六〇三号室の女
『――同市リーヴストンホテル客室で、会社員加賀見仁志さん(三七)が遺体で発見されました。遺体には、頭部を集中的に殴打された跡や、全身数十箇所にわたる刺傷があり、県警は殺人事件とみて捜査を――』
うんざりだった。
頼むから、そんな物騒な事件は他所でやってくれと言いたかった。こっちは毎日毎日、くだらない得意先の連中に頭を下げて、神経をすり減らしているんだ。疲れきった心身を休めようと寝床に帰ってきたらこの有様だ。まったくもって勘弁願いたい。宿泊しているホテルの同じフロアで殺人事件が起こるなんて、ついてないにも程がある。
六〇三号室の前に群がる烏合の衆を横目に、俺は自室へと入った。
この地方には短期出張で何度も訪れているが、こんな酷い事件を耳にするのは初めてのことだ。まさか滞在するホテルで惨劇が行われようとは想像だにしない。
(来期からは別のホテルにするか……)
部屋の窓から寂れたネオン街を見下ろしながら、俺は嘆息を漏らした。
――実を言うと、俺は見ていた。
昨夜、午前二時を過ぎた頃だったろうか。六〇三号室から女が出て行くのを見てしまったのだ。
その女はタイトな黒のツーピースを着込み、けばけばしい派手な化粧をしていた。一見して水商売風の女だった。俺好みの美人でスタイルも抜群だったのでよく覚えている。すぐにその女を素っ裸にしてベッドに押し倒してやった。俺の頭の中でということだ。
死亡推定時刻など細かいことはわからないが、多分あの女が殺ったのだろう。そう考えると寒気を覚える。
おそらくはこの後、捜査員の連中がホテル中の部屋を聞き込みにまわるのだろうが、俺は女のことを話すつもりはなかった。率直に言えば面倒だからだ。ようやく仕事から解放されて得た貴重な時間を無駄にはしたくない。俺はそれほど善人じゃあないんだ。俺が協力しなくとも、いずれ犯人は捕まるだろうさ。
スーツの上着とネクタイをベッドに放り投げ、くたびれた合皮のソファーに身を沈めた。テーブルの上に置かれた安ウイスキーの瓶を眺めながら、あの女のことを考える。
(いい女だった。あれほどの美人が人殺しとはね……)
女の肉感的なシルエットが目に焼きついていた。その艶かしい魅惑の曲線を思い浮かべると、俺は激しい欲情にかられた。
(そういえば最近ご無沙汰だな。久しぶりに呼ぶか)
短期出張の唯一の楽しみといえば、女を買うことくらいだ。この地方に滞在する時は、毎度世話になっているお気に入りの店がある。今や俺はそこの常連客だった。女房との夜の営みがなくなってからというもの、俺の性の捌け口はほとんどが娼婦だった。
(疲れは溜まっているが……あっちのほうは問題ないだろう)
ソファーの上でうとうとしながらも、沸きたつ血液が一点に集中するのがわかった。
呼び鈴の音で、まどろみから引き戻された。
あれから少しの間うたた寝をしたらしい。俺はソファーから身を起こし、伸びをしながらドアに向かった。これから抱く女をお目にかかる瞬間ほど興奮する時はない。俺は胸を躍らせてドアを開けた。
昨夜の女が立っていた。
「う……あ……」
昨夜と同じ黒一色の格好だ。派手にメイクアップされた女の顔を凝視したまま、俺は全身を硬直させた。
「来てあげたわよ」
妖艶な笑みを浮かべて女が言った。どことなく爬虫類を思わせる目つきだった。
「すまん、チェンジ――」
言うがいなや、俺は女に突き飛ばされて尻餅をついてしまった。女は素早く部屋の中に入り込み、後ろ手でドアの鍵を閉める。俺は尻を擦りつけながら後じさりし、蚊の鳴くような悲鳴を上げた。
(なんだこれは……俺は殺人鬼を呼んだ覚えなんかないぞ。美人なら殺人鬼でもいいなんてことは断じてない。夢なら早いとこ醒めてくれ)
女は腕組みをし、獲物を見つけた食虫花のような顔で俺を見下ろしていた。どう見ても人殺しの顔だ。
「待て。ちょっと待ってくれ」
制するように片手を前に出し、俺はゆっくりと立ち上がった。その間、急速に思考を回転させる。
(刺激するのはまずい……当たり障りのない会話で時間を稼ぎながら逃げ道を作る……そうだ、先にシャワーを……)
「どうしたのよ? 情けない顔して」
女が嘗め回すように俺を見た。
「ど、どうもしないさ」
