暗転
20
急がなきゃ…!
勇樹は走っていた。駆けて駆けて、駆け続けていた。
怒り…焦り…不安…。
様々な感情が、ない交ぜになっていた。頭の中は沸騰しそうで、もう何も考えられなかった。ただひたすら、勇樹は自分の愚かさを呪いながら駆けた。
目黒川沿いの土手の上を、死に物狂いで2キロは走ってきただろうか。
先ほどまで周囲を束の間、真っ赤に照らしていた夕焼けの代わりに、今や黒々とした不穏な暗雲は、空一面を覆いつくしていた。
恐ろしく風が強い。
気持ちばかり逸る。
走れども走れども腕といわず脚といわず、全身の筋肉はおこりがついたように焦るばかりで、ちっとも前に進んでいる感じがしない。悪意に満ちた突風に、後ろから襟首を掴まれているような感覚だった。
真剣勝負の試合が決するまでの瞬間がひどく長く感じたり、一瞬の出来事がスローモーションに感じたりする、あの時間感覚の矛盾にも似ている。頭を無茶苦茶にかきむしって『しまった!』と突然叫び、事件現場へと慌てて走っていく金田一耕介は、多分こんな気持ちだったのだろうか。
ふと、来栖要の端正で無表情な顔が頭をよぎる。
まさか…。
『楽園の花園からお迎えが来たらしい』
『このまま放っておけば、また人が死ぬぞ!』
この事だったのだ。勇樹はようやくわかった。
来栖はこうなる事を予期していたに違いない。
吐く息も荒く、優樹は街を駆け抜けた。学園の女生徒達の間で人気のある、屋台のクレープ屋さんが見えた。
走り過ぎる。今度は買い物袋を手にしたおばさんの一人と危うくぶつかりそうになって優樹はすれ違い様、慌てて謝って走り過ぎた。おばさんは優樹をひどく不思議そうに見つめていた。
いつも通学に利用するバス停通りを抜けると今度は一直線な坂道にさしかかる。恋愛坂と呼ばれている坂道だ。
実際の名前はもっと別の名前だったように思う。春には満開になる桜並木を意中の人と2人で並んで歩けば、その人と結ばれるとかいう噂がある坂道だ。
まるで愚かな勇樹を嘲笑うかのように、何台もの車やバイクが脇をすり抜けていく。強風も手伝い、その度に華奢な勇樹の体は吹き飛ばされそうになる。
神経を逆撫でするような轟音とアスファルトの磨滅する匂い。…心臓が苦しく、肺が嫌な匂いの排気ガスで充たされる。
普段慣れ親しんでいるはずの学園までの道のりがこれほど遠く、これほど長く感じた事はない。
額の汗を拭った。
汗ばんだ背中がやたらと気持ち悪い。ブレザーを脱いでくればよかったと、ひどく後悔する。
薄暗い坂道。後ろへと流れる周囲の景色。
日常と非日常…。
まるで違う世界に入り込んだような薄暗い、人気のない恋愛坂は異世界への入口にさえ思えた。
道路の轍に足を取られ、危うく躓きそうになって、勇樹は前のめりにバランスを崩した。
クソっ…!
坂の中程で立ち止まり、勇樹は胸を抑えた。焦りと苛立ち…。心臓は今や別の生き物のようにドクドクと高鳴っていた。傷つき、壊れたCDのように世界が嫌な音を立てて、グルグル回っている。
耳鳴りがした。
目がチカチカする。
勇樹は膝に手をあて、暫し俯いた。真横を大型のトラックが猛然と音を立てながら走り去っていった。
額から滝のように吹き出してくる自分の汗が、顎から唇から滴り落ちて、黒いアスファルトに点々と消えていくのを他人事のように呆然と見つめる。
じっとりと湿り気を帯びた不快な強風は、坂の道にも吹き荒れている。
体中が暑いはずなのに、焦燥感に支配された思いは勇樹を凍てつく悪寒へと駆り立てた。
勇樹は空を仰いだ。
形容し難い曇天が、暗く、重苦しく頭の上に浮かんでいた。いきなり立ち止まって見上げたせいか、立ち眩みがした。
警察による事情聴取、怪我の打ち身や疲労…連日のゴタゴタは疲れ知らずの優樹から根こそぎ体力と気力を奪っていた。
吹き荒ぶ風のせいで景色は歪み、視界も滲む。視野狭窄に陥っている。
…ヤバい。
黒に近い、灰色の雲の流れが驚くほど早い。上空を吹く風は強く、暗い空の向こう側は微かに不穏な唸りを上げ始めてもいる。雷が近いのかもしれない。
ブレザーのポケットから携帯電話を取り出して優樹は時刻を確認した。
液晶のデジタル表示に示された『PM16:37』の文字。
待ち受け画面に設定してある写真には、屈託なく微笑んでいる奈美と優樹の姿が、変わらずに写り込んでいた。今やもう何十年も前の過去の出来事のようにさえ思える。
…いつからこんな、非日常に足を踏み入れてしまったのだろう?
優樹は思う。
闇は光のない所にあるとは限らないのだ。
闇は常にそこかしこに口を開けている。見ないふり、気付かぬ振りでいられるうちはまだいい。
闇という得体の知れない悪魔の手に撫でられた時…、昏い悪意に満ちた誰かの心の深淵を覗いた時…、当たり前だった日常は崩壊し、人はどこかでこうして壊れていくのだろうか…。
緊張で携帯を握りしめる手がぶるぶると震えた。
急がなきゃ…!
優樹は呼吸を整え、意を決し、鬱蒼とした林に覆われた坂の上に広がる闇を睨みつけると、再び薄暗い坂を駆け上がっていった。
チクショウ!何で…、何でこんな事になるんだ!
