでよろしくお願いします!