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暁の魔術師
作:久浄要



悪意と驟雨


18


玄関のガラス扉を開け、校舎に入ったとほぼ同時にノイズのようなザアッという雨音が貴子の周囲を襲った。後ろ手に開閉しづらい扉を閉める。
恐ろしく風が強い。
ギョオオッ!という未知の獣が放つ遠吠えにも似た強風が、ガタガタと校舎中の窓という窓を細かく振動させているようだった。窓ガラスに雨の滴がぶつかり、みるみるうちに流れ落ちて透明な景色がいびつに歪む。
灰色の絵の具を幾重にも塗り重ねたような黒雲が空一面を覆い隠した、夕立ちというにはあまりに突然な6月の豪雨…。
ゴロゴロと俄かに唸りを上げ始めた空の向こう側…。今しも雷鳴がピシャリと白い閃光を放ち、どこかに落ちるのではないかと貴子は不安になる。小さい頃から雷は大の苦手だった。
カメラのフラッシュのような網膜を一瞬で眩ませるような白い閃光も…たとえ遠くにいても間を置いてから訪れる、耳を引き裂くような強烈なあの音も、あの時間差も体の芯を貫かれるようで本能的に怖い。雷は大嫌いだった。
貴子はおどおどと辺りを見渡した。
時計塔の時刻は午後4時42分を指していた。
まだ夕刻だというのに薄暗く、僅かに湿り気を帯びた校舎の冷たい空気が貴子の心を不安と焦燥へと駆り立てる。
普段は見慣れているはずの校舎の壁や天井までが、なんだか未知の生物の胎内にでもいるかのようで気味が悪かった…。
低い姿勢で薄暗い廊下の向こう側に目を凝らすと各学年毎に等間隔に仕切られた、広いスペースの靴棚が見える。
玄関からは死角となる廊下の角の暗がりに潜み、2人は息を殺して入口の方を油断なく窺った。
例の事件の影響が未だに尾を引いているのか、それともまた何か別の事件でも起こったのか、部活もなく今日も早々に放校となった放課後。ザッと見渡しただけだったが表に人影はなかった。
雨宿りの目的でわざわざ校内に入ってくる部外者がいるとは思えない。
ボーガンなどという目立つ凶器で襲撃してきた人物が何者かは知らないが、この位置なら確実に確かめられるだろう。相手にとっても、この突然のどしゃ降りの雨は予期せぬ事態のはずだ。
貴子は今しも、血に飢えた襲撃者が玄関ドアを開けて入って来るような気配に胸をざわつかせながら先ほどの、あの悪夢のような出来事を思い出していた。
貴子をいきなり襲った矢は花園の周囲にある木々の合間、木立の隙間を縫うように飛んできた。
つまり襲撃者はまだ外にいる(!)事になる。
しかし貴子の命を狙う輩どころか、誰かが玄関からやって来る様子はまったくない。豪雨と暴風に吹き荒れる修羅場と化した表の景色とは対称的に、校内は不気味なほどの沈黙に包まれていた。
「おかしいわ…。誰も来ない…」
「うん…どこかに行っちゃったのかな…?」
貴子は近くのガラス窓から外の様子を覗こうと身を乗り出そうとした。
「バカ!」
隣にいた女は鋭く叫ぶと慌てて貴子の頭を低い位置に下げさせた。
「覗いちゃ駄目よ!
相手はボーガンなのよ!?外から射抜かれたりしたらどうするの!?ほとぼりが覚めるまで表には出ない方がいいわ」
「けどこのままじゃウチらだって…!」
「しっ!静かに…!
まだ校内に人が残ってるかもしれないでしょ?
