魔弾
7
時はわずか遡る。
都内某所のインターネットカフェ…。
すっかり冷めきったコーヒーを啜りながら、勇樹は過去の新聞やマスコミ報道、薬学や医学の分野のデータベースに至るまで、考えられるありとあらゆる方向から過去の事件に関係しそうなデータを探り出そうと検索を繰り返していた。
気になる箇所を見つけては熟読し、めぼしい記述は手元のノートへと書き写していく。
アナログな方法ではあったが物事を整理しながらある程度の結果を前提に論理を組み立てていく演繹的なこのやり方の方が勇樹には合っている気がした。
学校の授業のように決まったカリキュラムで詰め込まれる事もなく、自分の探したい情報だけを覚え、置換と圧縮を繰り返し、自らの頭脳のデータベースへと保存していく作業はこれはこれで新鮮である。
6月20日午後4時27分。
校門を出て貴子と別れたすぐ後の出来事である。
勇樹はホッと一息つくと、ウエイトレスを呼んでミックスサンドとモカのセットを注文した。
まったく気にしていなかったが朝から何も食べていない事に気が付いた。それにあまりコーヒー一杯で粘っているというのも悪い気がしたのである。
淡いブルーを基調とした小綺麗な店内は比較的空いていた。観葉植物の鉢植えが沢山ある。
近郊の大学生が二人、ネットのオンラインゲームに興じたり、暇を持て余した営業マンが株式をチェックしている他には、店内は割と閑散としている。
下校や会社帰りの半端な時間にはそれなりに混み合うこの店も、今は静かなものだった。メイドドレスのような恰好をしたウエイトレスの女のコの一人がトレイ片手に欠伸をしたのが見えた。暇なのだろう。
そうしている間に勇樹の席にもう一人のウエイトレスがミックスサンドを運んできた。コーヒーは食後に回してもらう事にする。
ハムチーズサンドにカツサンドに野菜サンドが載った内容盛り沢山の大きな皿である。同じクラスの高岡雄二というパソコンオタクと早食い競争をした事もあるこの店の名物メニューである。
勇樹は届いたミックスサンドを猛然と食べ始めた。ガツガツと音がしそうなくらいである。先程の欠伸をしていた女のコがこちらを向いて、こっそりと笑っている。よほど飢えていたのだな、とでも思われたのかもしれない。
食欲はないと思っていたのに食べ始めると止まらなくて、あっという間に勇樹は四つあった、割とボリューム感のあるサンドイッチを僅かな時間で全て平らげてしまった。これでは食事の時間を惜しんで、本を読む為にこの画期的な料理を考案したサンドウィッチ伯爵も浮かばれないというものである。
身体は正直だ。
どれだけ身を裂かれるような悲しみに暮れていても、どれだけ涙を流した後でも時間が来れば喉は渇くし、腹も空く。寂しい淋しいと嘆きながら飯を食う姿は滑稽だが、それが人というものである。生きる事を放棄した身体になるには勇樹はまだまだ若過ぎる。
勇樹はこうした、奈美にはよく注意される食事の仕方をする度に空手の師範代である父親の気難しい顔を思い出す。
「食える時にはせいいっぱい食っておけ。悲しい時も苦しい時もだ。当たり前な事を抜きにして物事は前には進まない。
人の業を意識せずして豪の拳はなし。
強くなりたければ食え。肉体的にも精神的にもだ」
子供の頃のそうした父親の躾だからという訳ではないが、勇樹は食事は常に豪快に食べる事にしている。
クラスの昼食時でも男子達には面白がられるが、女子が相手の場合は、たいてい笑われるか引かれるかのどちらかである。お嬢様育ちの奈美などはそうした勇樹をボロボロにけなす。
一度、父親に教えてもらった事だと言ってやると
「馬鹿ね、『豪』の意味が違うでしょ!」
とお笑い芸人のツッコミのように後ろ頭をパシンとはたかれた。至極もっともである。けれど勇樹はそうした自分のスタイルは崩さない。奈美もなんだかんだと言いながらも、面白がっているのはわかった。