果てしなく続く暗い坂を駆け上がりながら、勇樹はほんの少し前、数時間前の出来事を思い返していた。
※※※
「…事件の経緯は、まぁそういった所でして」
そう言うと鬼瓦のような厳つい顔立ちをした刑事はすっかり冷め切った茶を飲み干して、勇樹の母親へとクルリと180度回転椅子ごと体を向けた。年齢は40才前後といった所だろうか。大柄な男だ。
太い眉にエラの張った四角い顔。針ネズミのような固そうな髪を短めに刈った特徴のある濃い顔立ち。
左耳がひしゃげて潰れている所を見ると、柔道の心得があるのだろう。頑健で大柄な体格といい、あの花屋敷という刑事にどことなく似ているように思う。
「成瀬君も怪我をしていたようでしたが、幸い軽い怪我だったようで、我々が保護した時には既に怪我の治療は済ませていたようでした。
…まぁ、実際かなりややこしい事情が背景にあったようでしてね」
「まぁ、そうだったんですか…。あの…勇樹がまた何か仕出かしたのかと思って私、不安で…。
仕事先からすっ飛んでまいりました。事情聴取っていうんですか?
他の刑事さんも、何度も同じ事を聞いていたようですから心配で…」
勇樹の母親、成瀬美奈子は先ほどからの平身低頭に加え、後ろの椅子に座っている勇樹をチラリと見た。勇樹は意識的に母親と視線を交わすのを避けた。
勇樹は俯きながらどこか他人事のように、先ほどからのやりとりを聞いていた。
ああ、そういうことでしたか、と言って鬼瓦のような顔の刑事…もとい、柏崎刑事は手にしたノック式のボールペンを忙しそうにカチカチと弄びながら言った。「こうした事件の場合、被疑者の供述と被害者の供述に矛盾する点がないかどうかしつこく尋ねるのは、まぁ我々警察の常套手段でしてね。色々と気に触る所はあったと思いますが、交通事故の処理などと同じで、ただの確認作業ですから心配には及びませんよ。
なんにせよ、とりあえず事情聴取はこれでおしまいですから」
柏崎の言葉に母親は心底ほっとしたようだった。
「そうですか…。
あの…、これから自宅や私の職場…それにこの子の学園に警察の方が訪ねてくるような事はないんでしょうか?」
これだ。大人は結局いつもこうだ。
心配させないでね、誰かに迷惑をかけないでね、と常日頃からしつこいくらい親達が子供に言うのは結局、世間的な体面を気にするせいなのだ。
こんな時の親達の言動は八割方、自分達に累が及ばないかどうかの一点だけだ。残りの二割が多分、親の責任だとか社会的な義務感だとか、そういうヤツなのだろう。
もちろん、勇樹だって母親の理屈を理解できないほど子供ではないが、こうした大人達の慎重過ぎる言動は、時に言い訳めいて聞こえたりするから、うんざりする。
勇樹は自分を助けたせいで捕まってしまったあの探偵のことを思った。
両親以外、兄弟もいない優樹には、あの偏屈で取っ付きにくい男は一時ではあるが、まるでどこか兄貴のように感じてもいたし、いつも近くにいる家族よりよほど信頼できる人物のような気がした。
近くの家族より遠くの他人…そう感じるのは、やはり家族としてどこか壊れているのだろうか?
勇樹はそう考え、少しだけそんな自分が嫌になった。憮然とする勇樹に追い討ちをかけるように、母親は余計な事まで言った。
「普段は女手一つで色々と目に届かない所が多いものですから…。警察が関わる事で世間から色眼鏡で見られはしないかと…」
「ああ、その点に関しては今後はそういった心配は、いりませんよ。
我々が関わるのはここまでですから、成瀬君に何らかの不利益が生じる事もないと思います。その辺はご安心下さい。
少年犯罪の絡んだ事件とはいえ、成瀬君はそもそも被害者ですし、別件…まぁ、この場合は傷害事件の方なんですが、そちらの方が、先ほどから申し上げているように、少し込み入った事情がありましてね…。少年犯罪が絡む事件も、本来なら生活安全課の仕事なんですが、刑事事件となると、これはもう我々の管轄になるんです。
その事件の目撃者でもあるという事で、こちらも調書の作成に多少、手間取っていたというだけの話なんですよ」
「まぁ…そうだったんですか。本当に色々とご迷惑をおかけしたようで、本当にすみません。
…ほら勇樹、あなたも刑事さんにお礼を言いなさい」
母親は勇樹の腕を引っ張ってきて、無理矢理頭を下げさせた。自分でも無意識に、ふてくされたような表情になっていた。
こんな経験は小学校の時以来だ。ケンカで泣かせてしまったクラスの友達の親に謝りに行った時の事だ。あの時は父親が一緒だった。
制服を着た警察官やスーツ姿の私服刑事が、チラチラとこちらを見ているのがわかった。こうしたシチュエーションは彼らにとっては、もうお馴染みの光景なのだろう。母親も大変だよな、とでもいった所か。
自分の身に起きたことだというのに、まるで彼ら同様に他人事のような気もしたから、勇樹はさほど気にもならなかった。…というより、あまりにも非常識な展開ばかり続くので、今さらこの程度で動揺したりはしない。例の出来事以来、勇樹もそうした所は多少図太くなっている。
犯罪者が逮捕されて日常に戻ろうとする過程で動機を聞かれ、初めて落ち着いて考え始める心境も同じようなものなのかもしれない。
「ああ、なんのなんの。お母様の方も仕事があるでしょうし、成瀬君の学園の方には既に連絡は届いていると思いますので、これ以上引き止めておく理由もありませんから、お母様さえよろしければ、もう引き取って頂いて構いませんよ」
