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Machina

作者: takasho

 暗闇は延々と続いていた。

 下へ下へと伸びる螺旋階段はその果てが見えず、たちの悪い抽象絵画のようだったが、阿鼻叫喚の渦巻くこの場所はまぎれもなく現実世界だった。

 数え切れないほどの人々が我先にと階段を駆け下りていくものの、その鉄製の手すりはほぼすべて壊れてしまっているがために、中央の暗い闇に落ちていく運の悪い人間があとを絶たない。

 階段は狭く、せいぜい二人が通るのがやっとのところを無数の人間がひしめき合い、ある者は他者を押しのけてでも前へ進み、またある者は銃を抜いて殺し合いを始めた。

 まさに生き地獄。

 どこにも救いはなく、あるのは絶望ばかり。尊いはずの命があまりにもあっけなく失われ、暗い闇の底へと消えていく。

 青い目のジェイルと赤い爪のヤリナの二人は、そんな中を下へ向かって急いでいた。

 二人ともに戦闘用の強化服を着込み、手にはすでにカスタマイズされたレーザー・タイプの銃がしっかと握られている。

「ヤリナ、大丈夫か?」

「うん」

 鳶色の髪がすでに煤やほこりで汚れてしまっているヤリナを、灰色の髪をしたジェイルがさりげなく気遣った。

「それよりジェイル、前」

 静かに言われてその方向を見やる。

 暗がりの中でも光学探知機能のついた目が自動で光量を補正し、正確な視界を得る。

 それにより、状況をはっきりと確認できた。

 前方では、複数の男たちが激しい戦闘をくり返していたが、原因はよくわからない。

 ――仕方がない、やるか。

 ジェイルは迷わず決断した。

 最も手前にいた男の人工脳部分に無線で強制介入し、記憶(メモリ)をあさってみる。

『さっさと行け、オラァ!』

『行きたくても行けねえんだよ、ばか野郎ッ!』

 くだらない、という言葉が思わずもれそうになる。

 きっかけはひどく些細なことだったが、それが凄絶な殺し合いにまで発展してしまうとは。

 人類の殺人のきっかけは、太古の昔より大半が似たようなものだと言われているが、それが自分たち人間という種族の限界なのだろうか。

 あまりにもくだらなく、情けない。

 あんなことに、今この状況下で巻き込まれるわけにはいかなかった。

「跳ぶぞ」

「うん」

 ヤリナに呼びかけ、強化服のモードをノーマルからアドバンストへ強制移行する。

 二人は同時に両の足にありったけの力を込め、頭上にある階段に触れそうになるほど跳び上がると、愚かな戦いをつづける男たちの上をあっさりと通り越していった。

 その着地はおそろしくゆるやかで、ほとんど音もなく通路の先のところへ下り立った。

「ジェイル」

 上空から広域の情報を入手したヤリナがいつもの無表情な顔を向けてきた。

 付き合いが長いからこそわかる、その目には危惧するような色があった。

<!--more-->

「余計なことに首を突っ込むな」

 ため息をつきつつ、即座に彼女が考えているであろうことをはっきりと否定した。

 あの戦い続ける愚かな男たちのせいで、力のない者たちは前へ進めなくなってしまっていた。そこへさらに後から後から人が押し寄せることで、通路からはみ出した者たちが下へ落ちていくといったことがつづいている。

 ジェイルにも助けてやりたいという気持ちがないわけでもなかったが、もはや時間は残されていなかった。

 それに――

 人を救うために人を殺すというのは矛盾ではないか。

 この世界では、恩情が(あだ)となりすぎた。

 だが、ヤリナは小さく、しかしはっきりとその(かぶり)を振った。

「そうじゃない、上」

 ジェイルがはっとして見上げたときにはもう、センサーも確かに感知していた――巨大な物体の接近を。

 距離は二〇〇〇、一五〇〇、一〇〇〇、そして対象を視認した。

「あれは……そうか」

 見覚えのあるシルエットに、右の拳を握りしめながら歯噛みした。

蜘蛛(スパイダー)〟。

 それが、あの多脚型に付けられた名だ。

 かつて存在した〝世界を統べる七企業〟のひとつ、マイドル社が製造した八足の機体は元来、荒れ果てた大地の再生のために造られたものであり、廃棄物の浄化と植林が主な目的だった。

 それが今では人類を狩っている(・・・・・・・・)ということは、巨大並列化ネットワーク〝旧神(オールド・ワン)〟が人間そのものを自然環境との共存には不適格と判断したことを、他の何よりも明確に示していた。

 以来、蜘蛛は人々にとっての悪魔となり果て、環境維持システムからすれば人類はもはや産業廃棄物の一種でしかなかった。

 話し合いのできる相手でもなければ、逃げ切れる相手でもない。

 正面から戦うことを決断しなければならなかった、周囲の人々をひとりでも多く救うためにも。

「ヤリナ、サポートを」

「ジェイル、無理をしないという約束は?」

「わかってる、無理はしない」

「だったら、行って」

 あっさりそう言い放つと同時に、ヤリナがすぐさま対象に向けて発砲した。

 両手に構えた大口径の二連式光学銃〝シオン〟が、音もなく光線を吐き出すと、それは狙いあやまたず蜘蛛の両目――全方位赤外線センサーを破壊した。

 痛みでも感じているかのように蜘蛛が生物のごとく暴れ回るのは、まさに痛覚と似た機構を制御系の内部に有しているためだ。

 機械どもはそれによって各種状況への柔軟な対応ができるようになり、痛みを知るからこそ自己防衛のシステムが洗練された。

 しかし、それゆえに有事の際の判断力に鈍化の傾向が出てしまった。

 ――それが技術の限界だったんだ。

 無意味にうごめく蜘蛛をしり目に、ジェイルは相手の腹部のほうへ向かった。

 頭で念じるだけで、左手の甲の部分に仕込まれたツール・キットが開き、その中にある鉤爪が五〇㎝ほども伸びた。

 ジェイルは鉄骨の足場を強く踏みしめ、もう一度蜘蛛に向かって勢いをつけた。

 下に向けてさらけ出している蜘蛛の土手っ腹に鉤爪を突き出すと、それはものの見事に喰い込んで相手を放さない。

 蜘蛛がさらに暴れる前に、右手の銃を対象に突きつけ、そのトリガーを迷うことなく引いた。無数の粒子が銃身内の超極小加速器によって高速の六七%にまで高められ、それらが一気に銃口から放出された。

 こちらの体も大きな反動を受けて左手の鉤爪が外れたが、蜘蛛のほうはその程度ではすまなかった。

 体の中枢部を粗い粒子があっさりと突き抜けていくと、もはや蜘蛛はその巨体の重量を支えることができずに自重で崩れ落ちていく。

「ジェイル」

「ちっ」

 自身の攻撃が片手落ちだったことを悟ったジェイルは、われ知らず舌打ちをしていた。

 蜘蛛の崩れたはずのパーツがそれぞれ小型の蜘蛛に変形し、周囲に問答無用に降り注いでいく。

 これこそが、第三期型スパイダーの第二の攻撃だった。

 支えを失って空中を下へ落ちていくジェイルはもう一度銃を放ち、その反動で落下の方向を変えて、その後もまとわりついてくる子蜘蛛をすべて撃ち落とす。

 だが視界の片隅で、蜘蛛の変形しきれなかった脚の一本が、階段の上へと落ちていくのが見えた。

 ――あれは、もうどうしようもない。

 卑怯とは思いつつ、これから確実に起こるであろう光景から目を背けるしかなかった。

 元から、人のことを気にしている余裕はない。

 今度は撃ち抜いた子蜘蛛の破片が、それぞれが生きているかのように動き回り始め、細すぎてほとんど視認できない糸を周囲に激しくまき散らしている。

 第三期型の中でもDスタイルのものだった。蜘蛛の機体はナノマシンの群体として存在しているから、大きな部分を破壊したとしてもより小さな部分となって活動し続ける。

 ジェイルは無駄な攻撃をやめ、逃げに徹することにした。真下にあった鉄骨を蹴り、ヤリナの待つ元の位置へと瞬時のうちに戻った。

「しまった……!」

 だがその際、右腕がナノマシンの粒子に触れてしまった。

 慌ててその部分を分離(パージ)したときにはもう、ごとりと足場に落ちたそれは勝手に動き出していた。それを忌まわしげに中央の穴へと蹴落としてやってから、ジェイルはヤリナのほうに向き直った。

