常春(とこはる)
昨日殺した小蝿の数は二十三匹。卵も入れると三十二匹。口を縛った生ゴミ袋の中で毎日毎日繁殖し続ける小蝿をなんとなく潰し続ける。ビニール越しに、指先でプツ、プツリとやると手が汚れない。小気味良い音と感触だけが残る。
「今の学生、すごく感触のいい子でしたね。ハッキリと自分ってものを持ってて」
春になってからは、一日で十数匹生まれてくる。見た目も形も感触も大きさもゴマにそっくりな卵――サナギ?――が袋内部にびっしりと産み付けられていて、ガサガサと袋を動かしてはそれを潰す。プツ、ガサガサ、プツ、ガサガサ。春になるとホント多いから――嫌、になる。
「でも、女性だからね。仕方ないですね。ハイ、次の方を連れてきて」
部長が木下さんに命令する。彼女は笑顔で応え、慣れた動作で次の就活生を呼びにいく。建前上、木下さんと俺と人事部長が面接担当ということになっている。
「なんだか、最近の就活生は情報力がとんでもないですな。ネット世代っていうのか、すぐにたくさんの情報を全員で共有しちまうし、それぞれ同じように振舞うし。だからダメなんですね。本当のことを自分の言葉で話さないから」
隣の、顔も性格も四角い部長は俺に話しかけてるようで全くそんなことはなく、結局自分ひとりで答えを出している。
「そーですね」
だから俺は全然面接なんかせずに、頭の中でガサガサプツンと蝿を潰す。時折そうですねと相槌を打てば、そういう風に世の中は進む。要はテレフォンショッキングだ。
「失礼します」
木下さんが連れてきた女性を見て、部長があからさまにため息を吐いた。
多数の就活生の姿をデータにして統計を取り、その平均を抜き出したらこうなるだろうなという、まさに「女子就活生」だった。着慣れていない新しいスーツ、ナチュラルメイク、挙動不審なチラチラ視線、ぎこちない笑顔。どこを切っても金太郎飴のように「就活生」と書いてある就活生だった。
「おかけください」
部長は彼女から手渡された履歴書を見ながら、促した。木下さんもそれに目を落としたから俺も一応見てみると、名前欄には「白沼アヤ乃」とあった。
大学はちょっとランク高め。性別は女。趣味は読書。特技は占い。資格は英検準二級と自動車普通免許。幹部クラスの知り合いの娘らしく、右下のほうに小さく木下さんの字で(縁故)と書き込まれている。採用が決定しているらしい。
「それでは、シロヌマさん」
部長が精一杯の笑顔で切り出した。
「シラヌマです」
部長の眉だけがぴく、と動いた。木下さんがそれを見て固まるのがわかった。まァ、履歴書にはちゃんと振り仮名があるんだが。
「はい、ではシラヌマさん。自己PRをしてもらえますか」
白沼アヤ乃はその意外に大きな口を開くと、語り始めた。口が妙に印象的で、彼女が話す間中、俺はピンク色の唇や時折のぞく太い舌やバラバラの歯並びを観察していた。
「私、白沼アヤ乃はアルバイトや周囲の人々とのコミュニケーションを通して距離の取り方が人間関係には重要なのだと思いました。例えば……」
「はい、はい、了解です」
部長が強制的に話を首から断ち切った。ズバ、ゴトリ。転がる生首は無表情。それで彼女の口は真一文字に閉じられてしまい、俺は少し残念だった。隣を見ると部長はもう面接を終えようとしていたので、俺は本日初めて試みに質問をしてみようと思った。
「何か、悩みなどはありますか」
木下さんも部長も何か言いたげに俺のほうを見た。俺は視線を合わさずに、白沼アヤ乃をじっと見ていた。正確に言うならその口元を。
「そうですね」
そう言って天井を見ながら、イスに深く座りなおした。赤く太い舌がのっそりと動く。それは、唐突な一言から始まった。
「あ、見ました」
白沼の目が大きくなる。何かに驚いた様子だった。
「こういうオフィスの一室で、スーツ姿で、男・男・女の面接官と対面しながら悩みを聞かれて話しましたよ。今、この瞬間です」
