悪意の胎動
6
耳慣れない異国の言葉のような読経の声が辺りに響き渡っている。
袈裟を着た僧侶…。
白と黒の控えめな色をした鯨幕のコントラスト…。
黒い喪服の老若男女…。
香典に彼岸花…。線香のつんとする香り…。
葬式の匂い…。
いずれも貴子には馴染みの薄いものばかりである。まるで別世界にやって来たような気持ちだ。
制服姿の生徒達や由紀子の親戚、親族達の啜り泣く声や鳴咽の声に混じって玄関先の方からは、各報道局のマスコミのリポーターが、おそらくはTVカメラに向けてここぞとばかりに話しているのであろう、生中継の声が聞こえてくる。静かで厳粛であるはずの葬儀を掻き乱す騒がしい空気が伝わってくる。
貴子は線香の香りを嗅ぐ度に幼い頃に遊び回ったお寺や神社の境内の、苔むした湿った匂いや水の肌触りなどを思い出す。
湿った苔で滑って転んでしまった事や、大きな蜂に刺された事、叢から突然這い出してきた蛇に驚いて泣いてしまった記憶なども同時に思い出してしまう。神社やお寺独特の静謐な静けさとひんやりとした空気が子供の頃の無邪気な好奇心をくすぐったのだろう。
そうした記憶に眠った五感に直接感じられる、身近で否応なく想起される人の死の臭いは、仏式の葬儀の方が基督教式のそれよりもリアルに感じた。
6月21日午後1時30分。
事件から二日経って貴子はようやく本来の自分を取り戻せるまでに復調した。
涙が嗄れ果てるまで泣いたからという訳ではないし、死んだ由紀子の分まで生きようと心に誓った訳でも、ましてや自分は自分だと割り切って生きようと決めた訳でもない。
貴子はそこまで達観してはいない。死んだ友人を抜きにして今後の身の振り方を決める程、薄情でも自分本位でもないし、かといって後追い自殺など考える程に死を単純化、複雑化したりドラマチックに出来てもいなかった。
様々な割り切れない思いを抱えている自分を今の不安定な自分が支えているというだけの話で、ひどく半端なポジションである。
昨日の夜もやはり眠れなかった。頭は覚めているのに身体の方は鉛をコーティングしたかのように重い。
覚醒した意識とけだるい身体の狭間で貴子を揺り動かしているものは、昨日の帰り際に成瀬勇樹の語った聖真学園で昔起こったという殺人事件の話だった。勇樹はひどく沈痛な面持ちで貴子に話してくれた。
12年前、山内洋子という自分達と同じ二年生の女子が担任の教師に殺害されていた事…。
凄惨な黒魔術の儀式のような殺害現場の状況…。
殺人犯と思われる竹内真という男性教師が抱えていた、いじめという闇…。魔術書に傾倒していたという、いびつで風変わりな趣味と嗜好…。
勇樹は例の時計塔の魔術師という、貴子が学校の怪談話だと思っていた話についても聞かせてくれた。
なぜ12年前の事件にそれほど詳しいのか…そしてなぜ由紀子を取り巻く不可解なこの事件に、勇樹自らが固執するのかは詳しく話してはくれなかったが…。
地の底から響いてくるような読経の厳かな声の中、貴子は睫毛が長く、中性的で端正な顔立ちをした勇樹のひどく真剣な表情を思い出していた…。
「僕も部活の先輩や友達から聞いた事があるってだけなんだけどね…。この学園に古くから伝わる七不思議というか怪談話についてはさ。ところで貴子はこの学園の七不思議…いくつ知ってる?」
「ええと…『後ろに立つ少女』でしょ?『開かずの音楽準備室』に『血の涙を流す美術室のマネキン』。
…それから『十字架裏の大蜘蛛』と『屋上の13階段』に…あとは…うーん…ゴメン!あとわかんないや」
「『正餐室の怪人』に『時計塔の魔術師』…。
…なんだ、けっこう知ってるんじゃないか」
「うん…話してるうちに思い出してきちゃった」
「まぁ、そんなもんだろうね。
12年前に起こった事件なんて僕らくらいの生徒はたいてい知らない。昔、人が死んだんだとは人の噂とかで知っていても内容まで知っているかといえば、やはりわからない人の方が大半だと思う」