「どうするか……」

「コアを」

 ヤリナの答えはいつも極めて簡潔だった。

 あのスパイダーはDスタイルの中でも最も古いもので、全体を中央で制御するための核が存在しているから、そこを叩けばすべてが一気に瓦解するはずだった。

「位置は?」

「今調べてる」

 ヤリナの目の色が、ブラウンからレッドへと変じていく。

 ナノマシンへの通信は電磁波で行われているため、それをひとつひとつ逆にたどっていけば、理論上はいつかかならず(コア)へと到達できる。

「――見つけた。相対位置、X二二〇、Y三二三、Z五七」

「あんなところに……」

 視覚センサーをフル稼働して示された位置を見極めると、そこには蜘蛛のちっぽけな破片のひとつがあるだけだった。

 木を隠すには森の中、小型化されたコア・ユニットはほとんどどこにでも配置できるとはいえ、さすがにあそこが核だとは誰も思わないだろう。

 ジェイルはすぐさま腰の道具入れから二㎝角の小さなキューブを取り出すと、それを目標に向かって投げつけて左手に握った銃で迷わず撃った。

 初めは小規模だった爆発が連鎖的に広がり、あたり一帯を青い輝きが照らし出す。

 あのキューブは周囲の粒子に働きかけ、連続してプラズマを発生させる高威力の小型爆弾だ。その最初のきっかけは外部から与えなければならないのが難点だが、人が携帯できる爆弾としては最高クラスの威力を秘めていた。

「反応が消えた、もう大丈夫」

 ヤリナがそう言うのと同時に、それまで不気味に動き回っていた子蜘蛛の群れが、まさしく糸が切れたように下へと落ちていく。自律運動回路が組み込まれていないナノマシンは、もはや微少な鉄くずでしかなかった。

「ふぅ」

 これでやっと一息つくことができた。右腕は犠牲になったが、二人だけで戦ってスパイダーの第三期型を倒せたのなら上々だ。

「――――」

 しかし、周りは惨憺たる状況だった。子蜘蛛に分離しなかった脚部が人々を押しつぶし、ナノマシンに侵入された者はその部分が活動を停止してしまい、無力に倒れ伏している。遠くのほうからは、泣き叫ぶ女性や子供の声も聞こえていた。

「……仕方がなかった、やれるだけのことはやったが」

「わかってる」

 たった一言であっても、そこに込められたヤリナの慰めの気持ちは素直にうれしかった。

 とはいえ、立ち止まっている余裕があるはずもなく、これまでよりいっそう先を急がなければすべては無意味になってしまう。

 先を急ごうとするジェイルの背に意外な声がかけられたのは、左腕の展開していたパーツをしまって一歩を踏み出したときだった。

「あの」

 驚いて振り返ると、手に旧式の人工素体の右腕部分を持ったひとりの少女が立っていた。

「これを使ってください」

「……お前たちを助けたつもりはない。変な気遣いは無用だ」

「それでも、あなたが戦ってくれたおかげで私たちは助かりました」

 そう言われてもなお逡巡するジェイルのかわりに、ヤリナが礼も言わずにそれを受け取り、頸椎にあるコネクタからコードを伸ばして有線でその素体につないだ。

「問題ない、汚染されてはいない」

 ひとつうなずいたヤリナからそれを片手で受け取り、ため息をつきながらジェイルは右腕の肩口に取り付けてみた。

 一応は動いてくれた。やや感覚と実際の動作とのずれが気になるが、そのうち制御機構が自動で調整してくれるだろう。

「とりあえず感謝しておく。だが、次は期待しないでくれ」

 少女がうなずくのを見届けて、二人は再び下へ向かって走り出した。

 今の一連のことでかなりの時間をロスしていたが、この地下抗には種々の〝守護者(ガーディアン)〟がいることはあらかじめわかっていた。ある程度のことは折り込みずみだった。

 しかし、思ったよりも想定外のことが多い。

 人の数もそのひとつだ。周辺地域からいっせいにここへ集まってきたらしく、通路が人であふれすぎて誰もが思うように前へ進めないでいる。

 そんな状況下でなぜか、そこここにいくつもの人だかりができていた。進行方向に見えるのもそのひとつで、一カ所に女性や子供が亡者のごとく群がっていた。

「あれは……」

「〝天球(スフィア)〟への接続端末」

 眉をひそめるジェイルに、ヤリナが確信のこもった声で答えた。

 スフィア――それは八〇〇年前から延々と構築されてきた宇宙規模のバーチャル・ネットワークである。五〇〇年ほど前から自律化し始め、今ではもう人間の手に負える代物ではなくなっていた。

 そんな中生まれたのが、巨大並列化ネットワークによる擬似的な意志を持つようになった〝旧神(オールド・ワン)〟であった。

 スフィアへの人間によるアクセスはそのオールド・ワンが完全に遮断し、人類の大半は正常なアクセス権のほとんどを失ったはずなのだが、それでもなお女たちは端末へ群がっている。

 ジェイルが止める間もなく、ヤリナがすぐさま彼女たちのところに駆け寄っていった。

「よせ、普通にやってはアクセスできない。下へ向かったほうが確実だ」

「放してよッ! 私たちは〝楽園〟へ行くのよッ!」

 ひとりのまだ若い女が、両腕を振って暴れながら震える声でわめき散らした。

 彼女が口にした楽園とは、かつて人間によってスフィアに構築された世界であり、そこではすべてのものが満ち足りて、過不足のない状態が保たれていた。

 だが、それこそが仇となった。

 あまりに安定した場ではなんら変化が起こらず、そこにいる人々はまさに停滞した。毎日が完全に同じことのくり返しとなり果てたその状態は、機械になること、人間としての終わり、すなわち実質的な死を意味していた。

 そもそも人間の精神がスフィアという名のバーチャル空間へと入り込めるようになったのは、元々コンピュータと呼ばれた単純なスイッチのONとOFFしか理解できない機械が、たったひとつの追加要素を処理できるようになったためであった。

 それは0でも1でもない中間の存在――虚数iである。

 単純ではあるが根本的な変化は、スフィアも、現実世界も、そして人間自身をも急速に変えていった。

 演算機と呼ばれたただの機械はあらゆる情報を扱えるようになって珪素生物(マキーナ)と化し、スフィアはどんな存在をもその内に取り込んでいった。

 人間でさえ例外ではなく、0と1の二元論では不可能だった意識の置き換えも珪素生物の登場であっさりと可能となった。

 だから、追いつめられた女たちはスフィアへの逃走を試みている、楽園への回帰を夢想して。

「スフィアはもう人間の住めるところじゃない。理解してくれ」

「ヤリナ……」

 ジェイルが彼女の細い肩にそっと手を置いて、首を横に振った。足下に無数の死体が転がっていることからして、おそらくは無理にアクセスしようとしたものの、〝門番(ゲートキーパー)〟に意識と肉体の糸を焼き切られたのだろう。