「どういうこと」
「だから、デジャヴですよ……」
彼女は真顔で、自分自身について、おそらく彼女の本当の言葉で語り始めた。
私、最近、記憶があやふやになるんです。例えば本を開いて読むとするじゃないですか。でも二、三行もしないうちに「あ、コレ読んだことある」って思っちゃうんです。それは……ええ、もちろん書店で平積みされてる新刊を見ても。そりゃあその本がとるにたらない盗作の模造品で設定だけ変えた換骨奪胎したようなものでも、初めの二、三行は少なくともカブらないと思うんですけどねえ。
それで、そういうのを既に見たような感覚・デジャヴって言うんですけど ――あ、ご存知でしたか。それなんじゃないかと思ったんですよ。それは本だけじゃなくて、場面とか人とかの条件が揃ってて、すごく限定されてるような「光景」でもよくあるんです。だから今の光景は「見ました」って言ったんです。
この道は、いつか来た道。なんて。
いや、多分よくある光景なんですよね。「オフィスの一室」「スーツ姿」「男・男・女の面接官」「悩み」って条件は。だから本当にどこかで見たことがあるのかもしれない。映画とか小説とか別の面接とかですね。もしくはこの手の基本的なことで言われるのが、一時的な記憶の混乱だって説ですよね。そうなのかもしれない。でもそうじゃないのかもしれない。
私ね、確かめてみたんですよ。本当にその状況を予知してたのかどうか。まず大事なのが、「その光景をどこで見たのか」ってことですよね。これは簡単です。
――夢で見たんです。
デジャヴが起こるたびに、私は「ああ、これ夢で見た」って思うんです。それも曖昧なことじゃなくて、これは何月何日に見た夢だってキチンと思い出せるんですよ。
だから思ったんですよ。朝見た夢をすぐに枕元の携帯にメモしておいたら、次にデジャヴを見たときに「ああ、自分はやっぱり予知夢を見てたんだ」って確信できるじゃないですか。客観的な証拠ですからね。
それで夢日記をつけることにしたんです。それで――ええと、この携帯の去年の一月一四日からですね。夢を逐一記録したんです。そしてデジャヴを見るたびに確認するんです。そうするとね、これが当たってるんですよ。私は予知夢を見てたってことなんですよ。だから私は早く旦那さんと結婚する夢を見ないかなって思ってるんですけどね。うふふ。あ、今の笑うところですよ。
さっきの瞬間だって、探せばあると思いますよ。確か八月三十一日に見た夢。書いた記憶がありますもん。目が覚めて、寝汗をびっしょりかいていて、生理が重くて気分が悪かった。それでも一生懸命ポチポチ書いたんです。
ええと。ああ、多分コレです。去年の八月三十一日に見た夢ですね――おかしいな。これは森林浴をする夢じゃないですか。さっきの光景と違う。また姉が書き換えたんですね。
最近よくあるんですよ。夢日記の書き換え。携帯をロックしてない私が悪いんですけどね。多分姉が勝手に書き換えてるんです。私の記憶があやふやなのを利用して。
あ、私には二歳上の姉がいるんですよ。今もこっちで一緒に住んでます。イタズラが好きで、昔からよく脅かされたもんです。うふふ。ひどいんですよ、あれは小学校の高学年、冬でした。
帰ってきて鍵を開けると、家の中が真っ暗なんです。それもそのはずで、両親は既にいなくなってましたし、姉が先に帰ってくることは珍しかったんです。だから家に帰ったときはいつも誰もいない。
日が落ちるのが早い冬は、困りものですね。家の中には段差やテーブルの下にベタ塗りしたような黒があって、そこに近づくと髪の毛が私の首に巻き付いてきて連れて行かれるんですよ……どこかに。
私が作った、そういう呪いなんです。