何かあってから騒げばいいの。…今、先生とかに見つかったら、かえって厄介だよ」
「うん…迷惑かけて本当にゴメンね。それと…ありがとう、奈美…」
貴子は自分を助けてくれた髪の長い女…クラスメートの沢木奈美へと改めて声をかけた。
傍らの奈美は貴子に向かってそっと微笑むと、今のやりとりが誰かに聞かれていないか、もう一度油断なく周囲を警戒しながら貴子を自分の背中でかばうようにした。
貴子は背中越しの奈美の横顔を見る。
教室でも普段はあまり結んだりしているのを見た事がない、ストレートの長い髪…。すらっとした身長とスレンダーな体格といい、ポニーテールにしていると本当に由紀子と見間違えるほどだ。
しかし、当たり前だがこうして間近でよくよく見れば2人はまるでタイプが違う。二人とも活発でハキハキした話し方をする所は似ているが、女性らしい柔らかな雰囲気を纏った由紀子に比べ、奈美は動きや仕草が俊敏で雰囲気もよりしなやかな印象を受ける。
とっさに貴子を庇ってくれた身のこなしといい、運動神経は抜群にいい方だろう。
あの時…。
明らかに貴子に向けて放たれた一条の矢…。
総身が粟立つような冷たく容赦のない剥き出しの悪意をそこに感じ、改めて貴子は戦慄する。
ようやく実感してきた恐怖に今頃になっておかしくなったように膝がガタガタ笑い、身体は小刻みに震えてさえいる。
奈美が助けてくれなければ本当に、どうなっていたかわからない。
襲撃者を確かめようと言い出したのも奈美だ。
『…動揺しちゃ駄目。つけ込まれたらヤバいし。こんなふざけた事する奴なんか許しちゃおかないわ。貴子…アンタも落ち着いて相手が誰か確かめるのよ。…ね?』
まるでいつぞやの勇樹のように、頼もしいクラスメートはそう言って微笑むと貴子の手をギュッと握って、勇気づけてくれたのだった。
「ゴメンね…。全然関係のない奈美を、こんな危ない目に合わせて…」
「また謝る。さっきからこれで三回目。貴子の悪い癖だよ、そういうトコ」
「うん…ゴメン…」
「ほら、またぁ」
奈美は呆れたように笑った。いつも通りの奈美の笑顔につられて貴子もつい状況を忘れて笑ってしまった。休み時間の教室にいるみたいだ。
奈美の笑顔はなんだかホッとする。
互いの息遣いと少し穏やかになった雨の音がシトシトと断続的に聞こえてくる。外は相変わらず風が強い。窓から見える中庭の木々が頼りなげに大きく揺れていた。
貴子はふうっと溜め息をついた。
ホッとすると何もできない自分がなんだか無性に情けなく感じてくる。
…なんでこんな事になったんだろう?
最初は由紀子の死がどうしても信じられなくて…心のどこかで彼女がいなくなった事を認めたくなくて…。それでも割り切らなきゃと、せめて由紀子が死んだ原因が知りたくなって…。
だから由紀子の記憶をしっかり留めておきたいとする勇樹に協力しようと思ったんじゃなかったのか?強い仲間と共感する事で、また新たな道が見えてくるんじゃないかと願いながら…。
浅はかだった。
まさか、自分がこんな形で事件の当事者になってしまうなんて…。
貴子は今や由紀子のもう一つの貌を知ってしまっている。
知らなくてもよかった事なのに…。知らずにいれば傷はそれなりに深く、悲しんではいたかもしれないけれど、いつも通りの日常だったはず…。
知りたいと思う気持ちが今や認めたくない気持ちに変わっている。
売春している連中の事や由紀子の事を知ってしまったばかりに逃れようのない、救いのない現実がそこに待っていて、いつの間にか袋小路に追い詰められている。
完全な傍観者のままでいたら、こうはならなかっただろうか?
いや、望む望まないに関わらず人は完全な傍観者にはなりきれないのかもしれないと貴子は思い始めている。客観的に何かを知ろうとする行為は、自分自身が主体にどう影響を及ぼすかまで視野に入れて臨まなければ、貴子のように主体自体に飲み込まれてしまうという事だろう。
凄く怖い…。
命を狙われるという潜在的な恐怖の前には貴子はあまりに無力だ。
子供みたいに誰かに手を引いてもらわなければ、一歩も前に進めない自分が凄くもどかしくて貴子は情けなくなる。
「勇樹にも奈美にも由紀子にも…いつも誰かに守られてばかり…。鈍臭い女だよね、私…」
シュンとしょげながら、膝を抱え、壁に凭れて貴子は震えていた。まるで雨に怯えながら穴の中で震えている小さな動物のようだ。
奈美は背中越しに黙って聞いていたが、ゆっくりと振り返ると優しげに微笑んで貴子の頭にポンポンと手を乗せた。
温かい奈美の手のひらの感触は貴子に束の間の安心感を与えてくれる。
「よしよし。アンタは私が守ったげるからね。
貴子…私は関係ないとか自分が鈍臭い女だとか、そんな風に言わないの。友達や誰かに凭れかかるのはそんなに悪い事?