 恐怖に狂った者たちにかけるべき言葉は、もはやなにもなかった。次々と悲鳴さえ上げずにくず折れていく女たちをしり目に、ジェイルとヤリナは失望を抱えたまま先へ進んだ。

 周囲の照明が突然落ちたのは、その接続端末から二〇mほど離れたときのことだった。

「なんだ?」

 センサーの光量補正を最大にしても非常灯のオレンジの光さえ見えず、周囲を完全な闇が支配していた。

 そこへ、突然甲高いアラーム音が鳴り響いたかと思うと、今度は階段が螺旋状に渦巻く地下抗の上方からいくつかの白い光が降ってきた。

 それは、巨大な球状の機体だった。全方向を照らし出せるように六つの照明装置を等間隔に備え付け、しきりに不規則に回転している。

「〝監視者(ウォッチドッグ)〟か……」

 施設の維持・管理ではなく、天球への外部からのアクセスをひとつもらさず徹底して監視し、不正を発見した場合にはその原因を物理的に排除することが、あれに与えられた使命であった。

《スフィアへの非認証アクセスを確認。正当なアクセス権の提示を十五秒以内にお願いします》

 監視者が、この場にはひどく不似合いなきれいな女性の声で警告を発した。

「ヤリナ」

「うん」

 ジェイルに促され、監視者に対してアクセス権の入ったインフォ・タグを提示してみた。

 だが、相手からの反応はまったくなかった。

「――弾かれた」

「新しい防御システムか」

 ヤリナの持つアクセス権は、以前遭遇したマキーナを解析してつくった偽造のものだ。それが受け入れられなかったということは、最近になってアクセスを管理するシステムが改められたということを意味していた。

《制限時間内に正当なアクセス権の提示がありませんでした。不正アクセスと判断します。強制排除モード、オープン》

 ばか丁寧な通告とともに監視者の球体が真っ二つに割れ、そこからいくつもの銃器が現れて狙いを接続端末部分に合わせた。

 ジェイルはすぐさま左足につけておいた小型の突撃銃(アサルト・ライフル)を抜き、その銃口部分を取り替えると同時に弾倉も付け替え、間断なくトリガーを引いた。

 放たれた弾丸は途中で無数の破片に散り、それが監視者を覆っていくと、次の瞬間、そのひとつひとつが青白い光線でつながれた。

 この電磁波でつくられた強固な檻によって、監視者の動きはとりあえず封じることはできたはずだ。

 このボールは、他のそれらと有機的に連携しているため、うっかり攻撃でもしてしまうと、一気に別の監視者も集まってきてしまう。こうして捕らえておくのが最善だった。

 だが――

「駄目、ジェイル」

「なに?」

 ジェイルの問いに答える前に、ヤリナはすでに自身の銃を構えていた。

「来る」

 その言葉どおり、檻に捕らえたはずのボールが警報を鳴らし始め、それから五秒もたたないうちに上方に新たな輝きが現れた。

 ヤリナは迷わず、すぐさまトリガーを引いた。無反動銃〝シオン〟が光を吐き、まずは檻の中のボールを確実に破壊する。

 その直後、上から無数のミサイルが降ってきたかと思うと、それらは問答無用で端末付近のエリアを破壊し、残ったいくつかがこちらに向かってきた。

 狙いは他でもない、ヤリナだ。偽造タグでの認証が失敗したせいで、周囲の女と同じく不正アクセスを行った存在とみなされてしまった。

 シオンから放たれる光条が、ひとつひとつのミサイルを正確に射抜いていくが、それでも二発を撃ち残し、それらがすさまじい勢いを落とさず飛び来たった。

 だが、二つの悪意は荷電粒子の帯に貫かれ、目標に到達する前に爆発した。

「ジェイル」

「逃げるぞ。すべてを相手にはできない」

 視認できる光の数からして、想像を絶するほどの数の監視者と、その制御下にある機械(マキーナ)がこちらに向かっているはずだ。それらと正面からまともに戦っていたら、こちらの体力がまず持たない。

 二人は暗がりの中、人々が手にもつ灯りが点々と続いている階段を駆け下りていった。目の光感度を最大限に上げ、人でひしめく階段のわずかな隙間を通り抜ける。

 だが、監視者たちのスピードは圧倒的だった。十秒もたたないうちに無数の機体が迫りきて、無慈悲に弾丸を放った。

 身体に組み込まれた制御機構が、その軌跡を瞬時に予測して体をオートで反応させ、ジェイルとヤリナの二人は向かってきた凶弾のすべてをよけきった――が、それは無情にも新たな被害を引き起こしてしまった。

「!」

 周りの無関係だった人々が、次々と倒れていく。戦闘能力のない無力な存在は、戦いの場においてあまりにか弱かった。

 だが、監視者たちにとって人間とはモノの一種でしかないから、微塵も容赦することはない。

 あちらこちらから悲痛なまでの叫びが上がり続け、自分たちが動けば周りを巻き込んでしまうことがわかっていてもなお立ち止まれなかった、立ち止まるわけにはいかなかった。

 生きたい。

 その思いは、自分たちもまったく同じだったから。

 状況を見て、振り返りつつ散発的に反撃をくり返すものの、一機倒し、二機倒し、三機倒しても、その分すぐに増援がやってきて、きりがない。

 以前から素体に問題を抱え、もう息が上がり始めたジェイルの腹部を、ついに一条のレーザーが貫いていった。

 だが、それはあのボールが放ったものではなかった。

「――――」

 前方で、複数の男たちが銃を構えてこちらを鋭く睨み、その周りにはひどく不安げな目をした子供たちがいた。

 他の者も、監視者の狙いがこの場にいるすべての人間ではなく、あくまでこちらだと気づいたのだ。

 自分に被害が及ぶ前に行動する、()られる前に殺る。

 それが、この世界で生き残るための当然の掟であった。

「――――」

 だから、ジェイルも迷わず反撃した。

 男の右腕を撃ち抜き、衝撃波で周囲の人間を弾き飛ばすことで自分たちの逃げ道を確保する。女たちの非難の声も子供たちの悲鳴も、今は聞こえなかった、聞こえない振りをした。