「どうも、お手数をおかけして、本当に申し訳ありませんでした…」
美奈子は勇樹ともども再び深々と一礼した。
「幾つか確認したい事もありますが、まぁそれは後日、日を改めてという事にしましょう。
刑事が自宅に伺う際には、前もって携帯電話で連絡するよう徹底しておきますので、お母様もどうかご安心下さい」
慇懃無礼にそう言った時、ちょうど柏崎のデスクの上の電話が鳴った。柏崎は二人に一礼すると再びクルリと回転椅子ごと今度はデスクの方に体を向けた。
母親は黙って深々と一礼すると行きましょう、とでもいうように勇樹の袖を引っ張った。
去り際、後ろから柏崎刑事の声がした。
「はい、刑事課一係。
…ああ、花屋敷か。すぐに署に戻ってくれ。
…あん?魔術師に会っただと?何、訳のわからん事を…。石原君も一緒か。
…まぁいい。とにかく来てくれ。どうもこうも、電話じゃ説明しづらいことになってきてるんだ。
磯貝警部や山瀬医師も、間もなくこちらに来る事になってるから…」
※※※
母親の運転で自宅へと帰る車中、しばらくの間、二人は無言だった。もう昼の2時はとっくに過ぎようとしている。
空腹を感じているだろうと気を利かせてくれたのか、車の助手席には勇樹の好きなカツサンドの包みが置いてあった。
母親の無言の心遣いをそこに感じ、何だか情けない思いでいっぱいになりながら、勇樹はまだ温かいカツサンドを頬張った。
そのいつもと変わらない味に勇樹の胸は痛んだ。どんな説教よりも芯に響く気がした。
…どんな形であれ、心配をかけた勇樹が悪い。
父さんだったら間違いないなくそう言うだろう。警察の厄介になったとでも言ったら、頬に張り手の一つも飛んでくるかもしれない。今さらながら、勇樹は自分の未熟さを恥じた。
母さんがさほど気にしている様子はないのだけが救いだった。
そんな優樹の心を見透かしたように、幾分遠慮がちに美奈子は言った。
「お父さんには…連絡しておいたからね」
「うん…」
「晩ご飯は台所のテーブルの上に用意しておいたから、いつものように温めて食べるのよ」
「うん…ありがと」
「怪我の方は平気?」
「うん…大丈夫」
「相変わらず生傷ばかり作っちゃって…わかってると思うけど、あまり心配かけさせないでね。お父さんにもよ」
「…うん」
「明日からはちゃんと学校へ行くのよ」
「うん…わかってる。
ごめん…母さん」
母親はチラリとこちらを見ただけで、それ以上は何も言ってはこなかった。
それっきり二人に言葉はなくなった。
こんな時でも大人のようにどこか事務的に物事を片づけようとしている自分に気付いて勇樹はほんの少しだけ嫌になる。
『ありがとう』と『ごめんなさい』。
この2つをうまく使えば、家でも学校でも日常生活や対人関係に余計な支障はきたさない。
現代人の処世術といってしまえばそれまでだが、いつからか、自分たち親子の間にもそうした暗黙の了解のようなものが出来上がってしまっているらしい。本当なら、お互いもっと違う言葉を交わせているはずなのに…交わすべきはずなのに…。頭に浮かんでくる言葉の一つ一つは喉の奥の方でこもるばかりで一向に形になろうとはしなかった。
いたたまれなくなって勇樹は言った。
「母さん…ここでいいよ。もう自分で帰れる。ここなら家まで帰るより仕事場…近いんでしょ?」
そう?いいのね、と美奈子はホッとしたような安堵の表情を見せた。こうした親を気遣う台詞が一番安心させる言葉だという事を、幼い時から勇樹は経験で体得している。
勇樹ぐらいの子供を持つ働く親達は、常に2つの事を子供に要求してくる。
『自分の役割を果たせ』と『仕事の邪魔はするな』だ。
幼い時から忙しい父親や母親を見てきた勇樹にはわかる。学校という小さな檻から出れば、大人には新しく社会という名の大きな檻が用意されているのだ。忙しい忙しいとぼやきながらも、仕事をする親達の顔は何だかんだで充実しているように見える。
家族に見せる顔とはまた別の安定した人格とは、常に忙しい、そんな環境の中にこそある事を勇樹も知っている。山内先生には連絡しておくわ。あまり遅くならないうちに帰るのよ、と言いおいて母親は勇樹を途中で下ろし、仕事に戻っていった。インテリアデザインの事務所に勤める美奈子は、しきりに人手が足りなくて忙しいと漏らしていた。最近では夜遅くに帰ってくる事も多い。本来、勇樹などに関わっている暇はないに違いない。
学園の近くで母親とこれ以上いるのは、どことなく気恥ずかしく、そして気まずく感じてもいたし帰宅するにも半端な時間だったから、勇樹にはちょうどよかった。
何より…今は一人になりたかった。
母親の車のエンジン音を後ろに聞きながら一人、何をしようというあてもなく、勇樹の足は自然と人通りの多い駅前の方へと向いていた。普段の通学路。いつも通りの住宅街。
勇樹は深呼吸した。久々に感じるシャバの空気を思い切り満喫する。
学園や自宅からもさほど離れていない、街中といっても半端な距離にある場所である。
近くに目黒川の支流が流れる土手が見えた。来栖と出会った廃工場もこの近くだった。
目黒区祐天寺は東急東横線、祐天寺駅を中心とする街だ。中目黒にある浄土宗の寺院、祐天寺の付近がそのまま地名になっている、世田谷区と目黒区の境界にあたる地域である。
浄土宗祐天寺は1718年、享保3年に増上寺36世住持の祐天が亡くなった後、弟子の祐海が祐天の庵居跡を廟堂として建立したのが始まりらしい。開山は祐天で、弟子の祐海は2世住持にあたる。
