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アル太

作者:筒井井筒
 貢が十歳の誕生日を迎えた日、アル太は死んだ。慢性の脊髄梗塞だった。水色のベッドの中でもう虫の息だったから、いつかいつかとは思っていたが、まさか息子の誕生日と重なるなんて――。もちろん当の本人もわんわん泣いていたし、彼のために用意した誕生日ケーキはついにろうそくが燈されることはなかった。その日のうちにアル太は近所の教会に運び込まれた。
「おかあさん。」
貢が小さな手で私の腕をつかんだ。「アル太はどうなるの。」
わたしは戸惑った。彼はもう充分『死』について理解している年齢である。もちろん、死んだモノの魂がどうなるのかも。だから、私はそのとき貢の顔を見ることができなかった。おそらく私はアル太の死よりも、貢が悲しむことのほうを避けていたのだろう。
私は彼の手を軽く振り払うようにした。
「アル太は燃やされるの。」
貢の身体がぶるりと震えるのがわかった。
「燃やされて、どうなるの。」
また貢は私にすがるようにした。彼の口調は、さっきよりも強かった。何かひとつの究極的回答を求めているようだった。私は息子の短い髪を撫でた。
「煙に乗って昇って行くのよ。」
今度は震えなかったか。ちくちくとした触感が私の手のひらに突き刺さって、滑るようにまた流れる。私が嫌々をするように貢のまっすぐな視線から逃げていたのを悟ったのか、彼は私の手のひらをぎゅっとつかんだ。
「おかあさん、あのね」
「おぅい、貢、茜。もうすぐ始めるってよ。」
神父と何か話していた夫が、遠くで手を振っている。
「ほら、みっちゃん。アル太のお見送りをしましょ。」
私は貢の手を引いた。そのとき初めて貢の顔を覗き見た。が、ちょうど彼は頭をたれていて、その表情を窺い知ることはできなかった。
 その教会はプロテスタントだったし、私たちもそうそう大げさな葬式は望まなかった。
神父が粛々と聖文を述べているのを、ぼんやりと眺めていた。夫は桐の棺をじっと見つめていた。いつもは快活な貢も、じっとして座っていた。

アル太は四年前に我が家にやって来た。夫が仕事帰りに捨て犬を見つけたのであった。道端に打ち捨ててあったぼろ布のような子犬がミニチュア・シュナウザーだとわかったのは、それから数日後のことであった。獣医者から戻ってきた子犬は元気だったが、引き取り手は現れなかった。それどころか、子犬は貢にずいぶんと懐いていて、もはや離すことはできなかった。
――しかたないねぇ、貢があんなふうだもん。
――そうだなぁ、まぁ、いいか。
貢が子犬を抱いて寝ているのを見た夜、私と夫はそんな話をした。貢は一人っ子で遊び相手もいなかったし、小さなわが子が増えるのは正直二人にとってうれしいことであった。
 アル太、という名前はもちろん貢がつけた。というより、いつの間にかそう呼んでいたのを聞いたのである。
――アル太?
――うん、アル太。いい名前でしょ。
そう言って貢ははにかんだ。まるで本物の弟を自慢するかのように。理由は? と聞いてみたが、彼は首を横に振った。
――理由なんてないよ。アル太はアル太、僕の弟だもん。
――そっか。アル太はアル太だもんね。
私や夫が名前を呼ぶと、アル太は尻尾をぴこぴこ振ってすり寄って来る。それを追いかけて、貢もすり寄って来る。夫まで子供のようにはしゃぎ、みんなで大笑いした。我が家に転がり込んできた小さな息子は、天使のように幸せを運ぶ。
――脊髄梗塞を犬が罹患するなんて知らなかった。アル太が急に後肢を引きずり出したとき、我が家は大騒ぎになった。すぐに病院に連れて行って、その病名を聞いた。しかし、人間と異なり、新しい血管が生成できる犬にとっては、梗塞はたいした病気ではないはずだった。私も夫もそれを聞いて安心していたのだ。
――おかあさん、アル太がなんか変。
 数週間後、夕食の準備をしていた私の腕を、貢がぐいと引っ張った。ひさしぶりに貢の切羽詰って泣きそうな顔を見たような気がした。

 「おかあさん、アル太が。」
不意にぐいと腕をつかまれて我に返った。ぼんやりと曇った視界に、明るい光が差し込んだ。貢が私の目を覗き込んできたのだ。呂色のレンズが二つ。その中に、烏羽色がそれぞれ二つ。
「そろそろ、行きましょうか。」
いつの間にか神父は書文を閉じていた。アル太の収められている棺は、今にも運ばれるところであった。
「行こ、おかあさん。」
貢は私の腕をぐいぐい引っ張る。私はもう一度、息子の顔を見た。それから、私たちをながめている夫を見た。穏やかな目。出棺を控えた私たち一家は、まるで凪のなかにいるようであった。
「行こうか、茜。」
夫も私の肩に手を置いた。私はそれを不快に思わなかった。
 「貢、さっきの質問ね。」
台車に乗って運ばれるアル太の後ろを、私たちは追う。貢は台車を軽くつかんで、私の返事の続きを待っている。
「アル太はこれから、またどこかの家の前にひょっこり出てくるのよ。」
私は微笑んだ。
 ぱちぱちと弾ける炎が、ゆっくりとアル太を覆っていく。樒のかすかな甘い香りが鼻腔を満たす。白い煙は少しずつ、少しずつ天に昇っていく。私たちは静かに合掌した。
「あれがアル太? 」
貢はひっくり返りそうなくらいに空を見上げて嘆息した。
「そうよ。大きいわねぇ……。こんどは、私たちがアル太に拾われる番かしら。」
「そりゃあ大変だ。急に三人も来たら、アル太もびっくりするだろうな。」
 夏風はわずかに煙を揺らした。乱反射で輝くそれは町いっぱいに広がって、またどこかで一つの命を生み出すのだろうか。

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