「あっ」

 白い閃光が横を通り過ぎていくのを感じると同時に、ヤリナの普段はあまり耳にしない声色の声が聞こえた。

 見れば、左足の先に穴が空き、彼女の真後ろには震える手で銃を構える少女の姿が見えた。

 ――そうか。

 それは、レーザー・タイプの銃だった。無反動だから力のない者でも扱える、女性や子供には打ってつけの武器だった。

「…………」

 ジェイルは反撃をせず、倒れ込んだヤリナを抱え上げてもう一度跳んだ。背中にいくつかの銃弾を叩き込まれるが、この際かまいやしなかった。

 次は右足、右肩、頬と弾丸やレーザーがかすめていく。急所に当たらないのはほとんど奇跡的だった。

 やがて右目の視界が失われたのは、人工素体の制御システムが省電力モードに入ったことで、必要最小限の機能しか働かなくなったためだ。

 そんな中、前方の壁面の一部が崩れているのをたまたま見つけ出した。

 ――あそこなら。

 そのわずかな隙間、鉄骨と鉄骨の間に入り込み、ひたすらに走った。

 建設時に利用された通路らしく、足場は不安定極まりないが、人が通るには十分な強度があった。

 右へ曲がり、左に折れ、足を止めずに前へ前へと進んでいく。

 それでも背後から発砲音が聞こえてくるが、それは確実に遠ざかっていた。

「ジェイル」

「なんだ」

「センサーから反応が消えた。もう、こちらを狙ってない」

 ヤリナに言われてやっとジェイルは足を止め、それでもなんとなく後ろを確認してからそっと彼女を下へ横たえた。

「どうだ?」

 ヤリナの左足は想像以上にひどい怪我を負っていた。表面の人工皮膚はもちろん、内部の機構がめちゃくちゃに壊れてしまっている。

 当のヤリナは目をつむって静かにしていることからして、自己修復機能を働かせているようだった。

「――だめ、中央の機構が破壊されてる」

「このまま行くしかないな」

 代替になりそうなものはこの周囲になく、手持ちの道具でも修理は難しいようだった。

 近くに落ちていた鉄骨の切れ端をヤリナの左足にあてがい、チタン・ワイヤーで強引に固定した。足首から先を動かせないものの、これでとりあえずはひとりでも立ち上がれるようになるだろう。