その祐天上人にあやかった地名だという話を、勇樹は幼い頃に死んだ祖母から聞かされた。
生まれた時から住んでいる勇樹にしてみれば、一丁目と二丁目しかない狭い町で、鉄道マニアやその筋の人には有名なカレーショップがあってわざわざ足を運びにくる人もいる街…ぐらいの印象しかないが、この土手の向こうに広がるちょっとした高台は勇樹はこの街で一番、夕焼けが綺麗な丘だと自負していた。
丘の上から臨む景色…。遠くの線路から聞こえてくる列車の警笛のどこかノスタルジックな音…、季節ごとに違う風の匂い…、はしゃぎながら登下校を並んで歩く小学生達の姿やカラフルな幼稚園バス…、制服を着て自転車に乗った同世代の若者達の姿…、カバンを携えて腕時計を見ながら忙しそうに通勤するスーツ姿が幾つも通り過ぎ、小さな子供が公園の砂場で遊んでいる姿が見えたりする…。
そんな風景だ。
目黒川沿いの土手に寝転がって見上げる、何年経っても変わり映えのしない見慣れた夕焼け空が、勇樹は好きだった。
駅高架下の商店街にスーパーマーケットがある。駅から放射状に商店の立ち並ぶ通り。勇樹は駅の東口にあるターミナルへと向け、歩いていく事にした。
JR目黒駅から三軒茶屋へのバスが通っている場所である。ここから学園へは比較的近い場所にあった。
まだ昼間の半端な時間であるのか、人通りの少ない乾いた町並みは、どんよりとした空の灰色を写して普段よりも一層くすんで見えた。
高架下の薄い暗がりを歩いていた時だった。柱の陰の死角に、見慣れない異様な姿が覗いた。
「もし…そこの学生さん。ちょっといいかしら?」
透明感のある女性の声がいきなり勇樹を呼び止めた。コンクリートの柱の陰から声だけが聞こえてくる。
「そこのあなた…、さても嫌なモノに取り憑かれているようね。
始まりと終わりは常に中庸の人の気…。境界より生ずる赤い霧に人は誘われる。あなたを誘うその手は魔術師の弓手か、はたまた死神の馬手か…。
正しき星と太陽の導きの下に、迷えし者に祝福の光を授けましょう…。
…あなたの未来、占ってあげましょうか?」
現れたその女はヒラリ、と手に持った何枚かのカードを、トランプのババ抜きの要領で開いた。
占い師だった。紫色のベールをすっぽり頭から被り、薄手のドレスを身に纏った背の高い女性である。その嫌でも目につく破天荒な姿に、勇樹は即座に警戒心を解いた。
…と同時にホッと大きく溜め息をついた。悲しいかな、こうした非常識な展開こそが今の勇樹の日常になりつつある。
「驚いたな…。来栖さんといい、あなたといい本当に神出鬼没なんですね。売れっ子の占い師が、こんな狭い街に出張ってきていいんですか?…アリサさん」
「あら、2日ぶりに会った恩人に随分つれないコト言うのね、ユウキ。
その分じゃ、税金泥棒のクソお巡り共に随分、たっぷりと生き肝を抜かれてきたみたいね。うふふふっ…」
「その滅茶苦茶に間違ってる不吉でガラの悪い日本語…、発音とか完璧で上手いんですけど早く直した方がいいですよ。
その日本語を教えてくれた人…、自分じゃ気付いてないけど相当ハイレベルな変人みたいですからね」
「ふふっ…そりゃね! アイツが変人なのは普段からよッく知ってるわよ。面会ついでにちょっと…ね。ユウキ、時間あるかしら?あなたに伝えなきゃいけない事があるの…」
いつになく真剣な表情のアリサに、勇樹は即座に表情を強張らせた。
※※※
駅前通りから少し外れた、小さな喫茶店に二人は入った。
アリサの占い師のドレス姿はやたらと目立つので、比較的静かな場所を選んだつもりだったのだが、彼女の姿はやはり浮いていると見え、二人は暫く周囲の客や店主の好奇の視線に晒されながら注文を受けねばならなかった。勇樹はこれには少し気恥ずかしくなった。周りの人達には、自分達は果たしてどう映っていることだろうか?
勇樹に至っては制服まで着ている。少なくとも英語の外国人講師と、その生徒には見えまい。滅多に見られない珍奇な組み合わせではあるだろう。
コーヒーを注文すると、アリサはテーブルの上の空いたスペースに裏側に伏せたタロットカードのデッキを広げ、手慣れた手つきでシャッフルすると決まった形に配列していく。
その裏側の絵には勇樹も見覚えがあった。来栖の事務所で見た、泣き笑いのような顔をした太陽の絵柄だったのだ。本当に占ってくれるつもりらしい。
「タロット占いってよく聞くけど、実際に占ってもらうのは初めてです。
…なんだか緊張しちゃいますね」
ふふっ、とアリサは嫣然と微笑んだ。
「そんなに構える必要はないからリラックスしてくれていいわ。
占う方は集中するのが決まりらしいけど、私はむしろゆったりと意識を拡散する事にしてるの。
…理由はないわ。その方が中る気がするだけ」
プロの占い師はそう言うと手慣れた動作で中央に三角形が上下に2つ重なった形でカードを6枚配列し、最後にその二つの三角の中央に一枚のカードを置いた。
テーブルの上にはちょうど六茫星の形が出来上がった事になる。
「この並べ方に何か意味があるんですか?」
「ええ、これはヘキサグラムという展開法よ。
このスプレッドの上向きの三角形がそれぞれ、質問に対する内容やその問題の現在、過去、近い将来の未来を表していて、逆三角形がそれぞれ質問を巡る問題や障害、対人関係や外的要因、解決の鍵となる物事を暗示しているの。