精一杯の笑顔を作って答えたつもりだったが、きっと上手くいかなかっただろう。
女が部屋の奥を顎で示した。部屋の奥に戻れという指示に違いない。下手に逆らうのは危険と判断した俺は、女に背を向けることなく慎重に移動した。
女はリラックスした様子でソファーに腰を下ろし、見せつけるようにして脚を組んだ。見事な美脚だった。
俺はベッドの足元側、窓を背にする位置に立ったまま女と対峙した。
「あたしが来るとは思わなかったでしょ?」
「いやあ……あんまり美人だったから驚いてしまってね」
「なにその歯の浮くような台詞」
それまで幾分にこやかな表情をしていた女の顔が一瞬で鉄仮面に変貌した。
背筋が凍りついた。身の危険を察知した俺は、不穏な空気をなごませようとすかさず口を開く。
「うん、綺麗な子だ。どうだろう、さっそくシャワーでも浴びて――」
「なに言ってんのよ」
「浴びませんよね、ええ。あんなものは小汚い人間が浴びてりゃいいんです……」
女は頬杖をついて俺を見上げている。前のめりになっているため、大きく開いた胸元から豊かな谷間を覗かせていた。
「頭おかしいんじゃない?」
汚物を見る目で女が言った。
理不尽極まりないとはこのことだ。どうして俺が殺人鬼のご機嫌取りをしなければならんのだ。女の胸元を凝視しながらも俺は憤りを禁じ得なかった。
(一戦交えるか? 所詮相手は女だ……いや待て、凶器を隠し持っているに違いない。うかつに動くのはやはり危険だ……そうだ、酒だ。酔わせてしまえば必ず隙が生まれる……)
「そうそう、極上のスコッチが――」
「ちょっとそこ座んなさいよ加賀見さん」
「ええ、もちろん座……え?」
(カガミさん……? カガミ……カガミ……)
「昨日のこと覚えてないの?」
(加賀見仁志……俺の名前じゃないか。……何故だ? 呼ばれて初めて思い出した気がする。おかしい……何かがおかしい……)
「昨日あたしに殺されたじゃない」
そう言って、女は脚を組み替えた。
「……殺された? 俺が?」
「加賀見さんの頭叩き割って、脳みそが飛び散るくらい殴り続けたから、記憶が飛んじゃったのかしら?」
女はくすくすと笑い声を漏らした。とろんとした目を細めて俺を見ている。
「……和果奈?」
そうだ、この女は和果奈だ。俺がいつも指名している娼婦じゃないか。どうして今まで気がつかなかったのか不思議でならない。俺の頭は寝起き直後のようにぼんやりとしていた。
(殺されたのか俺は……そういえば昨夜は和果奈と一緒だったな……)
さっきまでの恐怖心と緊張感が嘘のように消滅していた。俺はソファーのところまでよろよろと歩き、和果奈の向かいに腰を下ろした。
「……どうして俺を殺した?」
和果奈はかっと目を見開いた。
「認知しなかったからに決まってるでしょ」
(ああ……ガキができたって喚いてたな、そういえば……)
「なに? なんか文句でもあんの加賀見さん」
「いや……ない」
死んだという実感がまったく湧いてこなかった。悔恨の情にかられることも、和果奈への憎しみがこみ上げることもなかった。死んでしまったものは仕方がない。
「ところで……和果奈はどうして死人の俺と話せるんだ?」
「あたしも死んでるからよ」和果奈は身体を仰け反らせ、勝ち誇るような顔で言った。「加賀見さんを殺してから後を追ったのよ。ねえ、ユウタ?」
不意に背後から赤ん坊の泣き声が聞こえた。
振り返ると、ベッドの上に赤ん坊が寝ていた。ずっとそこに居たような気もするし、突然現れたような気もする。
和果奈は立ち上がってベッドのところへ行き、赤ん坊を抱え上げた。和果奈があやすと赤ん坊はすぐに泣き止んだ。
「ユウタっていうの。可愛いでしょほら」
俺はユウタの顔を覗き込んでみたが、特に感慨が湧くこともなかった。目元が俺にそっくりな気がしないでもない。
「よかったねえ、ユウタ。これからは親子三人水入らずで暮らしていけるのよ」
和果奈は、慈愛に満ちた優しい眼差しをユウタに向けていた。
今までに一度も見たことがない、幸せそうな顔だった。
(ふむ。この六〇三号室が新居になるというわけだな……)
うんざりだった。
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