 ジェイルがワイヤーを縛り終えると、奇妙な静けさが辺りを支配した。

 仮設通路の奥までやってきたせいかほとんど物音もせず、先ほどまでの喧噪が嘘のように、周囲には人や機械の気配はなかった。

 本来ならば、すぐに階段へ戻って下へ向かわなければならないはずだっだが、二人は腰を下ろして近くにあった壁に背を預けた。

「疲れた」

「俺もだ」

 ここまで休みなしで来た。強化(ブースト)された肉体とはいえ疲労を感じないわけではなく、できればこのまま眠ってしまいたかった。

 どこからか入り込んできた風が、二人の髪をそっと撫でる。空調を通ってきたのか、珍しくきれいな空気だった。

 二人は無言だった。無線で通信しているわけでも、記憶データの共有をしているわけでもなかったが、それでもわかり合えるなにかがあった。

「よし」

 ジェイルがゆっくりと立ち上がったのを見て、ヤリナもぎこちなく両の足で立った。

 状況は変わりない、というよりもお互いに体が傷ついた分、より切迫していた。

「行こう」

「うん」

 再び動き出す。まだ可能性をあきらめたくはなかった――たとえ、それがわずかなものであったとしても。

 だが、助かるか助からないかはどうでもよく、ただ今やるべきことをやっておきたかっただけだ。

 最後の最後で後悔だけはしたくなかったから。

 ヤリナのペースに合わせて少し走る速度を落とし、元来た通路をたどっていく。

 なにが起きてもいいように、あらかじめ銃を構えておいた。まだ監視者が待ち受けているかもしれないし、他の人間が襲いかかってくることも十二分に考えられる。

 周りはすべて敵、そう思っておいたほうがよかった。

 やがて内壁の崩れた部分が見えてくると、自然と緊張感が高まった。

 だが、ヤリナは無言だった。つまり、センサーになんら反応していない――監視者はそこにはいなかった。

 それに、人の数も全体的に少し減っているような気がする。見ればそこかしこに真新しい戦闘の跡が残されていた。

 なにかが起きたのだ。そのなにかがどういった類のことかはわからないが、やはり油断はできない状況であることに変わりはなかった。

 階段へ出たが、幸い他の誰かがいきなり襲いかかってくることはなかった。

 皆、下へ向かうのに必死だった。

 しかし、ヤリナが突然立ち止まり、思案している様子でその繊細な指先をこめかみに当てた。

 彼女は、なにかの処理を内部的にしている際によくこの仕草をする。それか、センサーになにかが引っかかったかだ。

「ジェイル」

「どうした?」

 ヤリナの目は、珍しく感情の色を示していた。そこにあるのは驚愕と動揺、そしてわずかな諦念だった。

「――〝破壊者(ヴァンダライザー)〟が来る」

 その一言に、ジェイルは完全に言葉を失った。

 破壊者。

 それはあらゆる存在を吸収し、分子レベルまで分解する機械(マキーナ)。それにいったん捕らえられれば逃れる術はなく、物理的に消去されるしかない。

「位置は?」

「上方十五キロ。時速五〇〇キロくらいで落ちてくる」

 ということは、もうほとんど時間がない。

 急ぐしかない、急ぐしかなかった。

 わずかな時間のロスも惜しいと、ジェイルはもう一度ヤリナを抱え上げた。自分の体力にも不安はあったが、気にしてなどいられなかった。

 階段をひた走るものの、例の怪我の影響で思ったような速度が出ない。それでも、必死に階段を駆け下りた。

 気配はヤリナの予測どおり、すぐに降ってきた。甲高い異音とともに光が乱舞し、〝それ〟が現れると同時に周囲の照明が一気に復活した。

 車輪を横倒しにしたようなマキーナ。高速で回転を続けながら宙を漂っている。

 その外輪部がいきなり広がったかと思うと、一定間隔に取り付けられた吸入口(ダクト)が開き、人々を壁や階段もろとも削り取っていく。

 犠牲者は、悲鳴を上げる余裕すらなかった。破壊者の回転が速すぎて、ほとんど止まっているようにさえ見える。

「ヤリナ」

「うん」

 ジェイルに抱えられたまま、ヤリナがしっかりと彼に掴まってその背中越しに(シオン)を構えた。

 狙うは、回転の軸となっている中央部。不安定な体勢でも、安定装置(スタビライザー)の組み込まれた自動照準機構が正確にポイントする。

 シオンから一本の光条が放たれた。それは狙いあやまたず、破壊者の中央部分、制御ユニットを貫いていった。

 その途端、それは大きくバランスを崩し、激しく揺れながら平衡を失って奥の壁へと突っ込んでいった。

 それでも回転の速度は落ちずに、壁材を問答無用に削りながらどんどんとくい込んでいく。

 今が好機だ。できるだけ距離をとるために、階段を下りるというより落ちるようにして跳んでいく。

 いつの間にか、破壊者の回転音や掘削音が消えていたが、すぐにまた耳をつんざくような警報が鳴り響き、直後、後方から轟音が聞こえてきた。

「なんだ?」

「あれ――」

 振り返ると、地下抗の壁の一部が崩落しはじめていた。破壊者が突っ込んだ部分ではない。おそらく、すでにこの〝構造体(ストラクチャ)〟そのものが脆くなっているのだ。

 今度は前方で階段が数段分抜け落ちて人々が瓦礫とともに落下していくが、もはやどうしようもできなかった。

 最悪のことは重なるものだ。動きをいったん止めていた破壊者が、自己修復を終え、再起動を開始していた。

 もっと、もっと逃げなければならない。たとえ体力が尽きようとも、足を動かし続けなければ次はなかった。

 背後から爆音が聞こえてきたのは、戦闘(コンバット)モードに移行した破壊者が回転を一時停止し、備え付けられていた火器で無差別攻撃を開始したためだった。

 爆風がこちらまで届き、両の耳を熱くする。壊れかけた体でも、危険と恐怖をまざまざと感じる。

 そして、それは現実のものとなった。二人のすぐ前方にミサイルが着弾し、大量の煙と瓦礫を周囲にまき散らした。

 階段が――ない。三十メートルに渡って足場が抜け落ち、下方に暗い闇が顔をのぞかせている。

 今この状況でこの狭間(はざま)を跳び越えるのは難しい。

 他に手がないでもないが、それをやるのはリスクが大きすぎた。

「戦おう、ジェイル」

「ヤリナ……」

「逃げ切れる可能性が低いなら、戦うしかない」

 彼女の目は静謐(せいひつ)で、その声音はまるで散歩を呼びかけるようなものだった。

 だから、ジェイルも迷わなかった。

「わかった。そうしよう」

 これが最後の戦いになるかもしれない、そんな予感を覚えながら銃の残りエネルギーをチェックする。

 ――あと三発。

 荷電粒子銃は、その威力の代償として搭載エネルギー量が小さく、現状ではその再補充は不可能。全弾を確実に命中させるしかない。

 予備の武器はいくつかあるものの、そのどれもが威力・精度の両面で不安があった。

 ヤリナも、自らの銃〝シオン〟のグリップ部分にあるメーターを見つめていた。その表情にほとんど変化はないが、ジェイルには厳しいものに見えた。

「行けるか」

「うん」

 ちょうど奴が来たところだった。砲弾やレーザーをまき散らしながら強引に接近してくる。

 ジェイルとヤリナは、二手に分かれることはしなかった。

 互いに限界、だから互いにサポートし合うしかない。

 破壊者が目前に舞い下り、元の目的を果たそうというのか再度高速回転を始めた。

 すかさず、ジェイルが貴重な粒子銃を一発放った。極度に加速された極小の弾丸が、一条のビームとなって飛んでいく。

 それは破壊者の外輪部にぶつかり、無数の光条となって弾けた。

「ジェイル、そこではだめだ」

 外輪部は異様に硬く、しかも高速で回っていることで周囲に空気の壁ができ、こちらの攻撃を阻害してしまう。

 だが、ジェイルはもう一度同じようにトリガーを引き、そして同じように放たれた粒子が外輪部に当たった。

「ジェイル」

「いや、これでいい」

 飛んできた弾丸をかわしつつ、ヤリナにはっきりと告げた。

「お前もあそこを狙ってくれ」

「――――」

「俺を信じろ。あの破壊者のことは……よく知っている」

 ヤリナは半信半疑の様子だったが、それでも言われるまま自らの銃で破壊者の外輪部を狙った。

 思ったとおり、そのほとんどが弾かれてしまうが、わずかな異変をヤリナの高精細な視覚は捉えていた。

 ――破壊者が揺れている?

 しかも、少しずつ回転が遅くなっているような感じもする。

 それは、気のせいなどではなかった。空気を切り裂く高音が徐々に鈍い音へと変じ、外輪部の一部が視認できるほどその速度は落ちてきた。

 ヤリナは続けて銃を撃ち、ジェイルも武器を持ち替えて攻撃をひたすらに続けた。

 だが、それをすればするほど、破壊者の搭載兵器による攻撃は逆に激しさを増していった。水平方向三六〇度に向けて、荷電粒子の雨が降りそそぐ。方々で悲鳴が上がり、ただの張りぼてのごとく人々が倒れていく。

 だが、ジェイルもヤリナも攻撃をやめなかった、否、やめられなかった。もう、これしか他に方法はなく、ここであきらめたらなにもかもが失われてしまう。

 いつの間にか、破壊者への攻撃は増えていた。周りの人々も、戦える者は武器を手に共通の敵に立ち向かう。

 今ここで命を張るしかないと、誰もがわかっていた。

 執拗に外輪部への攻撃をくり返していると、その回転音に交じって徐々に金属のひしゃげる音が聞こえるようになってきた。

 だが、ジェイルたちも無傷ではすまなかった。飛んできた粒子の弾丸がいくつも体を貫通し、重要な核となる部分を破壊されないのが不思議なくらいだ。

 それでも、先に限界を露呈したのは相手のほうだった。

 破壊者の回転速度が明らかに落ちてきた。外輪部が弾けて壊れ、広がった部分が空気の抵抗をもろに受ける。

 物体の動くスピードが速ければ速いほど、それが受ける抵抗は大きくなり、回転のためにより多くのエネルギーが必要になる。高速回転を前提に設計されたものだからこそ、空力(くうりき)を考慮した外装がいったん壊れればその反動は大きかった。

 ――これでいい。

 破壊者の異変に、ジェイルだけは驚いていなかった。外輪部の表面がはがれたなら、その後どうなるかのデータはすでに持っていた。なぜなら、あれは――

「ジェイル!」

 ヤリナの声にはっとする。それは、これまでほとんど聞いたこともないほど切迫したものだった。

 傾いた破壊者が、弾丸やエネルギーを使い果たしたらしく攻撃を終えていた。

 全体のバランスが完全に崩れたようで、大きく揺らぎながらいくつかの照明装置が不規則な明滅をくり返している。

 その破壊者の自壊が始まった。

 外輪部から順にばらけていって、それを支える(スポーク)部分、そして中央制御ユニットと続いていく。

 今度は周囲に粒子の雨ではなく、巨大な鉄くずの数々がまき散らされ、階段に残っていた数少ない人々がその下敷きになり、遠心力で勢いのついた鉄片が地下抗の内壁に突き刺さった。

「ジェイル」

「行こう、ヤリナ」

 破壊者の脅威は絶ったものの、この場にとどまっていては自分たちもあの無数のスクラップの犠牲となってしまう。飛来物を巧みによけながら、下へと再び向かった。

 しかし、

 ――おかしい。

 ジェイルは走りながらも、内心首をかしげていた。破壊者に自壊するプログラムなど入っていないはずだった、少なくとも自分は入れていない。

 いったい、誰がそれを書き換えたのか。それとも、自律機能がみずから変えていったとでもいうのか。

 しかしジェイルの思考は、答えが出る前に妨げられることになった。

 横からの突然の圧力に、なす術なく押し倒される。

 見れば、自分の腰にひとりの女がしがみついていた。ひどく震えながらも、その細い腕からは想像できないほどに強い力がそこには込められていた。

「離れてくれ!」

「いやッ、置いてかないで! 私を捨てないでッ!」

 もうほとんど正気を保つことができないらしく、独白のように同じ言葉をただくり返すだけだった。

 その女が意外に大柄なのも災いした。どんなカスタムを施したものかその肉体は恐ろしく重く、なかば壊れかけたこちらの体では引きずるのも難しい。

「ジェイル!」

 ヤリナが助けに行こうとする間もなく、周囲から他の女たちもいっせいに群がってくる。

 そのすべてがまったく同じ顔形(かおかたち)で、髪の毛の一本一本の色や配置まで同じなのではないかとさえ思えた。

 なす術なく、ジェイルがその中へ埋もれていき、それでも女たちがひとり、またひとりと増えていく。

 言いようのない焦りを感じながら、ヤリナは体内の原子時計で時刻を確認した。

 ――もう時間がない。

 それにこのままでは、ジェイルが押しつぶされてしまう。だが、素体にダメージを負った今の自分では、あのすべてを物理的に排除するのは不可能に近い。

 手持ちの武器ではこころもとない。

 ――もう、あれを使うしかない。

 ヤリナは覚悟を決めた。かつてみずから厳重にロックした機能を、一番から十三番まで順に解除していく。

 一番・解放請求――コンプリート。

 二番・解放請求――コンプリート。

 三番……

 実時間に換算すれば、わずか数ミリ秒。しかし、ひとつひとつのアンロックにかかる時間が無性にもどかしく、自分で施したとはいえどうしても苛立ちを抑えきれない。

 やがて、やっと十番までやってきた。すべての解除を待ちきれず、すべてオープンになっているところからメモリに読み込んで強引にプログラムを立ち上げていく。

 その起動までの時間もいやに長く感じられた。

 ――昔の私のせいで、こんなことに。

 今さらながら、重すぎた業に耐えきれなかったかつての己を深く呪った。

 しかし、十三番解除の時は確かに訪れた。分割されていた符号(コード)が連結され、元のあるべき姿へと還っていく。

 そして、内部からパスワードを求めてきたとき、ヤリナは迷わず入力した。

 ――〝inferno〟と。


 code: inferno......ignited.