そして、最後に真ん中のカードが質問の最終予想になっているという訳。
これ、普段はあまり使わない並べ方なんだけど、何となく今回はふさわしいような気がしたの」
「インスピレーションってヤツですか…。他にも様々なスプレッドってあるんでしょ?」
「ええ、もちろん他にもたくさんあるわ。
私が知ってるだけでも、まずケルト十字法に、フォーチュンオラクル法、セブンテーリング法にホロスコープ法、変形ヘキサグラム法に大三角の秘宝法にファランクス法にピラミッド法、グレゴリウス法に陰陽法なんてのもあったりするわ。
それぞれ何枚使ってどう配列するかも違うし、それぞれ配列した位置が何を暗示するのかも占う人によって、また解釈の仕方によってまるで違うでしょうね」
「はぁ…凄いですね。霊感みたいなモノが備わってなきゃいけないし、そういう事も覚えなきゃいけない訳ですか?」
「占いに霊感もクソもないわよ。少なくとも私はそんな不可知の力をアテにしたりしないわ」
よく中ると評判の占い師は、はっきりとそう言い切った。
『私、霊感があるんだ』などと自称してタロットを始める生徒を勇樹は学校で見た事があるが、神秘的な力の介在を全く認めない占い師というのは、勇樹は初めて見た気がする。
「霊感占い師なんてのは世間ではまま聞くけど、それは広義の占いの理論に霊感という力を当てはめて、商売するスタイルだというだけの話ね。
勘違いしてる人が多いけど、タロットに限らず占いというのは、いわゆる学問と同じなのよ。
六星占星術だの黄道12星座だの、陰陽五行に易学に観相学と占術理論は世界中に様々あるけど、要はその占いの理論を学び取りさえすれば誰でもできるものだし、そう難しいものではないわ。
自分なりにアレンジしていてもどこかにルーツは必ずある。模倣犯による犯罪と同じね。要するに勉強すればいいんですもの」
「後半の喩えはややいただけないですけど、趣旨はわかります。じゃあ霊感はありえないっていう事なんですか?」
「私は信じてないってだけよ。霊感なんてものを持ち出す占い師は本物を除けば、要するに勉強するのが面倒くさかったんでしょ。
それにね、あまりはっきりと未来を言ってしまう占い師というのは信用できないわ。例えば…
『A型の成瀬さんの週末の運勢はやや不調。運気は低迷気味で体調も不安定に陥りやすいので気をつけましょう』。
これなら世間でもよく用いられてる占いの形態だから、指針程度に受け取っておこうか、くらいのソフトな占いだからまだいいの。ところが…
『成瀬勇樹の運気は今年、大殺界に入る。
未来は真っ暗闇。失せ物は出ず、火難水難女難の相に加え、死相まで出ており財産も損失する。
アンタは恋人と知り合って、大恋愛の末に結婚しても長続きしないし、また万一結婚できても伴侶とは長続きしない。ナントカ星人のアンタはそうした星の下に生まれているから、よほどの事がない限り、この運命は変わらない。このままだとアンタ、地獄に落ちるわよ』
なーんて、こんな言い方をするような占い師は、パフォーマンスはともかく占術師としては、もう最低ね。どう糾弾されても仕方ないものだわ」
「あの…喩えるにしても、もう少しマシな言い方にしませんか?アリサさんが言うとシャレになりませんから…」
「そう?大袈裟に聞こえるけど、この業界じゃよくある事よ。
占いの結果が外れていたり、理論の矛盾を指摘されてるのに『未来は常に変化するものです』なんて言い訳する占い師は世間に溢れてるし、自分の言葉に責任を持てない人間はそもそも占い師になるべきじゃない…。私はそう思うわ。
…占いに限らず、実際そういう輩は世間に溢れてるけれどね」
なぜこんな話を始めたのだろう?優樹は先ほどからのこのアリサの言動が少し気になり始めている。何を伝えようというのか全く意図が汲めない。
「それにね…、宗教や神、それに占術がもっと生活そのものに密着していた古代文化では、託宣を間違えたり、外したりした神官や巫女はどうなったと思う?」
「さあ…今よりずっとそうしたその…預言者っていうんですか?
その人の発する言葉の意味は重かった時代なんですよね?凄く重たい刑罰が課せられたとか?」
「死ぬのよ」
「え…」
「殺されるの。仮にも神の言葉を預かり、民を導くべき神の使者に、誤った言葉は許されなかったのよ」
「………」
勇樹が思わず黙ってしまった時、まるで測ったように二人のテーブルにコーヒーが運ばれてきた。運んできた店主はどうやら話が切れるタイミングを待っていたようだ。
Thank you so much、と店主に英語の発音もよく微笑むと、アリサは勇樹に向き直った。
二カ国語を操れる占い師…勇樹が思うに、語学に応用力がある人は、かなり頭が切れるタイプだ。人をコンピューターに喩えるのも筋違いではあるが、設定言語のプログラムを、脳内で即座に変換可能なOSを持つタイプは、許容メモリの面でもビット数でもかなり高性能だ。
さすがに、あの普通ではない探偵の助手である。
新宿の占い師。顧客とて、日本人や英語圏の人だけではないかもしれない。
「タロットというのは英語だけど、タロウカードというのが正式な発音なの。イタリア語ではタロッコ。フランス語ではタロ。
…タロットが大アルカナと呼ばれる22枚のカードと、小アルカナと呼ばれる56枚のカードから成っているのはユウキも知ってるでしょ?」
「ええ、『吊られた男』とか『悪魔』とか『死神』みたいな不気味なカードもあるヤツでしょ?