ビックビクしながら居間へと辿りつくと、私は電気を点けます。明るくなって、もう怖いものは何もない。光がそこかしこの黒を洗い流していく。私はカバンを下ろし、コタツに近づきました。そのとき、いきなり足首を掴まれたんです。
コタツの中から細くて白い腕が伸びてる。振りほどこうとしても、指がガッシリと掴んでいて、さらに腕全体で巻きついてこようとする。本体はコタツの中だから誰なのかわからない。心臓がキュウッと締め付けられて、息が出来ない。
……結局、姉だったわけですけど。
そんなイタズラが多くって、私は格好の獲物でした。怖がりでしたし、昔からちょっとこう、あんまり利口な子どもじゃあなかったので。いろんなことをすぐ信じちゃうんですよ。
だからなんですよ、「あれ」をあっさり見ちゃったのは。言い忘れてましたけど、私の実家は古い神社なんですよ。なんでもはるか古代からある古墳の上に建てられてて、そこから発掘された「もの」が御神体らしいんです。
ありがちな話ですけど、両親に絶対に見ちゃいけないって言われてました。ああ……ということはその時まで両親はいたってことですね。
あ、この光景見ました。またデジャヴですよ。
ほら、やっぱり携帯に書いてある。「六月二日の夢、両親はいた」って。だから両親はその時、いたんですよ。おかしいんですよね。記憶があやふやになることが多いもんですから、両親が「髪の毛の呪い」のせいでいなくなったことはわかるんですけど、それがいつなのかはわからないんです。姉に聞けば分かると思うんですけど。
その御神体は頑丈な桐の箱に入ってて、私たち家族は毎日それに向かって祈ってました。朝早くから正座して、眠ると叩かれたり髪の毛を引っ張られたりして、私と姉はそれが大嫌いでした。祝詞の意味はわからなかったんですけど、なんとなくそれがあまりいいものではないことは両親の様子からもわかりました。
あまりいいものではない。不浄。
つまり神社はその「もの」を封印するために建てられていて、私たちは周囲の人々から寄付こそもらっていましたが半ば生贄のような状態だったと思います。もちろん、ご年配の方の中には毎日拝んでいく人もいらっしゃいましたし、祭りの時にはいちおう社から出してたんですけどね。つまり、もうほとんどの人にとってはそれが「よくないもの」であるという認識が消えていたんですよね。ありふれた御神体の一つだと。
でも、見るなと言われたら見るのが人間ですよ。「パンドラの箱は見るなの禁」って言いますもんね。私は親に言われたとおり、素直に見てはいけないものなんだと思ってましたが、そこは例の姉の策略です。
ある日、姉が「あの箱の中を見たら死ぬほど笑った」って言ったんです。「怖いもののわけがない、だって実際にあたしが見て呪いなんて受けてないでしょ」と、こう言うわけですよ。なるほどそれならそうなんだろうと安直に私は見に行くことにしました。怖いものならともかく、面白いものなんですから。
親が寝静まった夜に、トイレに行くフリをして箱が置いてある場所へ。普段は鍵がかけてある部屋なんですけど、姉が先に外しておいてくれました。古めかしい木戸をそっと引き、電気を点けたらバレるので暗いまま部屋の奥へ入っていきます。
突然、光が後ろから射しました。姉が用意周到に懐中電灯を持ち出していて、部屋の中を照らしてくれたんです。道場のような板張りの床がぎしり――ぐしり。震えからか、平均台の上を歩くようにバランスが悪くなり、自分の影が踊っているように見えます。
ぎしり――ぐしり。
やっぱりやめようと思いましたが、姉に何を言われるかわかったもんじゃない。毎朝来ている場所のはずなのに、果てしなく長く感じました。
そして、箱があります。その周囲には結界――神社とかでよく白い紐で張られているものがありました。私はここまで来たのでためらわずに踏み入り、箱を開きました。
「何がある?」