由紀子もいつも勇樹のそんな食べっぷりを見ては微笑んでいたように思う。
貴子にはああ言ったが勇樹は実際の所、由紀子の事件に自分がどうしてここまでこだわるのかはわからなかった。
確かに由紀子の存在したという記憶そのものが、事件の記録とともに風化し、徐々に忘れられていく事は勇樹には堪えられなかった。パソコンのデータのように不要なファイルを選択して削除し、フォルダ内を整理するように人は出来ていない。フォーマットを初期化するのとは訳が違うのだ。記録は残るが記憶は次第に薄れていく。自分にとって都合の悪いものなら尚更である。
忘れられない…忘れたくない…忘れるものかと意識してみても、人の身体と同じようにいつかは形が変わってしまうものなのだ。
心と身体は表も裏もなく常に同じモノである。幼い時から武道を嗜んできた勇樹にはよくわかる。
勇樹は食後の香りの良いモカを飲みながら一つ、深い溜め息をついた。
やめよう…。由紀子の死んだ夜にもう充分過ぎるほど考えた事だ。由紀子の為でも自分の為でもない。
目の前に不可解で割り切れない謎があり、もはや自分はそれに積極的に関わろうとしているのだ。動機など所詮は後付けに過ぎない。これも何かの導きなのかもしれない…。
運命などという言葉は嫌いだが、関わった以上は最後まで見届けずにはいられなかった。いつまでも己の中の時間さえ止めている訳にはいかないのだ。勇樹はこうして腹も満たされ、生きているのだから…。
さてと…
勇樹は伝票を手にして立ち上がった。
死にゆく者が狂ったように笑うというこの不可解な謎に対し、可能性のありそうな項目だけをノートに羅列していっただけの気もするが、欲しい情報はある程度は手に入った。
あとはデータに基づいて仮説を立ててみるだけだ。
貴子にも言った通り自分にとってあまり面白くない結果を招きそうな予感は早くもしていたが…。
「ありがとうございま〜す!」
先程のウエイトレスが嬉しそうに小走りにキャッシャーへと駆けてくる。余程暇だったのだろう。
勇樹は会計を済ませ店を出ると、暮れなずむ夕暮れの街へと歩み出した。
外は宵闇にはまだ早いと見え、街灯もついてはいなかった。しかし空は薄曇りで雲の流れも心なしか早く感じる。予報では深夜に大雨警報が出ていたはずだ。
梅雨時のじっとりと湿っぽい風が初夏の熱気とともに勇樹の頬を撫でていく。
昔ながらの商店街のアーケードを抜け、隣町の自宅へと帰っていく間にいくつかの学生服の集団と擦れ違った。
近所のゲームセンターの景品と思われるヌイグルミやストラップを自慢げに友達に見せている男子生徒もいれば、一緒に手を繋いで歩く制服姿のカップルもちらほらいる。女のコ同士で手を繋いでプリクラを撮っている女子生徒達や、肉屋でコロッケを買っている男子生徒達もいた。
いつもと変わらぬ日常の光景である。人目を気にして聖真学園とは正反対の方向に来たせいか、黒い学生服やセーラー服姿の、この辺りの高校生や中学生の姿が目立つ。
聖真学園の制服は男子も女子もブレザータイプなので勇樹の姿は、この辺りでは浮いて見えるのだろう。擦れ違う度にこちらをふと振り返る生徒達もいた。
勇樹は昔ながらの商店街が立ち並ぶ、純朴で活気に満ち溢れたこの通りを歩くのが好きだった。
夕食のおかずにはもってこいの惣菜屋からは、揚げ物の食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。
色鮮やかなたくさんの野菜を店先に並べた八百屋が威勢のいい呼び声を客に響かせている。
店先で新鮮そうな魚を捌いてみせている魚屋がある。買い物客が、あれでもないこれでもないと夕食用の食材を選び回る姿や、通りの端まで聞こえそうな子供達が元気に遊び回る活気に満ちた声や、買い物客の若いお母さんが押すベビーカーから赤ちゃんの泣き声も聞こえたりする。