…強がったって怖いものは怖いし、それが当たり前な反応だよ。それに…ほら、私を見て」
奈美はそう言って自分の足元を指差した。黒いハイソックスを履いた奈美の人形のような白い足が小さく震えていた。
「私も怖いの。本当ならこんなトコ、すぐにでも逃げ出したいよ」
「だったらどうして!?
わざわざ危ない事に関わらなくても…」
思わず声が大きくなってしまう貴子に奈美はまた人差し指を立てて制止した。貴子は慌てて口を塞ぐ。
「関わった以上、今さらほっとけないよ。
…それに私にだってちゃんと凭れかかれる貴子や勇樹がいるでしょ?
強いとか弱いとか関係ないんだよ。一人じゃ大変だけどさ…。だから怖いけど大丈夫だよ」
「奈美…」
「貴子、私ね…」
奈美は貴子の隣に同じようにして座った。
「一年生の終わり頃、勇樹と由紀子に助けられた事があるんだ。あの二人には借りがあるの。だから貴子を助けたって訳でもないんだけどさ…」
「…何かあったの?」
聞いてしまってから思わず後悔した。
何気なく尋ねた貴子の質問に奈美は僅かに表情を曇らせ、目を伏せた。あまり思い出したくない事なのかもしれない。
「それは…さすがに貴子にも言えないよ。
けど、その時思ったの…ああ、やっぱり友達っていいよなぁって。
だからね、警察の厄介にまでなったあのバカから電話がきた時はさすがに驚いたけど急いで来れて本当によかった…。
私でも誰かの役に立てるんだなってさ」
「…ちょっと待って!
警察!?え…?奈美…まさか勇樹に何か…」
「須藤達の事、聞いてないの?」
「須藤君…?…あ!」
また叫びそうになって貴子は今度は両手で自分の口を塞いだ。
「そういえば須藤君、学校に来てなかった…。
街でひどい喧嘩した人達がいて誰か退学処分になるかもしれないって誰かが噂してたの…。
なんかの冗談だと思ってたのに…。
…まさか勇樹も?」
「…あのバカは巻き込まれただけだって。
夕方頃、あいつから電話が来たの。学校がヤバいとか、とにかくテンパっててさ。訳がわかんないなりに貴子がヤバいってのは、なんか通じたから急いで来てみたの」
そう言うと奈美は貴子にではなく、やや遠くを見るような目で豪雨に霞む表の景色へと視線を投げかけた。
「もう大事な友達を失くすの、イヤだから…」
「奈美…」
長い睫毛に縁取られた、意志の強そうな切れ長の瞳と、きゅっと結ばれた淡い唇。
優しげな眼差しの中にもどこか毅然とした強さが窺える奈美の横顔が、その時の貴子の目には凄く綺麗なモノに映った。
不意につんと鼻の奥が熱くなり目の前がぼやけそうになって、貴子は慌てて鼻を啜った。
気がつけば泣きそうになってばかりいる。
勇樹といい奈美といい、そして死んでしまった由紀子といい、貴子はなぜかこうした人達に引き寄せられるような性質があるらしい。
プラス思考の人…温かいオーラを持った人…生を謳歌している人…なんと呼んだって構わない。貴子とは真逆のタイプ。
…ともすれば、ふとした事で暗い気持ちになって、気がつけば躁と鬱の間を行きつ戻りつしているような貴子のような人間にとって、そんなトモダチはいつだって勇気をくれる…。
『1人じゃないよ』
温かい、かけがえのないそんな言葉をかけられているような…笑顔で手を差し伸べられ、支えられているような優しい気持ちになる。
もちろんお互い言葉にしている訳ではないけれどなんとなく伝わる、言葉だけでは伝えきれない気持ち。繋がり…。
普段、学校で一緒の同じクラス…同じ女子、同じ仲間…。普段はたいして意識しないクセにそんな繋がりが今は物凄く大切なモノに思えた。
貴子は力強く頷いた。
奈美の言う通りだ。
由紀子が死んだ理由も、自分がなぜ狙われるのかも何も分からないまま、ただ事件に関わったばかりに殺されるというのでは堪ったもんじゃない。たとえ脅しなのだとしてもこんな事は遣り過ぎだ。許せない。
「奈美…勇樹はなんて言ってたの?」
「『事情聴取で動けないから大至急、確かめてほしい事がある』って。
まさか、こんな事になってるなんて…。
…でね、勇樹ったらなんか凄くテンパっててさ、電話でも一条先輩にはくれぐれも気をつけろ、とか貴子が危ないかもしれないなんて言うの…。
アタシにしたら寝耳に水でしょ?