貴子は頷く。勇樹の淡々と淀みなく語る口調は不思議な説得力を持っている。映画かアニメのような特徴的な声をしているせいもあるが、思わず引き込まれそうになる。勇樹は続ける。
「なのに時計塔の魔術師といえばこの学園のたいていの生徒は知っている。
内容はともかく怪談話の類なのだとは生徒に限らず、殆どの人が知ってる」
貴子は頷く事しかできなかった。言われてみれば確かにそうである。
「この話には裏がある。七不思議や怪談話なんていかがわしいものは、厳密にいえば分けられて当然なのに聖真学園じゃさも当たり前のようにセットで語られるしその境界も曖昧だ。
そして、現代じゃ意味不明で理解不能な怪談話が多い中でここでは七つに限定され、しかも名前まではっきりしている。
なぜこんな事が起こると思う?現実に起きた殺人事件より怪談話の方がリアリティがあるなんてありえないだろう?」
「過去の事件は隠蔽された…って話?」
貴子は訝しげに勇樹に問い掛けた。
「学園ぐるみで徐々に、しかし確実に、何年もかけて事実を曖昧にしていったのだろうね…」
勇樹はそこで咳ばらいを一つすると今度は低い声で語るように話し始めた。
「ある生徒が忘れ物を取りに夜の学園に忍び込んだ…すると誰もいないはずの時計塔に薄くぼんやりとした光が見える。
生徒は気になって時計塔に行く。そこには…
何百本もの蝋燭…地面には巨大な魔法陣…。
黒いローブを着た、目がぼんやりと黄色い皺くちゃの老人が黒魔術の儀式を行っていた。生徒は叫び声をあげた。ついにその日、家には帰ってこなかった…。
次の日、時計塔に彼の忘れ物のノートと学生服や身に着けていた物だけが取り残されていた…。
夜に時計塔へ入ってはいけない。入った人間は裸にされ、呪いの儀式のイケニエにされるから…」
勇樹はそこで意味ありげに貴子を見つめた。これが学園に伝わるという時計塔の魔術師の怪談なのだろう。貴子は思わずぶるりと身を震わせた。結構怖くて嫌な話だ…。
「これを意図的に流行らせた人間が過去に確実に存在したはずだ。いや、正確には事件当時から学園の先生達を通じてさりげなく生徒達へ、そして学園関係者へと徐々に、しかし確実に浸透していったと言うべきかな…」
貴子は勇樹の言わんとする事を理解できた。
過去の事実を遡って完全に隠蔽する事は難しい…。では形を変え、歪曲し、ある程度正確な事実に基づいてあからさまに示されていたとしたらどうだろう?人はそれを事実と受け止めるだろうか?真偽を確かめる依然に、これは怪談話であるという既成事実が前提としてあるのだ。
「これがいわゆる情報操作さ。これを伝播させた人間は実にそのやり方を心得ているといっていい。
これが短時間で人の記憶を改竄しなければならないといった突発的な事態になれば、薬を使った洗脳や催眠誘導といった荒療治になるんだろうけど、学園の風評を最低限保つという目的の為には実にうまいやり方だといえるね。もっとも、今の世の中、完全に事実を改竄しようなんて無駄だけどね…」
勇樹は自分の携帯電話に付いた銀色の十字架のストラップをくるくると西部劇に出てくるガンマンのように回しながらそう言った。
インターネットのブログや噂を扱ったサイトで調べた内容なのかもしれない。
「けど…どうしてそこまでして当時の学園の先生達は殺人事件を隠蔽したかったのかしら…。
…放っておいても人の噂なんて、時が経てば波が引くように忘れられていくものなんじゃないの?
そこまでして隠さなければならない学園の秘密ってなんなの?」
貴子は勇樹に問い掛けた。なぜか、今は勇樹の立場に懐疑的な姿勢でいなければならない気がしたのだ。
勇樹はその質問に既に解答を用意していたのか、さほど間を空けずに応えた。
「そこだよ。僕がさほど良くない頭を酷使したのは。けれど少し考えて、昨日の夜にようやくそれらしい事実を突き止めた」
勇樹は携帯電話のインターネットの1ページと思われる部分を開いて貴子へと渡した。
顎をしゃくって貴子へと示す。読んでみろという意味だろう。
「今やどの世界でもお馴染みの2チャンネルだよ。
電車男は知ってるかい?