〝地獄の業火〟と称された旧神でさえ(おのの)くクラッキング技術が、今完全に解き放たれた。

 すぐさま処理を開始する。対象と周囲の電磁波の波長を分析し、最も有効に無線通信を行う方法を最速で検索する。

 その結果はすぐに出た。自動的に次の機構が立ち上がり、処理を高速に進めていく。

 やがて、あらゆる存在を焦がす無限の炎が放たれた。

 電波に載った目に見えぬそれは、瞬時に対象に到達し、ジェイルに群がる女どもの中枢部へと傀儡(ボット)が侵入していく。

 ――終わった。

 それはすべて、一瞬の出来事であった。

 手近にあった素体はすべて支配下に置いた。つい先ほどまで不気味にうごめいていた女たちがいっせいに動きを止め、その顔から表情が瞬間的に消えた。

 この女たちは人間ではなく、人に似せてつくられた仮初めの命、人工体(ヒューマノイド)であった。おそらく、オーナーに捨てられて精神機構に異常を来し、ここまで流れ流れてやってきたのだろう。

 その掌握はいとも簡単だった。元より、人間であっても強化(ブースト)されているのなら、〝インフェルノ〟の牙からけっして逃れることはできない。

《散れ》

 ヤリナが命じると、女たちは素直に従い、この場から離れていくものの、その動きは腹立たしいほど鈍く遅い。

 ()れる気持ちが抑えられなくなった頃、群が完全に解かれた。最初にしがみついた一体だけがジェイルに掴まったままなのに怒りを覚えながらもすぐに駆け寄った。

「ジェイル」

「ヤリナ……」

 女たちの重みで、潰されかかっていたジェイルが目を開いた。瞬間、その顔が驚愕に彩られた。

「ヤリナ、後ろだ!」

 とっさに振り返ると、そこには巨大な影があった。

〝破壊者〟の中央部。これまで崩れずに残っていたそれが、こちらへ落下しようとしていた。

 壊れた左足への電力供給をカットして、右足に全エネルギーを送り込む。そして、右足一本で横へ跳んだ。

 中央部を構成していたどす黒い物体が、脇腹をかすめていく。間一髪かわすことができたが、それが向かう先は――

「ジェイルッ!」

 ヤリナの血を吐くような叫びは、轟音にかき消された。

 猛烈な風が吹き、土煙がもうもうと巻き起こる。視界がほとんど閉ざされるほど、それは凄まじかった。

 この状況では、光学センサーは使えない。そこですぐに熱源を探知することにしたが、衝突の際のエネルギーによってあちらこちらに反応が出すぎてしまい、ジェイルの位置を特定するのは至難の業だった。