小アルカナってのは確か、トランプの元々の形じゃなかったですか?金貨の6とか杯の3みたいな」
勇樹は手元のコーヒーカップとポケットから小銭を出して示した。杯と金貨にかけたのだ。
「そうね。…けどトランプという名称は日本人が勝手につけた呼び名よ。
確かに小アルカナは大きく分けて剣、杯、金貨、杖があるし、それぞれスペード、ハート、ダイヤ、クラブに対応しているプレイングカード…要するにトランプによく似ていると思われてるわ。
けどよく似てるけど実際は、どちらが先にできたのか未だに判っていないというのが実状なの」
「トランプが先って事もありえる訳ですか?」
そうじゃないわ、とアリサは形の良い唇を僅かにすぼめた。
「タロットカードがトランプに…トランプがタロットカードになったとかじゃないの。
同じ根を持っている別物同士(!?)という可能性だってある訳でしょ?」
「ああ、起源は一緒だけど違う形で枝分かれしたっていう可能性もある訳ですね?」
「そう。これらカードの起源がね、諸説紛々あって未だに決着を見ないということなの」
相変わらず難しい日本語をよく知っている。
『諸説紛々』という漢字など勇樹はどう書くのかもわからない。餅は餅屋の喩え通り、さすが占い師だけあって、よく知っている。
「タロット占い師のアリサさんでも判らないんですか?カードの起源がどこにあるのかまでは」
「全然判らない訳じゃないわ。例えばタロウという名の語源は、古代ペルシア語タリスクから派生した『答えを求められし者』という意味のエジプト語、タルートという言葉に始まりを求められるっていう説があるわ。
この場合は、タロットカードはナイル川の水嵩を占うためにできあがったのではないか、というエジプト起源説を補強する形になるわね。成立年代はともかくとして、場所は矛盾していない。
一方で大アルカナの枚数が22枚であるところから、これをアルファベット22文字に比定してヘブライ起源説を説く人もいる。
また、チャトゥル・アンガという古代インドの将棋の意匠が、やはり小アルカナのそれに近いことから、それを起源とする説もあるわね」
「結局バラバラじゃないですか」
まぁそうなるわね、と意味ありげにそう答え、アリサはコーヒーカップに唇をつけた。細くて長い指…きめ細かい白い肌といい、動作の一つ一つがひどく優雅に見える。
…そして優樹には、やはりアリサの言動のいちいち何かが引っかかる。
一見、無関係な話しかしていないように見えるがきっちり本線に入っており、話者の真意を巧みに隠しながら伝える…。
このやり方は…。
「現在、一番通りがいいのはタロットカードは本来カードではなくて閉じられた一冊の本だった、という説ね。
…遥か昔、アレクサンドリア大図書館に保管されていた78ページからなる『世界の秘密を封じ込めた本』が、図書館が破壊された折にバラバラに分解されて運び出され、流浪の民達の手で今に伝えられた、というものね。
本来世界の秘密を封じ込めた本だった訳だから、それらを組み合わせることによって、失われた古代の叡智が読み説ける…そう考えられた訳」
「何だかなあ…」
勇樹はあくまで懐疑的な口調で腕組みをした。そこまでいくと神秘的に過ぎると思ったのだ。そんな荒唐無稽な説が本当に有力なのだろうか?
『世界の秘密を封じ込めた本』というのも何だかやたらと胡散臭い。
「…で、結局、何が言いたい訳ですか?タロットのルーツと今回の事件が何か関係あるとでも?
今の話ではただ、タロットのルーツは、探れば探るほど判らなくなるばかりだ…って事しか判りませんけど」
まあ結論は急がずに聞いて、とアリサは少し強い口調で言った。どこかで聞いた台詞だ。
「問題の魔術師もタロットの一部分…。
象徴としての人の恐怖心や畏怖心、未知の領域や神秘を何とか体系化して形あるものに置換したいという思いを形にしたもの、という事なの。
言ってみれば神や悪魔と同じ…」
「この上、神や悪魔の存在を認めろと?」
勇樹は少し呆れた。説明はわかりやすくて明瞭なのだが、この部分だけは根本的な所でやはり理解するには無理がある。この辺が宗教性の乏しい日本人と宗教が生活に根付いた欧米との違いなのだろうか?
「もちろん神や悪魔なんて実在はしないかもしれないけど…形になった概念だ、という事ならユウキだって理解できるじゃない?世界中に様々な宗教はあるし、偶像崇拝を認めていない宗教でも、神を形に残したい、これは神への愛、という形でこの世に残ってる美術作品は数多いでしょ?
描いて残してあるという所が肝心なのよ」
アリサは続けた。
「タロットには様々な形があるし、それぞれ国によってルーツも違えば、絵柄だってマルセイユ版とウェイト版では意味も解釈の仕方も全然違うわ。
魔術師に教皇、法王に女帝なんていう人や身分を表すものもあれば、正義や節制、力なんていう物事を端的に言い表したものもある。
太陽に月に星。これもまだ判るわね。
けれど悪魔や死神、審判や世界となると、漠然とし過ぎていて、もう意味が通じなくなるわ。
これはやはりタロットはそうしたモノ…。神秘的なモノ…。神秘性に彩られた、ただの道具…。結果は暗示としてただ受け入れるモノ…。私達はそう捉えるべきなんでしょうね。
だって私達には既に、大昔にこれを描いた人の真意を読み取る論理が欠落しているんですもの。
このカードの一枚一枚に描いてある絵だって、何らかの理由があるからこそ、こんな形になって残っているの。
確かに人口に膾炙したものを採るというなら占いほど長い間、人々の口の端に上ってきたものはないわ。
未来というのは未知の領域…判らない明日の事を予測する事で訪れる危険を回避したい、という心理の表れでもあるのよ」
確かに…未来とは未だ訪れない今日。不可逆な時間の中の日常…今である。
「さて…、待たせたわね。出たわよ…」
いつの間にか、裏側に伏せられていた六枚のスプレッドが、全て表側の正位置を向いていた。
過去に『恋人達』。
現在に『月』。
近い未来に『塔』。
障害となる位置にあるのは『悪魔』。
対人関係の位置にあるのは『死神』。
鍵となる位置にあるのは…『愚者』。
そして最終予想のカードは…『魔術師』。
アリサは吸い込まれそうな青い瞳を真っ直ぐに勇樹に向け、静かに言った。
「アイツの事務所であなたを初めて見た時から違和感はしてた…。
まさかとは思ってたけど…こんなにはっきりと出てしまうとはね…」
悩ましげにアリサは目を逸らし、つうとテーブルの縁を指で撫でた。勇樹は少し苛立ちを感じる。
「はっきり言って下さい。…ぼやかしながら話すのは卑怯です」
アリサはしばらく考え込むようにして目を伏せていたが、やがて小さく溜め息をついた。
「言いたくはないけれど、それが私の役目のようだから言うわね…。
裏切りと死…。
それがあなたに与えられた暗示。
あなたの最も身近で大切な人の突然の不幸…。
…死よ。
それも遠くはない近い未来の出来事…。
既に種は蒔かれ、まるで最初から決まっていたかのように、起こるべくして起こる…。
心に深い傷を負い、あなたは絶対的な孤独と無力感に支配される…。
自分の未来を壊すほどの、暗い激情と悲しい叫び…。
過去が未来に復讐する。
そして…、あなたの本当の人生が始まる…」
ザワリ、と周囲の景色が揺らいだ。現実感の伴わない場所にいきなり穴が空いたような…。
悪寒。
身震い。
内心の動揺を押し殺し、勇樹は慎重に尋ねた。
「………。
この魔術師…タロットでは何を暗示しているカードなんですか?」
「始まり。
1番目の大アルカナ…。天体では水星に対応しているわ。水星はギリシア神話のヘルメス。ヘルメスは魔術師の祖ともいわれている神よ」
「この魔術師というのは…じゃあアリサさんはどう捉えるんですか?」
再び神妙に勇樹は尋ねた。あらゆる核心を突いた質問のような気がした。
暫しの間、青い瞳を閉じていたアリサは、ゆっくりと目を開くと、まるで虚空に向けて、歌うように語り始めた。
……!