こいつは匿名の掲示板なんだけどね…。社会、学校の項目にウチの学園の名前もある。大半がガセネタだったり人の悪口だったりするんだけど…その下から二番目に気になる事が書いてあるのがわかるかい?」
貴子は言われた通りの部分をドラッグしてみる。
「…!何これ…」
そこには誰が書いたものかこう書かれていた。
272:時計塔の魔術師
06/20・22:37
死んだY・Kは誰にでもすぐヤラせる女で超有名。
死んだY・KのクラスのY先生は昔、双子の妹を学園で殺されている。
保健室のM先生は理事長の娘で親のコネで校医をしてるだけで頭はよくない。
理事長は昔、校長で当時、生徒指導部顧問だった今の校長と昔の事件を必死で揉み消した。
体育のUは過去に婦女暴行の容疑で書類送検寸前までいった男。
教頭はセクハラ容疑で過去に訴えられた経歴あり。
家がそこそこ金持ちの癖にただ刺激が欲しくてウリをやってる女生徒のグループがある。
年齢詐称してホストクラブで働いてる男子生徒達もいる。
新宿の秘密クラブでクスリをやるパーティーに参加して、処分すらされていない生徒達もいる。
イジメで不登校のあいつもこいつも、もうじき自殺するだろう。
この学園は終わってる。
教師も生徒も皆、死んでしまえばいい。
皆、狂って死ねばいい。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね…
貴子は思わず口元に手をあてた…強烈な悪意が文章を通して伝わってくる…吐き気がこみあげてきた。自分の顔色は今、真っ青のはずだ。
「この時計塔の魔術師とやらが何者で、何の意図があってこんな事をするのかはわからないし興味もない。ただの悪戯目的の愉快犯かもしれないしね。
残念ながらこいつが誰なのか突き止める術は僕らにはない。
ただ…そこに書かれてる事は根も歯もない嘘ばかりでもない…。植田や教頭の名前なんて実際に新聞に載っていたしね」
「調べたの?」
「うん…あまり気は進まなかったけどね…」
貴子は勇樹の態度に少し腹が立った。触れられたくない傷なんて誰にでもあって当たり前だ。なのに…
「じゃあ何?由紀子が誰にでもヤラセる軽い女だとでも言うつもり!由紀子はそんなコじゃないわ!」
「わかってるよ!
貴子…なぜ僕がお前にこんな話をしてると思う?
お前が由紀子の1番の友達だって知ってるから話してるんだ。
お前には覚えていてほしい…これから先、川島の事はクソ忙しい世の中のありふれた日常の出来事として、たいていの人は徐々に忘れていくんだ…。
そんなのあんまりだろ!
僕だってそんなのは嫌だ。川島は…川島は僕の…」
勇樹は目を伏せ、拳を血が滲み出そうな程、固く握りしめて震わせていた。
勇樹も由紀子が好きだったのかもしれない…。由紀子が実は勇樹を好きであったように…。
貴子は知っていた。由紀子が本当は誰に思いを寄せていたのかを…。二人の願いはついに叶う事はなかったけれど…。
少しだけ妬けた。
「勇樹…ゴメン…私、ついカッとなっちゃって…。
…ねぇ、教えて。どうして由紀子の事にそこまでこだわるの?素人探偵の単純な好奇心って訳じゃないでしょ?」
「うん…なんて言ったらいいのかな…学園中に吹いてる、この嫌な風のせいかもしれないな…。
得体の知れない過去から今へと続くこのおかしな歪みをなんとかしたいとでも思ったのかもしれない…。
とにかく気が済むまで調べてみたいんだ。出た結果がたとえ自分にとって最低で面白くないものであっても構わない」
勇樹は精悍な眼差しで貴子の目を真っ直ぐに見つめてくる。まるで心の底を見透かされているようだ…。
慌てて貴子は視線を逸らした。恋愛沙汰には臆病で慎重な貴子でも変な気持ちになってしまう…。
「調べてみて何も出なかったら?」
「そんなのは始めから覚悟してるさ。
とにかく…今は川島の為に…いや、自分の為にも何かしていたいんだ。何もしないまま普通の日常に戻りたくない…」
勇樹は微かに目を伏せ、携帯電話を制服のポケットに戻しながらそう言った。
「わかった…私に出来る事があったらなんでも言ってね。
私でも力になれるかもしれないから…」
「ありがとう…早速で悪いけど一つ頼みがある」
「うん、なぁに?」
「例のスレッドに名前が載っていた人達の今後の動向を注意して見ててほしい。僕は昔の事件をもう少し調べてみる。
一人より二人。別々にアプローチといこう。お互いさりげなく、なるべく目立たないようにして…」
「わかった。勇樹も気をつけてね。先生とかに知られたら厄介だから…」
勇樹は神妙に頷いて、薄暗い曇り空の中、一人街へと消えていった。そのどこか悲壮感さえ漂う後ろ姿は、貴子と同じかけがえのないものを失った喪失感からきているのだろうか…。
けれど勇樹は貴子のように頭を垂れて俯いてなどいない。真っ直ぐに前を見て、捉え所のない現実を見据えようと必死で足掻いているように見えた…。
読経が終わり、一礼すると静々とした動作で僧侶は帰っていった。
そして制服姿の生徒達が一列になって一人一人、焼香を済ませては、合掌していく。勇樹は風邪を理由に今日の葬儀は休んでいた。
もちろん仮病だろう。
明日の校内葬に出席するつもりでいるのだろう。
貴子は列の正面にある由紀子の遺影を見つめた。
顔の左側に笑窪を作って微笑む、貴子のよく知る笑顔の写真だった。
『由紀子…見てる?