何度来ても思わず顔がほころんでくる。なぜか懐かしいと感じてしまうのだ。
商店街通りを抜け、さらに洋品店やブティックの立ち並ぶ通りを抜け、民家のある方へと道を折れる。
勇樹は駅前のバス停のある方向へはあえて向かわずに、民家や工場がある別の方向へと少し足早になって歩き出した。
気まぐれでもなんでもなく、自然にそうせずにはいられなかった。
…つけられている。
張り付くような嫌な視線を感じる。しかも複数だ。
勇樹とて素人ではない。幼い時から武道を叩き込まれてきた、危険を察知する能力には人一倍自信がある。そうした人間にだけ働く勘がある。うなじの毛が逆立つような、皮膚をピリピリと刺すような感覚。
視線を感じたのは商店街を歩いていた時からだ。
わざと歩みを止める。勇樹は制服から携帯電話を取り出して、さもメールが来たかのように液晶を眺めるふりをする。目を閉じ、視覚を遮断し耳だけを頼りに感覚を研ぎ澄ませた…。左後方20メートル。足音があからさまに乱れたのがわかる。向こうも歩みを止めている。
大丈夫だ。まだ気付かれてない。…2、3、4人か。まだいるかもな…。
こちらが尾行されている事に感づいた事を、連中に知られてはいけない。
…まくか?いや、どんな奴らか確かめるのが先だ。
向こう側にシャッターが閉まった廃工場が4棟並んだ広い場所が見えた。
足運びにわざと緩急をつけながら携帯片手に歩みを止めては、さらに聞き耳を立てる。
間違いなく四人だ。連中の中にデザートブーツを履いた奴が多分いるはずだ。明らかに尾行慣れした感じではない。数を頼りにすればどうにでもなるとでも考えているらしい。
…甘いんだよ、お前ら!
勇樹はいきなり工場と工場の間の狭い道を目掛け、全速力でダッシュした!
廃工場の向こう側にはもう民家しかない。
短距離走なら陸上部にだって引けをとらない自信がある。あの狭い道でどんな奴らか確かめてやる!
乱れる足音。荒い息遣い。ゴールはもう目の前だ。
後方から喚き声がする。
両側に工場の白い壁。
思ったより狭い。
薄暗い闇を切り裂くような向こう側の白い光…。
さあ!卑怯者共!薄汚いそのツラを拝ませてみろ!
勇樹はそこで始めて後ろを振り返った。
金髪や茶髪に染めた勇樹と同じか少し年上くらいの柄の悪い男達が四人、猛然と勇樹目掛けて
「逃がすか馬鹿野郎!」
だの
「殺されてぇのか、コノヤロウ!」
だのと獣じみた声で吠えながら迫ってくる。
スカジャンにミリタリーパンツ。だぶだぶのヒップホップのTシャツにスポーツキャップ。レザージャケットにサングラスに不精髭とどいつもこいつも今時の若者風の服装とスタイル。
手にはご丁寧にも特殊警棒を持った奴や拳にメリケンサックを嵌めた奴もいる。あの分では懐にナイフやスタンガンを所持している可能性も高い。
少し走らされたくらいで殺気立って襲ってくる辺りが単純で馬鹿だ。
…誘い出されたとも知らずにな!
勇樹は相手が追い付くぐらいまでわざとスピードを落とし、相手との距離を素早く目測する。
8メートル…6…4…
…今だ!
勇樹はいきなりピタリと足を止め姿勢を若干低くし、左足にぐっと体重を乗せると、右足を左足の方へとぐるりと大きく回してクロスさせるように体を捻った。反動をつけ、そのまま渾身の力で思い切り身を翻し、敵のいる後方へと右足を突き出す後ろ回し蹴り!
刹那、足の先に伝わってくる鈍い感触。
蹴りは一番前の警棒を持ったスカジャンを着た男の腹部に見事にヒットした。派手な音を立てて特殊警棒が地面に転がり落ちる。
助走と回転による遠心力に加え、相手が突進してくる力も利用したカウンターを喰らった相手は、後方に大きくのけ反るようにして倒れた。狭い中、密集していた後方の三人は堪らない。
「何やってんだよ!」
「どけ!この馬鹿!」
「チキショウ!ぶっ殺してやる!」
互いに口々に押し合いへし合い罵り合っている。
…見苦しい!
