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連絡待ってます

作者:宵野遑
 僕は今とても機嫌がよい。
 頬が緩みそうになるのを堪えながら改札を抜けた。前を行く人の群れが夕暮の路地へと散っていく。それに続いて僕も駅を出た。
 ――自宅までもうすぐだ。
 手に持った紙袋が大きく揺れて、僕は自分がスキップをしそうなほど浮かれていることに気付いた。上機嫌の理由はこの紙袋の中にある。
「本当にこの値段でいいんですか?」
 大学の帰りに立ち寄った古着屋で、僕は思わず店員にこう訊いた。その声には嬉しさがたっぷり滲み出ていたと思う。
 僕が見つけたその服は、前から欲しいと思っていたブランド品の革ジャケットだった。
「発売から数年も経てばこのくらい値が下がるものなんですよ」
 店員の言葉を聞き終える前に、僕は買いますと言って財布を取り出していた。
 試着をしていないと気付いたのは電車に乗ってからだった。サイズは確認したから問題ないだろうが、果たして自分に似合うのか……。
 ――はやく着てみたい。
 僕はいつもより軽い足取りで家路をたどった。
 帰宅すると玄関にまで夕飯の匂いが漂っていた。この匂いはカレーだ。
「ただいま」
 キッチンを覗くと、鍋をかき混ぜていた母がおかえりなさいと言った。
「もうすぐ夕飯できるわよ」
 母の声はどこか物憂げだ。
 数か月前、父が単身赴任を始めたときからこうだった。
 ここ最近はさらに元気がない。母に直接その理由を訊いてはいないが、おそらくテレビのドラマが原因だと僕は思っている。以前母と一緒に観ていたドラマの中で、単身赴任中の男が浮気をしたのだ。その時は食卓に気まずい空気が立ち込めた。
 しかし息子である僕から見て、父は断じて浮気をするような人ではない。母の杞憂に決まっている。
「カレー、おいしそうだね」
 母を元気づけるようにつとめて明るく言ってから、キッチンを後にした。
 自室に入るなり僕は着ていた上着を脱ぎ、紙袋からジャケットを取り出した。さっそく袖を通し、嬉々として姿見の前に立つ。鏡に映った自分を見て思わず笑みがこぼれた。
 ――なかなか似合ってるじゃないか。
 僕は得意気になり、気取ったポーズをとろうとポケットに手を入れた。
 その時、指先に何かが触れた。取り出すとそれはくしゃくしゃに丸まった紙切れだった。
 このジャケットの前の持ち主のものだろう。
 僕はその紙切れをひろげてみた。
 そこにはピンク色のインクで十一桁の数字の羅列と、『また会いたいわ。連絡待ってます』という可愛らしい文字が書かれていた。最後にはハートマークまでついている。おそらくこの数字は電話番号で、女が男にあてて書いたものらしい。
 たちまち興味がわいたが、しかしこれは捨てるべきだと考え、僕は紙を破こうとした。
 が、手が止まった。どうもこの電話番号に見覚えがあるのだ。
 ――友人の誰かかもしれない。……さては男たらしのあいつではないか。たしか年上が好きで、おじさまキラーなんてあだ名がついてたっけ。あいつの番号の気がしてきたぞ。
 ふと、いたずら心が芽生えた。
 ――電話をかけてからかってやろう。
 僕は携帯電話を手に取り、そこで気付いた。
 携帯に登録してある番号を調べれば相手がすぐに分かるのだ。
 ――しかし、それではちっとも面白味がないな。
 そう思った僕はあえて電話帳機能を使わないことにした。さらには携帯から電話をかけるのもやめにした。もし互いに番号を登録していた場合、相手の電話に僕の名が表示されてしまい、いたずらにならないからだ。
 となれば家の固定電話である。
 リビングに入ると、キッチンでは母がまだ鍋に向かっているのが見えた。僕はジャケットから紙切れを取り出し、間違えないよう慎重に番号を押した。
「できたわよ」
 カレーがいつの間にか盛られた皿を両手に持って、母がこちらへ向き直った。
 母は僕を見て目を丸くした。
「そのジャケット……」
 母のエプロンのポケットから軽やかな着信音が鳴った。


(了)

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