 どこかがまだ崩れているのか、低く響くような音がやまない。中途半端な静けさが、いやおうもなく不安を駆り立てた。

 煙が収まりだしたとき、通常視覚のほうでジェイルの姿をとらえた。思うように動かない足をもどかしく感じながら、そちらへ向かった。

 ジェイルは、スクラップの中に埋もれていた。意識はあるようでわずかに体を動かしているが、自分では立ち上がれそうにない。

「ジェイル」

「ヤリナ、か?」

 隣にひざまづき、状態を確認する。瓦礫に当たったらしく、両腕はつぶれていた。下半身は鉄くずに埋もれたままだが、それよりも上半身のダメージのほうが大きいようだった。

「動ける?」

 破壊者の一部であった物をどけてやりながら問う。

「なんとか、な。しかし、腕を両方やられた」

「私のを片方使って」

「しかし、形式が違う」

「私が遠隔操作する。私があなたの腕になる」

 決然と言い放ち、ジェイルのつぶれた腕を捨て、己の左腕を彼の肩口に取り付けた。

「いいのか?」

「私はだいじょうぶ」

 ヤリナもすでに満身創痍だが、その状態でジェイルの体の動きに合わせて左腕を操作しなければならない。その負担は想像を絶するものがあった。

「体の制御システムを私につないで」

「――ああ」

 わずかな気恥ずかしさを感じながらも、(ゲートウェイ)をヤリナに向けて開放する。少しの違和感のあと、システムがつながったのを感じた。

「行けるか?」

「うん」

「行こう」

 二人は走り出した、動かなくなった女たちをしり目に。

 思うままにならない体を叱咤し、先を急ぎながらも、ヤリナの焦りは大きかった。

 ジェイルは大きな負傷を負ったために動くことで精一杯だったが、それよりも先ほどから時間が気になって仕方がなかった。

 ――間に合わないかもしれない。

 このペースでは厳しい。それに、ここに来るまで時間をロスしすぎていた。

 走れば走るほど焦燥感がつのっていくが、かといって今よりも速く動けるわけでもなかった。

 だが一方のジェイルは、ヤリナとは違った思いを抱いていた。

 ――静かすぎる。

 蜘蛛を倒し、監視者を倒し、破壊者まで倒し、あまつさえ天球(スフィア)に不正アクセスまでしている。それなのに〝次〟が訪れない。

 不気味だった。

 旧神の行動パターンからして、ここまでした存在をそのまま放置するはずがない。

 自分の知るかぎり、この次の対応にふさわしいのは――

〝ジェイル……ジェイル!〟

 頭の中に直接響く声に、はっとして顔を上げた。

 横を見ると、ヤリナの唇は動いていなかった。無線で直接音声データを送り込んできた。

「どうした、急に?」

「声に出して呼んだのに反応がなかった。それより、前に何かいる」

 ヤリナの視線を追うと、通路の前方に黒い人影が見えた。荒れ果てた周囲では非常灯の明かりさえこころもとなく、主視覚でははっきりと認識できない。

「私のセンサーに反応がない」

「……稼働率は?」

「八七%」

 ヤリナの高精度センサーが正常に働いているのに、目では認識できているのに、そこにはいないことになっている。

 ――何かおかしい。

 よく見れば、周りにいる人々との縮尺が合わない。

 異常に大きい。

 大人の三倍くらいはあるだろうか。しかも、近くの人々がひとり、またひとりと倒れていく。

「あれは……」

 ジェイルが瞳を揺らした。

 その物体が、ゆっくりとこちらに向かってくる。不気味なほど人間らしい所作で。

「ヤリナ……」

 その声は震えていた。

 ヤリナがその事実に驚く間もなく、さらに信じがたい言葉がジェイルから発せられた。

「お前は先に逃げろ。〝奴〟は俺が引きつける」

 ジェイルが苛立ちまぎれに、もう一度言った。

「行け! もう時間が――」

 珍しく逡巡するヤリナの眼前に、すでに〝それ〟はいた。

機械(マキーナ)?」

 ヤリナがそう思ったのも無理はない。

 人型をしたそれは、確かにさまざまなパーツを組み合わせて構成されていた。

 しかし、その姿はどこか有機的で、装甲の陰に見える無数のコードの束が、まるで原始的な生物のようにうごめいている。

 頭部にあるセンサーらしき〝一つ目〟は、確実にヤリナを見下ろしていた。

「ヤリナ、急げ。こいつは……破壊者なんて比ではない。とんでもない怪物だ」

「私のデータベースにさえ情報がない。いったい――」

「行ってくれ、頼む」

 ジェイルの言葉は、命令から懇願へとその調子を変じていた。

 だから、ヤリナは困惑しつつも、これ以上なにも言うことができなかった。

「ヤリナ……」

「私が邪魔になるのか」

「――そうだ」

 一度ゆっくり瞳を閉じてから、ヤリナは意を決した。

「わかった。そのかわり、約束してほしい。かならず私のところに戻ってくると」

「わかった」

 すべての思いをいったん断ち切り、駆け出そうとしたヤリナの前で、人型が一瞬早く動いた。

 肩口から伸びるコードが、周囲の生きた人々を襲う。

 だが、攻撃するわけではない。頸椎の部分にあるプラグに有線でつなぐ、ただそれだけだった。

 その直後、人々が白目をむいて、ばたりばたりとあっけなく倒れていく。

 ヤリナに、その事実を驚いている余裕はなかった。

天使(エンジェル)――〟

 つなぎっぱなしだった回線から、ジェイルの声が聞こえてきた。

〝まだ人間を狩っているのか〟

 天使? 人間狩り?

 それに――

〝インフェルノに反応したようだ〟

 なぜ、私の符号(コード)のことを。

 あのことは、ジェイルはもちろん他の誰にも話していないことだ。

 天使ではなく、ジェイルのほうを向いているヤリナに気づかぬままに、当の本人は歯噛みしていた。

 ――今でも稼働していたのか。

 人に似て、人を欲し、それでも人になりきれない存在。それがどこかかつての自分に似て、今でも嫌悪の情を禁じ得ない。

 人間からあらゆる情報を入手し、咀嚼し、みずからのものとする。そうすることで、より人間らしくなれると信じて。

 そんなことをしても、同じことはしたくてもできない人間からは離れていくばかりだというのに。

 かつて、それらをつくった存在を呪う。

 目を細めるジェイルの前で、ついに天使が一歩踏み出した。

 ヤリナのほうへ。

「行け、ヤリナ!」

 ジェイルの声に弾かれるようにして、ヤリナは走った。

 時を同じくして、ジェイルが相手に体当たりを仕掛けるものの、無機物の塊はびくともしない。

 逆に大きく弾かれて姿勢を崩したジェイルの眼前で、天使の巨大な右腕がおぼつかない足取りで逃げる女のほうへゆっくりと伸びていく。

 左腕は軽く一振りしただけで、周囲の内壁をごっそりと消滅させた。

「やめろッ!」

 視覚にノイズが交ざるほどの大音声で叫ぶ。

 だが、天使の動きは止まらない。

 ジェイルは、意を決した。

 ――もう、過ちを繰り返すのは嫌だ。

 天使の歪な右腕からさらにいくつものコードが伸び、必死に逃げるヤリナを追う。

 振り返りながら走っていたヤリナは、足元の残骸につまづき、派手に転んだ。下にあったのは、皮肉にもあの最初に倒した蜘蛛の残骸だった。

 無数のコードが、ヤリナの細い肢体をからめ取る。

 両手、両足、そして首にまで巻きついた。

 一本だけ残ったコードがその先端を赤く輝かせながら、ヤリナの頸椎のほうへ向かっていく。

 もがくことさえ許されないヤリナのプラグに、それが差し込まれようとした刹那――

 天使が動きを止めた。

 横目で見ると、ジェイルがうつむいた状態で荒く息をついている。

 その左の肩口からは、ないはずの左腕が上方に伸びていた。

 天使のそれと同じ質感の有機的なフォルム。ジェイル自身の何倍もある大きさの砲塔が、相手の胸を刺し貫いていた。

 コードを動かせなくなった天使は、それでもなお震える右手をどこか愛おしげにヤリナに向けて伸ばしていく。

 直後、それは動きを止め、一瞬のうちに粉となって消えていった。

 同じように胴体も、足も、そしてジェイルの左腕まで、すべてがなにかの幻覚だったのではないかと思えるほど静かに消滅した。

《教授》

 声が聞こえてきた。聞いたことのない女の声。

 いや、これは外から聞いた自分の声だ。

 いつの間にか、周囲は小綺麗な白い部屋になっていた。その中央に、ぽつんと小型装置がコンソールを青く淡く明滅させている。

 目の前には男。

 ジェイルではない。灰色の髪に灰色の目をした壮齢の男が、女を見ていた。自分と同じ姿の、しかし白衣をまとった女を。

 男も女もにこやかに微笑んでいた。それだけで、二人がただならぬ関係であることがわかる。

 だが、一瞬のうちにそれらはかき消された。

 照明が落ち、闇に落ちた室内に紅い非常灯の光が明滅する。

 遠くで爆発音。それは断続的に、しかし少しずつ確実にづいてくる。

 やがて、後方のドアが吹き飛んだ。

 そこに立っていたのは――

 ――ジェイル。

 黒いスーツに暗い表情のジェイルが、二人ににじり寄っていく。

 あの左腕で。

《逃げろ!》

 灰色の男が叫ぶ。さっきのジェイルと同じ表情、同じ声音で。

 怯えた女は足が動かなかった。その彼女に突き出された砲塔は、すでに紅い輝きをまとっていた。

 教授と呼ばれた男が女をかばう。

 しかし無情にも、その彼が形態を変じたジェイルの左腕によって刺し貫かれていた。

 衝撃に膝を落とした女の足元に、紅い雫がしたたり落ちる。

 男の体を横へ放り投げたジェイルは、片目だけを紅く光らせ、そして――

 ごとり、という音に、ヤリナははっとして前方を見た。

 崩れかかった構造体。その中心坑の近くでジェイルが倒れていた。

「ジェイル!」

 駆け寄って抱き起こすと、生きているのかどうか疑わしいほど憔悴しきっていた。慌てて互いのプラグを有線でつなぎ、ありったけの生体エナジーを送り込んだ。

「……もういい」

「ジェイル」

「もういい、ヤリナ。お前が倒れてしまう」

 みずからプラグを引き抜くと、ジェイルは自分の足で立ち上がった。

 左手は、ない。

「ジェイル……」

「――お前の見たものがすべてだ。それだけだ」

 ジェイルは、多くを語ろうとはしなかった。肩を貸したヤリナのすぐ横で、うつむいたまま荒く息をしている。

「私は」

 ヤリナは言った。

「私は、ジェイルを信じる」

「――そうか」

 二人はあえてそれ以上なにも言わず、震える足で前へ進み出した。

 未だ階段と、その先に続く暗闇は終わりが見えない。周囲に機械の気配はなくなったとはいえ、人の気配さえなく、終焉が近いことをいやがおうにも感じさせた。

 進んでも進んでも見えてこない目的地。そもそも前進しているのか、ただ同じところを回っているだけでなのか、自分でもわからない。ひょっとしたら、目の前の事実から逃げてきただけなのかもしれなかった。