総崩れになったならず者の集団を指をくわえて見ている程、勇樹は甘くない。獣が狩りをするように姿勢を正眼に低く構えると、一気に間合いを詰める。
勇樹は二番目にいたサングラスをかけた太った男に狙いを定めると、口と鼻のちょうど中間、人中と呼ばれる急所を目掛けて思い切り正拳突きを叩き込んだ。
「んぶふっ!」
豚が鼻づまりを起こしたような声をあげてサングラス男はもんどり打って派手に倒れた。
動揺した残りの二人を片付けるのは、もはや造作もなかった。乱れる黒い影。
鈍い音とくぐもった声が薄暗い場所に反響する。
数分後…辺りは急に静まり返った。遠くの方から子供が遊ぶ声がする。
「ふん…数に任せて油断してるからこうなるんだ。
魔弾の貴公子をなめるなよ…」
勇樹は戦意を失い、地面で低く呻き声をあげている、ならず者どもに向け会心の捨て台詞を吐いた。
死んだ由紀子が見ていたら拍手で喜びそうなシーンだった事を意識してか、我ながらスカした台詞だと思いながらも、自然とそう口をついた。
…パチパチパチパチ
その時、不意に民家の方向の薄暗い闇の向こうから誰かの拍手の音がした。
切り裂くような光にそびえ立つシルエット。逆光で顔が見えない。
「お見事!まるで狼の狩りのようだね。非常に無駄なくスムーズだ。美しくさえある」
若い男の声。勇樹は男なのに妙に甲高いその声に聞き覚えがあった。
シルエットが次第にその輪郭をはっきりさせていく。そこには勇樹と同じ聖真学園の制服を着た若い男が一人、立っていた。
「須藤…お前か。こんなふざけた真似をしたのは?」
勇樹は吐き捨てるようにそう言うと、現れた男を最大の軽蔑の念を込めて睨み付けてやった。
黒いストレートの長髪を肩まで伸ばした長身で鋭い目つきの男。左の耳には銀の輪の小さな二つのピアス。片側の頬を引きつらせるようにして不敵に微笑みながら、勇樹を見下すような視線を送ってくる。
須藤直樹。奇しくも勇樹と同じクラスで空手部の同輩である。成績も優秀で時期主将候補とも噂されていた男である。
しかし、夜中にクラブで見掛けられたりチンピラのような連中と一緒にいる所を何度も目撃されるなど、成績優秀で頭が切れる割に黒い噂も絶えない、油断のならない男である。
「つれないなぁ…空手部のよきライバルとたまにはパーッと遊びに行こうかと誘おうと思ってたのに。
あ〜あ〜…こんなになるまで殴っちゃって。
…知らないよぉ?先生に言い付けてやろっかなぁ?」不意に勇樹の後ろからゲラゲラと複数の笑い声が聞こえた。須藤の後ろにも何人か人影が現れる。
マズい!挟まれた!
二重尾行…こいつらは囮か…クソッ!須藤の奴…!
勇樹は不敵に薄笑いを浮かべた須藤の顔を憎々しげに睨みつけた。
「お〜!怖ぇ怖ぇその顔!助けてママ〜!ボクちゃんオシッコちびっちゃったぁ!」
途端にギャッハッハッと下品な笑い声が狭い空間いっぱいに反響する。
うるさい。耳が痛む。まるで世界中から嘲笑されているような気分だ。
「ところでお前、さっき面白ぇ事言ってたな?『魔弾の貴公子をなめるな』だっけ?
馬鹿じゃねぇのか、お前?どいつもこいつもあのヤリマン女の川島のアホネタに躍らされてよ。
…まぁ、お前みたいな、おめでたい馬鹿にはお似合いな名前だぜ」
さらに爆笑するチンピラ達の声、声、声…。やかましい!耳が張り裂けそうだ…!