姉が聞いてきたので、私は笑い出しました。そうなんです、姉は中を見ていなかったんですよ。私に見に行かせるために嘘をついたんです。
私は姉の嘘に気がついて笑ったんですけど、姉はてっきり私が箱の中を見て笑ってるものだと勘違いしたようで、興味津々でやってきました。私は姉から懐中電灯を受け取り、場所を譲って中を覗かせました。そこで私はチョッとした復讐心から、懐中電灯を消してみたんです。それから笑いながら暗闇で姉の身体を押しました……。
「それ」が何だったのかというと、鏡だったんです。多分、かなり古いもののはずですが、まだ反射して映っていました。確かに怖かったですし、箱の中を見たときには何かが動いた気がしました。そりゃそうです、鏡ですから、その中の自分が動いたんですよね。
不意を突かれた姉は、電気を点けると釣り上げた魚みたいに身体をビクビクさせていて、すぐに体勢を立て直して逃げていきました。背中を軽く押しただけなんですけどね。でもそれから姉は「それ」について何も言わなくなり、寄りつきもしなくなりました。
私は初めて姉に勝ったと思いました。それからは鏡のところへ行くことが多くなりました。もちろん見てはいけないものですから、夜毎にあの部屋の扉を開いて謁見を果すわけです。
でも鏡自体は特にどうということもありません。みんなが畏れているものは大したものじゃなかった。それを私だけが知っているんだというところが快感だったんです。そんな気持ちが私をハイにさせてたんだと思います。
そうして私はその鏡を見ながら成長していきました。母親の化粧道具を借りて、その鏡で来るべき日に備えて化粧の練習をしたり――来るべき日って。うふふ。そんな日々は結構長く続きまして、両親に何故見つからなかったのか今となっては不思議ですが、多分途中から両親は消えたんだと思います。
不思議なことに、その時期――小学校低学年くらいですかね――学校に行ってた記憶がないんですよね。日がな一日鏡を眺めてたような気がするんです。今で言うひきこもりってやつだったのかもしれません。
そんなある日のことでした。いつものように箱の中を覗いてみると、鏡がなくなってるんです。私はパニックになりました。あれは精神安定剤みたいなもので、それがないと私はうまく存在することができなくなっていました。
メガネケースの中にメガネがないような、自分が普段使っているものが、本来あるべき場所にないということが怖かった。朝起きて、自分の右腕が無くなってたら。そういう気分なんです。
私は姉の仕業だと思ってまず間違いないと踏みました。普段の生活で強い姉が、あの鏡に関してだけ弱かったんです。だからきっとその鏡を捨てたんだと。
姉の姿はなく、気がつけば私は家にひとりでした。私は外に出ました。日差しの強い日で、セミの声はジージーうるさいし、半固形物のような汗がドロドロ出てきます。自分の身体が刺激の強い世界に耐え切れず、蕩けて流れ出していくようでした。
それでも探し回っていると、何人かとすれ違いました。でもそれは化物じみていて、目が二つだったり耳が二つも顔の横にくっついていたりして、私は怖くてなかなか声をかけられませんでした。
しばらく外に出ていない間に世間は大きくねじくれていて、不条理な論理や超幾何学性が溢れていました。異世界に降り立ったような不安が脳を揺さぶり、冷や汗が足元から頭に流れていくようでした。
人々に勇気を出して鏡について聞いても、すぐに首を横に振るばかりで誰も知りません。私はフラフラしながら、姉を追っていました。
交差点の近くに、姉は立っていました。夏らしい白いワンピース姿で、手にはあの鏡を持っていました。
絶対に見てはいけないと言われているそれを、いとも簡単に人通りの多い場所で持っているんです。私に気付くと、彼女は葬式の時のように抑えた発音で言いました。
「あんた、この鏡でお化粧してたんだよね」