勇樹は見た。
アリサの青い目の焦点が…合っていない…。
異邦の占い師は今…託宣の神官のように、この世ならざる世界を見ている。
「………
赤い薔薇や白い百合…花園に囲まれた…閉ざされた、とある場所。
若者は問いかける…。
…神とは?
…人とは?
真実の融合を目指し…彼は立ち上がる。
真理の探求の為に…、道は選ばない…。
人々は口々に彼を魔術師と罵るだろう。
しかし神は、彼を我が子と呼ぶだろう…」
何かからの引用だろうか?まるで四行詩を暗唱しているようだ。
勇樹が呆然としている間に、アリサの表情は既にいつもの顔に戻っていた。
私、もう行くわね、と言ってアリサは伝票を取って立ち上がった。
ゆったりとした優雅な動作の中に、今は独特の冷ややかさと毒がある。
アリサの作り物のような、端正でどこか冷然としたその視線はあの時、夕日の下で見た来栖要の眼差しによく似ていた…。
勇樹は蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
「真実は…自分の目で確かめてごらんなさい。
なぜアイツが、あなたをそこまでして必死に守ろうとするのか…ある程度、その理由もわかると思うわ」
去り際、妖艶な占い師は立ち止まり、勇樹の背中越しに冷ややかに言った。
勇樹は金縛りにあったように動けない。
「ユウキ…、あなたを巡る現実はあなたが思っているよりずっと残酷で、情け容赦がないわ…。
…けれど、それに潰されないあなたの真実は、やはりあなたの中からしか生まれ出ないものでもあるの。
成瀬勇樹…。その与えられた名に恥じない誇りを持って、強く生きなさい…」
そう言って異邦の占い師は静かに立ち去った。
微かに眠気を誘うような香水の残り香がした。
カードのなくなったテーブルの上には、鮮やかなルージュが縁に残った飲みかけのコーヒーカップと共に、一枚の紙切れが残されていた。
※※※
6月24日。同刻…。
警視庁目黒署、捜査一課一係の刑事部屋…。
合同捜査にあたっていた所轄の目黒署の捜査員達から齎された突然のその事実は、花屋敷達の予想を遥かに上回っていた。
バン!とスチール製のデスクを叩く鋭い音がして、刑事部屋の視線が一斉にそちらを向いた。
威勢よく口火を切ったのは石原智美だった。
「あの学園から、捜査員を一旦引かせるって…一体どういう事ですか!?」
目の前にいるのは古井警視である。鉄面皮のキャリアは銀縁の眼鏡の狡猾そうな目で、ジロリと石原を睨みつけた。
「君…石原君だったな。
これは一体何の真似だ?
自分が今している事がわかっているのかね?」
「ええ、わかってます!
納得のいかない捜査方針に対して上申するのは捜査員の当然の権利です!」
石原はデスクに両手をつき、今しも目の前の古井警視に掴みかからんばかりに詰め寄った。
「石原、よせ!」
花屋敷は慌てて彼女の肩を掴んで宥めた。
「先輩は黙ってて下さい!私は古井警視と話してるんです!」
彼女は花屋敷の手を振りほどいて眼前の古井を睨みつけている。
小振りな唇がわなわなと、微かに震えていた。あどけない童顔な顔が必死になって訴えているその姿はある種、悲壮感めいた壮絶さが漂っていた。
理事長や神戸の元用務員にまで会いに行ってきた彼女のことだ。今回の事件には何かしら強い思い入れがあるに違いない。
しかし、花屋敷は再び怒りに震える彼女の肩を押さえた。
「いいからよせ!古井警視だって早瀬…、警視だってこの忙しい時に、わざわざ本庁まで掛け合ってくれたんだぞ。その結果の本庁の判断なんだから仕方がないだろ!」
「だからって、何で今なんですか?先輩だって、こんな捜査方針に納得がいくんですか!?
川島由紀子の死の原因だって未だに何もわかっていないし、学園にはドラッグまで使う売春組織までいるんですよ!?
この目黒署に出向中の身の上とはいえ、本店のこんな対応、到底納得できる訳ありませんよ!」
石原はいつになくいきり立っている。
女のヒステリーはたくさんだと言わんばかりに、古井はやれやれという風に首を振った。
「何もわかってないのは君の方だ、石原刑事。
売春に関しては何も証拠がない。少年達の証言や学園の生徒達の口さがない噂に基づいてるだけで今の所、確たる物証やモノ自体が出てきた訳ではあるまい。
それに、これは非常に微妙な政治的判断も含んでいるんだよ。学園にこれ以上、何人も捜査員を割く事はできない」
「だから…、なぜなんですか!?」
「都教委やあの学園の本体である宗教法人のキリスト教団体が今朝方、本庁へ抗議に赴いたそうだ。警察庁もそれに対応している。
本来、捜査とはいえ警察の人間を長期間、学園に留め置く事は難しいんだ。どの道、学園での捜査はもう限界であるという事だよ」
「良家のご子息ご令嬢が多数在籍する学園の心情に配慮したからですか?