勇樹はこの男を八つ裂きにして殺してやりたいほどの激情に駆られた。それは勇樹の心に生まれて始めて生まれた、明確な殺意の衝動だった。
頭の中が真っ白になる。
「うわぁあああ!」
勇樹は体中から搾り出すようなあらん限りの叫び声をあげ、血が滲む程に拳を握りしめて須藤に飛びかかっていった。
顔面に向けて放たれた勇樹の渾身の正拳を須藤はひらりと上体の捻りだけで反らし、あっさりとかわした。唖然とする勇樹。
空振りで大きく体制を崩した勇樹のくるぶしの辺りを、須藤は右の足払いだけで軽くバシリと打ち付け、払い落とした。
「ぐっ…!」
気が付けば冷たく、硬いコンクリートの感触。
いつの間に倒されたのか四角く長方形に切り取られたような、頭上の景色を見ていた。
地面にしこたま背中を打ちつけたせいか鳩尾の辺りが痛む。受け身を取る事すら出来なかった。それほどに須藤の足払いのタイミングは完璧で素早かった。
不意に視界が暗い影に遮られた。須藤の見下ろす顔が目の前にある。
「ふふっ…哀れだな成瀬。何で自分がこんな目に合うのか不思議だってツラ…
…してるぜっ!」
「…ぐふっ!」
いきなり腹部に激痛が襲いかかる。須藤は勇樹の鳩尾を思い切り踏み付けて吐き捨てるように言った。
「気に入らねぇんだよ、お前が!いつもいつもスカしたツラして俺の邪魔しやがって!
お前が俺から何もかも奪っていく!女どもの視線も!空手家としての名声も!
学校での立場でさえ!
…さあ、言え!
お前はコソコソ何を嗅ぎ回ってる?
川島から預かったアレ(!)をさっさと出せ!」
無茶苦茶に蹴り飛ばしてくる。もはや空手の型も何もあったものではない。ダンゴムシのように丸くなりながら、勇樹は痛みと罵声に必死で耐えた。
須藤の荒い息遣いが聞こえる。
「うぅ…あぅ!」
須藤はいきなり勇樹の髪をむんずと掴むと、しゃがみ込んで自分の眼前に勇樹の顔を持ってきた。
須藤は絶望的な言葉をさらに続ける。
「その分じゃ何も知らないみたいだな。さぞかしあのアブネェ女に骨抜きにされたらしい。だったらいい事を教えてやる。
死んだ川島はな、夜中に街で派手にウリをやってるグループの一人なんだぜ」
「…!」
「けっ!『そんなはずない!』ってか?わかりやすいんだよ。
お前にとっちゃ残念だが、こりゃ本当の話さ。何しろ客が先公なんだからな」
…自分は一体今、何を聞いているのだろう?
何もかもが真っ白だ。
自分の存在全てを否定されたような絶望と後悔。
無知という己の罪を呪いたくなる。
信じてすらいなかった己を縛りつける運命という名の不可視の鎖に、今や勇樹はがんじがらめだ。
…なんだよ…これ…。
勇樹は痛みと屈辱と侮蔑にもはやボロボロだった。知らず涙が滲む…。
「アッハッハッ!
見ろよ!コイツあんだけ派手に暴れといて泣いてやがるぜ!」
周囲からまた一際甲高い笑い声がこだまする。勇樹は滲む視界の中で自分を見捨てたくなる。
強がってみてもどうにもならない現実がある。
何一つ為す事もなく一生を終えてしまう人もいる。
絶望と苦悩の先にある生に意味なんてあるのか?
僕には何もない。だから何もかも別世界の出来事なんだろう。
…もう何も見えない。
…何も聞こえない。
須藤は無理矢理に勇樹を立たせ、軽蔑したような一瞥をくれると、もはや壊れた玩具に興味を失った子供のように、ぞんざいに勇樹の胸をどんと押した。
勇樹は再び大の字になって仰向けに冷たいコンクリートへと倒れた。
「さあ、待たせたな!
煮るなり焼くなりお前達の好きにしていいぞ!
…パーティータイムの始まりだ!」
高らかに須藤が宣言する。…正にその時だった!
先程と同様に地面に倒された勇樹は切り取られたような壁と壁の間の空に、先程までにはなかった、得体の知れない影を見た。
あれは…
…アレは何だ!?
影だ。黒い影が閃光のように空から降ってくる!
馬鹿な…!あの形は…
悪魔…!?
そう、まるで翼を広げた真っ黒な悪魔が遥か上空から猛然と飛来してきたかのように勇樹には見えた。刹那、勇樹の体が空中に浮き上がる。
何だよ…これ!?