私は驚きながらも頷きました。姉にそんなことを知られているとは夢にも思っていなかったんです。
「家にある鏡は、これしか知らないよね」
何が言いたいのかわかりませんでした。そんなことは今更確認するまでもなく当たり前のことだったんです。
「よくわかった、だからなのか。あんた、この鏡見て、何も気付かないの」
私は改めて鏡を覗き込みましたが、そこにはいつも通りの私が映るばかりでした。私は姉の顔と自分の顔を何度も何度も交互にためつすがめつしました。こんなに姉の顔をまじまじと見るのはとてもとても久しぶりのような気がします。そして、姉の顔がグチャグチャに崩れていることに気がつきました。まるで化物です。
「そうじゃない」
それから姉に吐き捨てられるように言われて、やっと私は真実に気付いたんです。部屋の中にいたこと、通りを行く人の顔が化物じみていること、姉の顔が崩れていること、そのことからすると――。
「この鏡、歪んでんだ。あんたはそれに合わせて化粧してるから、あんたも歪んでんだよ。崩れてるのはあんたの方。化物は、あんたの方」
おかしいことなんですけど、また記憶がそこで途切れてるんですよ。その次の記憶では、私はその鏡を割り、ボサボサの髪を切ってるんです。ああ、思えばその時から私の記憶はあやふやになってるのかもしれませんね。最近だって言いましたけど、「最近の自分の記憶はあやふやだ」っていう記憶がどこかからつなぎ合わされて出来上がったのかもしれないです。
とにかく鏡、つまり御神体がなくて、箱だけになっても中を知らないから拝む人は拝むし、祭りの時にはやっぱり箱だけでも出される。みんなその中身なんかなくても前と全く変わらないのが不思議でした。
私、ちょっとそれで思いついたんです。何でもいいんなら、これでもいいんじゃないのって。そこで、切った髪を箱の中に一束入れておいたんです。もしかしたらみんなが拝んだ髪が、これでおかしなことになるかもって思いました。
そんなことをしてるといろんな大人が私の家にどかどか上がりこんできて、「お姉ちゃんをどうしたのかな」「交差点で、何があったのかな」って聞くんです。
今思うに、あれは殺したかどうかを疑ってたと思うんですよね。でも殺してるわけないじゃないですか。記憶の辻褄が合わないでしょう。だってその数年後、部屋に一人で帰ってコタツで姉に足首を掴まれるんですから。じゃあそれは誰なんだって話になるでしょう。今でも私と一緒に住んで、携帯にイタズラする人は誰なんだってことになるでしょう。
だからそのことを言い続けたら、分かってくれたんです。
あ、見えました。デジャヴ。
ちょっと待ってくださいね、何も言わないでください。私が予知してたのを読み上げて当てますから。「八月三十二度の夢、ウチの社員と知り合いなんですか、と聞かれた」。
これでしょう。お聞きになろうとしてたのは。そうなんですよ、知り合いです。御社の社長さんは元々私の神社によく参拝してくださってたんです。商売繁盛のご利益もありますからドンと来いって感じですか。
でも今時神社なんて人が来ないんですよ。しかもあんな寂れた場所は。古墳の上に建ってるって言っても、要はお墓じゃないですか、ねえ。死体の埋まった土の上で何を拝んだっていいことなんてありゃしませんよ。
それでも社長さんは父の代からよく来てくださって、私は大学を卒業するにあたって就職難で困ってましたら、御社を受けてみないかと誘われたんです。本当にありがたいことです。大変申し訳ないんですけど、拝んでるのは私の髪なんですけどね。うふふ。
あ、髪の毛の話は他言無用ですよ。中身を見ちゃいけない、見たら呪いがかかる、それを話しても呪いがかかる、とりあえず呪いがかかるってことにしてありますから。昔から言いますよね、女の髪には呪力が宿るって。