ミッション系の私立校って所は、警察も不可侵という訳ですか?
この不景気なご時世に随分と羽振りのいい学園もあったものですね?
それにタイミングが良すぎやしませんか!?
…私達が売春の捜査や事実確認をしている矢先の出来事なんですよ!?
どう見たって不自然じゃないですか!」
石原はあくまで食い下がった。石原がこうまで我を忘れて激昂する事は本当にめずらしい。普段の直情的な花屋敷のお株を奪うような見幕である。
彼女はたとえどんな陰惨な殺人事件の捜査中であっても、いつも淡々と物柔らかな態度でいる事を常としているから、この豹変ぶりは意外だった。
もちろん花屋敷にも彼女の気持ちは痛い程わかっていた。理事長との面会が効いている。
ひとえに花屋敷はこの急な展開に頭がついていかなかっただけである。
いくらなんでもこの展開は性急に過ぎる。これではまるで警察が学園にいては困る(!?)とでもいったような展開ではないか。
だが、花屋敷はここで彼女を引き止めなければ今後の捜査はおろか、今まで費やしてきた時間や労力も全て無駄になってしまう気がした。
これはもう直感という以外にない。
傍らに黙って控えていた磯貝警部は眉根を寄せ、倦み疲れたように腕を組んでいた。いつになく何だか疲れている。
古井は忌々しい、と言いたげな視線で磯貝警部をチラリと伺ってから、石原をジロリと睨みつけた。
「皮肉は聞き流そう。
言いたい事はそれだけか、石原刑事?君は今回の件が随分と不服のようだな」
「もちろんです!」
「…だが、こればかりは本庁直々の命令だ。
捜査員は一旦学園から引かせ、今は付近や外部の目撃証言を重視するなりして、引き続き慎重に捜査にあたれとの事だ。
マスコミや報道機関への箝口令も、今後は徹底的に統制されるだろう」
「やはり何らかの圧力が…あったんですね?」
「石原、落ち着け!
いくらなんでも言葉が過ぎるぞ!」
「そうとしか思えません!本庁に圧力をかけてきたのは買春に関わったどこかのお偉方ですか?
それとも子供の事情を知っていながらひた隠しにしている、学園のPTA関係者なんでしょうか?」
「石原!」
「あの学園には不審な事が多すぎます!
…私と先輩、ついさっきまで学園の理事長に会ってきたんです。
それに私、調べました。
聖真学園で12年前に殺人事件があった時も、本庁から情報統制…箝口令が敷かれたそうですね?
古井警視もご存知だったんでしょう?
12年前の殺人事件が早々に被疑者自殺と判断された、その本当の根拠は何なんですか?
事件後、転校と称して行方不明者までいたというのに、追跡調査もロクにされなかった事件だったそうじゃないですか?
行方不明の女生徒の名前は、高橋聡美。
あの聖真学園の二年生で、当時17才。
山内洋子殺人事件と前後して、突然消息を断っている失踪少女です。
事件当時、被害者の家族から訴えがあったにも関わらず、捜査当局は事件との関連性はなしと判断して早々に撤収、正規の行方不明事件として扱い、それを写真週刊誌が嗅ぎつけて記事にするなど、ちょっとした騒ぎになった事もあったそうじゃないですか?
結局、2ヶ月後に高橋聡美の両親から捜索願いは取り下げられ、彼女は親戚のある地方の学校に転校したという形で終息し、有耶無耶になっています。
しかし、本庁の特殊家出人のリストにはきっちりと載っている…。一体、どういう事なんでしょう?
警視はご存知ありませんでしたか?」
古井は苦虫を噛み潰したような、嫌悪感丸出しの表情を隠そうともしなかった。
「その件は既に過去のものだ。聖真学園で起こった事は確かだが、余計な混同はするな。それに本件とは何ら関わりがない」
「関係ない訳ありません!あの学園のする事に警察は関わるな、手を出すな、目や耳を塞げという事なんですか?」
「いい加減にしたまえ!この捜査の担当を外されたいのか?
…いや、これ以上は内部の捜査妨害と見なし、服務規定法違反で、本当に処分の対象にするぞ!
…磯貝警部!君の部下だ。この責任は取ってくれるんだろうな?」
申し訳ありません古井警視、と呟いて、自分よりも若いキャリアに一礼すると、磯貝警部は石原に視線を送って言った。
「石原…よく聞け。
お前達がいない間の出来事だから知らないのも当然だが、川島由紀子の事件に関しては今朝方、警察側は事故死と判断した。
今、早瀬警視も状況確認に本庁へ赴いている状況だ。敢えて捜査員にも情報は流さなかったが、本庁は事故と断定したからこそ、捜査員を撤収させる事に決定したんだ」
「…事故!?川島由紀子が…事故死ですって!?」
「ちょっ…警部!待って下さい!自殺ならまだしも…あれが事故死だというんですか!?」
これには花屋敷も驚かされた。これは一体…。
「それについては…」
「磯貝警部。そこから先は私が説明した方がいいかもしれませんな…」
白衣を着て傍らに控えていた監察医の山瀬医師は、いつになく神妙な表情で座を見渡した。
「脳CT、脳MRIと血液、そして髄圧検査による成分分析の結果、川島由紀子の体内からごく微量ですが、ある化学物質が検出されました。
墜落死した原因とは確かに判断しにくい部分もまだあるのですが、川島由紀子は事故死…本庁の判断はおそらくそれを受けての事だと思われます」
「化学物質…!?何が出たっていうんです?」
茫然自失の石原。代わりに花屋敷が尋ねた。
山瀬医師はやや間を持たせ、表情も険しくその重々しい口を開いた。
「…リン酸オセルタミビルです」
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