黒い影は勇樹を素早くさらい上げると、須藤とは反対側に六人固まっていたチンピラ達の隙間を擦り抜けるようにして、廃工場の前の広い場所に踊り出た。
須藤を始め、チンピラ達も、そして捕まった勇樹でさえ今の一瞬のうちに何が起こったのか、まるでわからなかった。
正に電光石火の一瞬の出来事だった。
気が付けば、勇樹は夕暮れ時の、真っ赤に鮮やかな暁の空の真下にいた。
ギャアギャアと、けたたましい声で鳴くカラスの声が聞こえる。
長い間、薄暗い場所にいたせいか沈みゆく赤い太陽が眩しくて一瞬目が眩む。勇樹ははっとして体を起こした。
いつの間にそこにいたのか眼前には真っ黒な服を着た一人の男の背中が見えた。男は首だけを動かして勇樹の方を振り返る。
思わず見とれた。
勇樹は今までに、これほど整った顔立ちをした男を見た事がなかった。
風になびく黒髪のストレートヘアー。細く鋭角的な眉に蝋人形のような白い肌。眼光鋭く勇樹を見つめる目はカラーコンタクトでも付けているのか、瞳の部分が透き通ったような緋色をしている。
アサシンジャケットというのだろうか。映画に出てくる殺し屋が着るような裾の長いレザージャケットを着ている。上半身と同じく、下も黒い光沢を放つレザーパンツ。履いたロングブーツまで黒い。
まるで非日常の世界から飛び出してきたような恰好をしている。
「随分こっぴどくやられたな。…立てるか?」
男は勇樹へと問い掛けた。低く、落ち着いた声。
ぶっきらぼうで愛想はないが聞いていると妙に安心する、温かみのある声だ。
「大丈夫…です…。
あの…あなたは一体…」
「話は後だ」
男は勇樹を庇うように一歩後ろへと身を引いた。
須藤を始め、街のチンピラ達が一斉に周囲を取り囲んでいく。
「おやおや…パーティーに突然の珍客の登場かよ?
…お客様、招待状はお持ちで?
残念ながらご紹介のない方の御来場はお断りさせて頂いております」
須藤のおどけた立ち居振る舞いに再びギャッハッハッと何がおかしいのか、周囲のチンピラ達は下品な声で笑う。
「オッサンが調子くれてんじゃねーぜ」
「さっさとホストクラブにでも帰りな!」
「ギャハハハ!営業行かなくていいのかよ!ホストの基本はキャッチだろ!」
クッ…
「早く帰ろうぜ!奥さん泣いてるよー」
「いる訳ねーだろ!こんなおかしな奴によ!」
…クククッ…
「成瀬ちゃんのケツが好みなの〜?」
「ってか、もうヤッたんじゃねーの?」
「あの夜が忘れられないの〜ってか?ギャハハ!」
…クックックックッ…
突然チンピラ達の声がピタリとやんだ。
勇樹は黒衣の男を見る。
男は顔を下に向け、細かく体を揺すっていた。
クックックックッ…
笑っている…。
「テメェ!何を笑ってやがる!自分のこの状況がわかっ…おぶっ!」
男はいきなり叫んだ近くにいたチンピラの顔面を掴むと、殴りつけるようにして思い切りコンクリートの地面に叩きつけた。
「ピーピーうるせぇよ」
…速い!動きがまるで見えなかった…。
男はピクピクと細かく痙攣しているチンピラを見下ろすと、今度は思い切り足で踏み付けた。ベキリと嫌な音がした。
肋骨の何本かを確実にへし折られただろう、哀れなチンピラは口から泡を吹いて完全に失神している。
「そのまま這いずって地べたを嘗めてな」
男は口の端を吊り上げるようにして不敵に笑みさえ浮かべていた。驚く程に端正な顔立ちからは想像もつかない、そのぞっとするような冷たい微笑みは須藤などとは比べものにならない圧倒的な存在感があった。
勇樹も須藤も、周りにいた若いチンピラ達も呆気に取られたように、謎の男をただ見つめていた…。
周囲はいきなりの静けさに包まれた。冷たい風が一陣吹き抜けていく…。
「何、テンパってんだ!こんなスカしたホスト一人、さっさと片付けろ!」
須藤の恫喝の声が響く。
「お〜!怖ぇ怖ぇその顔!ママ助けて〜!ボクちゃんオシッコちびっちゃう〜!…ってか?