白沼アヤ乃はそこまで一気に「自分」というものを語ると、急に黙った。いつの間にか雨が降っているらしく、穏やかな波打ち際のような音がする。
サアアアアアアアア。
俺は彼女の言葉を反芻して考える。こいつが社長の知り合い。そんなわけがない。なぜなら、俺が社長だからだ。
そう考えて再び彼女を見ると、死んだようになっていた。目を半開きにして口をカコンと開き、涎が一筋、そこから――膝の上に落ちた。
サアアアアアアアアアア。
嫌な汗がブワッと腋を濡らした。見たくないのに、目が離せなかった。こいつが次にいつ動き出すのか考えると、微動だにできない。
沈黙がガスのように部屋中に広がって、息苦しい。横目で見ると、部長も木下さんも俺に懇願するような目つきだった。血走った目の部長が俺にそっと耳打ちした。
「社長、もう嫌です。あいつ、よく見ると女じゃないんですよ」
サアアアアアアアアアア。
さっきから雨音がすると思っていたが、窓を見ても濡れていなかった。外は夕暮れ時に差し掛かり、西日の強いこのビルの中を橙色に染めている。音はどこから。
「わかった、こりゃ俺の血の気が引く音だ」
俺は誰にも聞こえない声で一人ごちる。それから巻きねじの切れた人形のようになってしまった白沼アヤ乃を観察した。
大股開きでイスにもたれかかっているが、失礼してその股間を見ると、異様に膨らんでいた。明らかに男だった。あまつさえ今のこの状況で、はちきれんばかりだった。
肩幅が大きなことに気が付いた。
喉仏が出ていることに気が付いた。
ストッキングの下に大量のすね毛があることに気が付いた。
指の毛が激しいことに気が付いた。
気づいてしまった今となっては、それらを隠そうとさえしていなかったことに驚く。
嗚咽が聞こえると思ったら、部長が静かに泣き出していた。何故泣く。泣きたいのはこっちだ。
殺してやろうか。
殺してやろうか。
いや、俺は何を考えてる。
俺は木下さんに目配せして頷くと、沈黙を破った。
「あの~白沼さん」
「何ですか」
まるで殺気を感じたゴキブリのように反応が早かった。俺は鼓動よ静まれ静まれと言い聞かせながら、続けた。
「もう、面接は……」
「資格はですね、自動車のAT免許なんです。それと英検準二級です。お役に立ちますでしょうか」
正直、正直、もうどうにでもなれという気分だった。机に突っ伏している部長がうらやましかった。
「役に立つと思いますよ。車を使っている社員はたくさんいます」
「そうですか! アハ、嬉しいです!」
「それでは面接を終わります……」
白沼アヤ乃は礼儀正しく一礼すると、立ち上がった。
「はい。失礼します」
彼女が完全にドアを出てから、俺は木下さんと目を見合わせて脱力する。もう全身の感覚がなくなっていたのだ。部長はすでに意識がなくなっているらしい。
木下さんが携帯を見て、表情を曇らせた。着信が十数件。留守番電話を聞いている。俺も携帯を見ると、着信が同じくらいあった。
「…………」
彼女の顔が崩れはじめた。俺も留守録を聞いていると、針のような寒さが全身を通り抜けた。
「社長。大至急折り返し連絡をください。トイレで就活生の一人が死んでるんです」
「社長。遺体の身元確認ができたそうです。白沼アヤ乃さんです」
「社長。警察によると遺体は午前中にトイレの鏡に頭を異常な力でぶつけられて死んだらしいです。でもおかしいんです。履歴書が盗まれて、その顔写真だけ捨てられてるんですよ」
「社長……連絡を」
「社長……連絡を」
「社長さん……私、もう社長の知り合いじゃないですか。だから、内定をくださいよ。昨日二十三匹小蝿を殺しましたよね。卵も入れると三十二匹。ホラ、こんなに知り合いじゃないですか。じゃないと」
プツ、プツリ。
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