 ――じゃあ、どこまで逃げればいい。

 ずっと走り続けてきた。ずっと戦い続けてきた。それでも未だ先が見えず、目標はなおのこと判然としない。

 不安や焦りよりも、虚無感が抑えきれなくなってくる。こんなことに意味はあるのか、すべては無意味ではないのかと、疑念が身中で渦を巻く。

 ふと、足下にやわらかい感触があった。

 それは、人の死体だった。互いに殺し合ったか、それとも破壊者や監視者のような機械(マキーナ)にやられたか、辺りは人々の亡骸で埋め尽くされていた。

 他に足の踏み場もないから、それらを踏みつけていくしかない。その中途半端な感触に吐き気が込み上げてくる。

 ――俺たちはここまでして。

 ここまでして生きる必要があるのか、生きたいと思うのか。疑念がやがて自己への嫌悪に変わり、己のこころをどうしようもなく萎えさせた。

 だが、これまでの行為が報われるときがやっと訪れたのかもしれない。いくつもの死体を越え、瓦礫を越え、鉄くずを越えた先にはこの地下抗の最下層、巨大な扉が見えた。

「着いた、のか?」

 それは、両開きの大扉だった。その奥には巨大な階段が続き、数え切れないほどの人々がひしめき合っている。

 人類種最終保護シェルター。

 ここは、そう呼ばれていた。

「間に合った」

 珍しく息を弾ませながら、ヤリナがジェイルの横に立った。

 奇跡的だった。

 時計を見れば、タイムリミットをすでに過ぎているから、例のことが遅れているのかもしれない。

 ここまで意地でも進んできたかいがあった。たとえいくつもの障害に阻まれようと、あきらめずに走り続けてきたことは無意味ではなかった。

 幸い、シェルターにはまだ余裕がありそうだ。全体の人の数はすさまじいが、スペースはだいぶ残されている。

「急ごう、ジェイル。扉がもう閉じ始めてる」

「そうだな」

 ヤリナに促され、ジェイルがおぼつかない足を踏み出し、その後に彼女が続く。

 警報が鳴り響いたのは、その直後だった。

「どういうことだ?」

 シェルターの外ではなく、その内側から聞こえてくる。耳障りな音に、人々がざわついた。

「いったい、なにが……」

「――重量オーバー」

 ヤリナの声は、冷え切っていた。

「たぶん、許容重量を超えている」

「許容重量? シェルターにそんなものがあるのか?」

 静かにヤリナは(うなず)いた。

「このシェルターは分離ユニット形式」

 単に一定の空間を外部からの圧力に耐えられるようにするだけでなく、シェルターそのものをひとつの〝箱〟として可動式にしている。そのため、許容できる重量を超えないように、底部にかかる圧力が常に計算されていた。

「ここの中央システムに侵入してなんとかできないか?」

「外部からアクセスできないようになってる。そのためのシェルターだから」

 確かに、シェルターそのものを乗っ取られるようでは、意味がない。ここの堅固さが、今は完全に裏目に出た。

 ゲートの扉がその動きを止めていることに気付いてそちらを振り返ると、そのすぐ前に数人の子供たちがいた。

 彼らと視線が触れ合う。それはどこか悲しげで、どこか(はかな)げだった。

 しばらく誰もなにも言えずにいると、やがて低い地響きの音が耳に届いた。

 それは徐々に徐々に大きくなり、実際の激しい揺れをともなって人々の身も心も揺さぶりだした。

「崩壊が始まった……」

 ヤリナが、静かに目を閉じた。

 最後の時が訪れたのだ、この地下抗を含めた構造体全体の終焉の時が。

 すべてが崩れ去り、逃げ場はひとつしかなくなるからこそ、人々はこのシェルターを目指し、死地をくぐり抜けてきた。

 ここまでたどり着けた者は幸運だったろう。大半が途中で倒れ、明日への希望を掴むことなく虚しく消えていった。

 だが、このシェルターにいる人々も、まだけっして救われたわけではなかった。

「扉が閉じないな……」

「アラームが鳴っている間は機能を停止する」

 すなわち――

「誰かが外に出ないと駄目ということか」

 揺れはより激しく、より大きくなっている。閉まらない扉に、内側の人々が不安の声を上げ始めた。

 シェルターの正面にある巨大な柱が、その中ほどから折れる。

 まるでスローモーションのようにそれが倒れていき、盛大な音と煙を巻き上げる。

 もはや、迷う時間さえ与えられていなかった。

「なにか余分な物はないか」

 ジェイルがシェルターの奥のほうをうかがうが、ほとんどの人々が着の身着のままでここへやってきた。捨てられるような物を持っているはずがなかった。

 それでもあきらめきれず、ジェイルは周囲を(せわ)しなく探った。

 なにか、なにか手はないか。やっとここまで来たのだ、あきらめることがあまりにも惜しかった。

 そのジェイルの腕をそっと掴む者がいた。

「――ヤリナ」

 彼女は、ゆっくりと首を横に振った。その目はただただ静かで、どこまでも澄んでいた。

 すっと、ジェイルの中にあった焦燥感が消えていった。

 互いの思いを、互いがわが事のようにはっきりと悟る。

 ――もう、いいか。

 ――うん。

 言葉に出さずともわかっていた。思えば長い付き合い。十分な意志疎通ができるほどには、お互いの本質を理解していた。

 ジェイルはきびすを返し、扉のほうへ向かっていった。

 そのあとに、ヤリナが続く。

 扉付近にいた子供たちと目が合うと、彼らが肩を震わせた。その様子に苦笑すると、ジェイルは彼らの頭を撫でてやってから、ゆっくりと外へ出た。

 ヤリナも同じようにしたとき、警報が鳴りやみ、扉が再び閉まりだした。

 内側の人々からの視線に、なぜか羨望が交じっているのが不思議だった。

 二人の目の前で、扉が完全に閉じられた。これで救いの道は完全に絶たれた。

 しかし、なぜか二人のこころは晴れやかだった。

 すべて終わった。たとえ実を結ばなかったとしても、自分たちは最大限やれることをやってきた。

 だから悔いはない、恐れもない。そして生き残った者たちへの恨みもなかった。

「ジェイル」

「ヤリナ……こういう結果になった」

「うん」

 もう、細かいことはどうでもよかった。今こうして二人でいられる、それだけで十分だった。

 激しい揺れと轟音の中、ジェイルとヤリナは身を寄せ合った。仮初めの肉体、それでも確かに相手のぬくもりを感じられた。

 地下抗の外壁が崩れていく。

 地下とはいっても、この〝構造体(ストラクチャ)〟は荒廃しすぎた地上を捨て、上空二〇〇〇メートルの位置に造られている。

 つまり、ここは空中だった。

「あ――」

 ヤリナが、思わず声を上げた。

 瓦礫の隙間から光が見え、その向こうには青い空が広がっていた。

 はじめて見る本物の空、そして地平線の向こうから昇ってくる太陽。

 すべてがあまりに美しく、愛おしく、涸れたはずの目に涙が戻ってきた。

 高度の放射能と有害物質によって汚染された大気、しかしその〝死の風〟はそれでも綺麗だった。

 二人が生まれて初めての朝日を見つめる中、シェルターが構造体から分離していった。これから、別の無事な構造体へと飛んでいくことになる。

 ――君たちに幸あれ。

 せめて、子供たちには明るい未来の灯火を残してほしかった。

 自分たちの分も生きてほしいなどとおこがましいことを言うつもりはない。ただ、彼ら自身のために生きてくれればそれでよかった。

 天然の陽光を受けるシェルターは、おそろしく美しい。それは、希望の箱船のように思えてならなかった。

 自分たちの人生は終わる。だが、それがどうしたというのか。

 意味のない生ではなかった、意味のある生だった。

 そう思えるほどに、これまで全力で生きてきた。

 仮初めの生なんてない。仮初めの肉体であっても、自分たちは確かに生きた。

 構造体が崩れゆく中、最後に見たのは、やはり青空だった。

 美しい。この美しい星と共にありたい。

 風は、ただ優しかった。


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