クックックッ…最近のガキ共は年上に対する口の利き方も知らねぇらしいな。
生憎ホストなんてボロい商売してねぇよ。
ハッ!馬鹿で頭の悪いガキ共を飼い慣らせねぇ、お前らのバカ親もバカ教師共も終わってんな。
学校教育の荒廃ぶりを実感するぜ」
男は片方の眉だけを吊り上げ、究極に小馬鹿にしたような表情で、須藤を見下すようにヘラヘラと笑いながらそう言った。
「ウタッてんじゃねーぞ!この野郎!」
黒い男の後ろにいた別のチンピラが男に飛び掛かっていく。右手にはぎらりと光るバタフライナイフを握っている。
…危ない!
と勇樹が思ったのもつかの間、男はくるりと振り向くと、なんと自分からナイフを握った右腕に向かっていった!
ボクシングのクロスカウンターのように刃を持ったチンピラの右腕に自らの右腕を絡め、その反動を利用してぐるりと回ると、そのままチンピラの頭を掴んで近くにあった工場の閉まったシャッターへと顔面から叩きつける。
ガシャーンと派手な音がした。ズルズルと引きずるようにチンピラは俯せにくず折れた。錆の浮いた青いシャッターには生々しい血の跡が縦に線を描くようについた。
衝撃で折れるか欠け落ちるかしたチンピラの歯が無残に散らばっている。
…正に悪魔だ。
「どうした、ガキ共。
威勢のいいのは最初だけかよ?オジサンともっと遊ぼうぜ。
早くイッちまっちゃ男としてカッコつかねぇだろ?
…早漏君は嫌われるぜ」
黒い悪魔は不敵な姿勢を崩さず、チンピラ達をさらに挑発する。
ジャケットの下には何も着てはいない。
しかし、しなやかで隆々とした筋肉に、幾つもついた古い裂傷や切り傷が、男の並々ならぬ鍛錬と経験してきた修羅場の数を物語っていた。
左手にはこれまた黒いレザーグローブをすっぽりと嵌めている。右手には何も着けていない所を見ると酷い火傷か何かの跡があるのかもしれない。
「馬鹿野郎!一人一人かかっていってどうする!さっさと痛めつけてやれ!殺しても構わん!」
須藤はもはや半狂乱でチンピラ達に命令している。
勇樹は改めて黒い男をまじまじと見た。
不思議な男である。年の頃は24、5才といった所だろうか。しかし立ち居振る舞いはひどく落ち着いているし、整った顔立ちは青年にも少年のようにも見える。須藤を含め、10人ぐらいのチンピラ達に取り囲まれていても、まるで物怖じした様子がない。
須藤の恫喝にチンピラ達は一斉に男を取り囲んだ。
勇樹の周りにいた者達ですら全員、この不思議な男の元に集まった。
男はその時、勇樹をじっと見つめてきた。意味ありげな視線。次いで須藤にチラリと視線を向け、再び勇樹を見つめる。
先程までヘラヘラと須藤達を挑発していた男と同一人物とは思えないほどに、その澄み切った赤い瞳は無言で勇樹に語っていた。
…ザコは任せろ。お前は奴に借りを返せ。
その瞳は静かにそう語っていた。
須藤は男に気を取られ、こちらに気付いていない。周りのチンピラ達もだ。
このまま首謀者を逃がす訳にはいかない。奴の退路を断つなら今しかない!
勇樹は深く深呼吸を一つすると、両手をぐっと握りしめ、そして開く動作を繰り返す。四肢に力を込め、上体をぐっと起こす。
…大丈夫だ、動く。
思ったより痛みはない。このぐらいの打ち身程度なら慣れている。
勇樹は気付いた。
不思議と自分がいつの間にか心静かに落ちついている事に。あの黒い男の不思議な色をした赤い瞳に見つめられると、どんな閉塞した困難な物事もたいした事がないような気がしてくる。
勇樹は再び立ち上がると、須藤の後方へと猛然と駆け抜けた。
恐怖、悲嘆、疑惑、憎悪、苦痛…そうしたネガティブな感情を乗り越えた先に存在する、新たな境地を今、勇樹はひどく澄んだ思考で客観視できた。
獣のように純粋に意識と運動機能がリンクする…それは人の闘争本能を究極的に高めた状態。
魔弾は今、放たれた。
乱れきった悪意の連鎖を断ち切るべく舞い降りた、黒い悪魔の引き金によって… |