強いよね、勇樹は…。
由紀子の気持ち…今ならわかる気がするよ…』
貴子の順番が回ってきた。貴子は目を閉じ、合掌しながら心の中で由紀子へと語りかけた。
『当たり前だよ!私が好きになった人だもん』
もし由紀子が生きていたらきっとそんな答えがかえってくる気がした。
貴子は自分のクラスの列へと戻りながら、さりげなく学園関係者のいる方へと視線を向けた。
スレッドではイニシャルしか名前のなかった人物達が目の前に、そして期せずして全員が揃っている。
黒い喪服に身を包んだ大人達はいずれも顔を伏せたり、生徒達の様子を窺っているように見えた。
貴子は一人一人を仔細に観察していった。
校長の村岡義郎…。
スレッドの書き込みによれば彼は殺人事件を隠蔽する為、怪談話という回りくどい情報操作によって学園内部に幾つものタブーを仕掛けた張本人であるらしい。
グレーの髪を七三に撫で付け、黒縁の眼鏡をかけた55、6才くらいの厳格そうな男である。口をへの字に結び、眼鏡の奥の神経質そうな目が生徒一人一人を監視するように向けられている。
狡猾で用心深そうという第一印象を誰もが抱く事だろう。
教頭の羽賀亮一…。
過去にセクハラで訴えられた経歴を持つ男。学園の生徒達の間では、おそらく一番人気のない教師だろう。
学校の体面と自らの保身を第一主義にしたような態度や言動が貴子も好きになれなかった。
事実を知ると、この男ならいかにもやりそうだ…といった印象は受ける。
担任の山内隆…。
12年前に双子の妹を担任に殺害された男。
彼がなぜ最も憎むべきはずの教師という職業を選び、なぜよりによってこの学園に今いるのか…。貴子はこの妙な偶然に何かしら不吉なものさえ感じ始めている。
山内は目を伏せ、短く刈ったスポーツ刈りの髪に手をあてて悩ましげな恰好で微かに震えていた。
彼は二度も同じ学園で肉親の、あるいは自らが担任する生徒の死に関わった被害者という事になる。
保健校医の間宮愛子…。
その肉感的なプロポーションで何人もの男子生徒を誘惑しているらしい女性。
理事長の娘というコネを使って校医をしているという事らしいが、それ事態さほど驚く事ではない。むしろ皆、知っている事である。聡明で人当たりのいい、感じのよい先生だとは思うが…。
生徒指導部顧問である体育の植田康弘…。
婦女暴行容疑で書類送検寸前までいったという過去を持っているらしい。
いかにも体育教師らしい大柄で頑健な体格をした色の浅黒い男である。
36才という年齢を感じさせない若々しい肉体だが、つり目と太い鋭角的な眉毛が無言で周囲を威圧しているように思える。実際に指導される生徒達には怖い印象しかない。
確かに教頭とは違う意味でいかにもこの男なら有り得そうな話だ。
12年前の事件を契機にした今回の由紀子の事件に、果たして彼らがどのような関わりを持ち得るのか、貴子には正直わからない。例のスレッド板の噂にした所でどこまで本当なのかはわからない。
しかし…明らかにこの学園には勇樹の言った通りの嫌な風が吹いている。得体の知れない何者かの悪意と不可解な謎に満ちている。
そして勇樹は根拠や裏付けもなしに思い切った事を言ったりはしない。それは貴子にも断言できる。
葬式の匂いに五感が慣れてきたのか、今はさほど気にならなくなってきた。死者を悼むべき葬式の気配に同調し、呼応するかのように膨れ上がる人の悪意という悪心に貴子も慣れ始めてきたのかもしれない…。
朝方降り続いていた強い雨はやんでいた。帰りは傘も必要なさそうだ。
それでも地面は黒々と濡れそぼり、薄暗い空の灰色を映して街はくすんだ色に染まっている…。
六月は狂える季節…
昔何かで読んだ物語の、そんな一節を貴子は思い出していた。
役者は揃い始めている。
やがて迎えるであろう第二のステージはその時、着々と蛇が鎌首をもたげるように徐々に迫っている事を貴子はこの時、まだ知らなかった…。 |