あのバカがなんでいきなりそんな事言い出したのかさっぱりでさ…。
とにかく急げってそれはしつこく言うから、とりあえず来てはみたんだけど…」
「やっぱり…」
由紀子の親友とはいえ、貴子を巻き込んでしまった事を優樹も気にかけてくれていたのだろう。優樹に感謝しなければ。
「その様子じゃ、こんな物騒な事をする奴に心当たりがあるみたいね。
…聞かせてくれる?」
「うん…」
貴子は奈美に今までのいきさつを話した。
勇樹と二人で手分けして由紀子の死の原因を探っていた事。
その過程で由紀子が売春組織について調べていたらしい事。売春している連中はどういう訳かダチュラにローズ、リリーといった花の名前をコードネームのようにして互いを呼び合っていた事。
由紀子も過去の忌まわしい事件を探る名目かどうかはわからないが、なんらかの理由でそのメンバーの中ではローズと呼ばれ、彼女達をサポートしていた節があるらしいという事。
そして図書室で図らずも連中の話を貴子が盗み聞きしてしまった事…。
その事から連中のリーダーと思われる人物は信じられない事だが、あの生徒会長の一条明日香である可能性が高い事。
2日前から、そして今現在も貴子を狙っていると思われるこの不審な出来事の数々…。もしかしたらそれは彼女の差し金かもしれないという事…。
貴子はできるだけ自分の感情や気持ちは交えず、なるべく事実だけに沿って今までの経緯を説明するよう努めた。その方が自分自身も整理しやすいと考えたからだ。
小声で説明している間中、奈美は終始無言で貴子のたどたどしい説明にも神妙に頷いたり、逐一相槌を打ったりして真剣に聞いてくれていた。
一条明日香の名前が出てくる下りになると奈美は形のよい眉をやや潜め、苦虫を噛み潰したような困惑の表情を浮かべた。
「信じられない…。噂には聞いてたけど、本当にウリみたいな事をこの学園で平気でやってる連中がいるなんて…」
最低…と呟いて、奈美は居心地悪く暗い廊下へと視線を落とした。貴子も同様に俯く。
自分達がしている訳でもないのに、なぜか後ろめたい気持ちになる。
理由はわかっている。
偏見と差別に満ち満ちた世間の偏った視線というものを貴子も奈美も気にしてしまうからだ。
これはもう思い込みというよりは、呪いにかかったような感覚に近いかもしれない。
女子高生は好きな事を自分たちの気の向くまま、どこまでも追いかける奔放で気ままな存在…。裏を返せば性的な事には興味津々…。金さえ出せば何でもする…そんな馬鹿馬鹿しい偏見が平気でまかり通るような風潮が、世間にはあるのだ。
制服姿で街を歩いていたら、怪しげな男が声をかけてきたという経験は貴子にもある。
貴子はたまに世の中が歪んで見える時がある。
セクハラや痴漢といった性犯罪がなくならないのも考えてみれば当たり前だと思う。
どうして男はいつもそう勝手なんだろう?売春であれ何であれ、どうした所で買う奴が悪い。
男の視線に立つと世の中はどうしても歪んで見える気がする。
男も女も閉鎖的になって恋愛に臆病になる人が多くなる背景にはそうした個人が感じている世間のズレがあるせいなのかもしれない、と生意気にも貴子はそう感じてしまう。
そして…女だ。
金であれ興味本位であれ、好きでもない男と寝る女の気持ちなど、痩せっぽちで地味な貴子にはやはり理解できない。たとえ貴子が人も羨む美貌やスタイルの持ち主だったとしても、それは変わらないと思う。
性的な興味があるかないか、自分に女としての魅力があるかないかは別にして、貴子は少なくとも自分を今が旬のJK…女子高生だとブランド品のように軽く認識して簡単に自分の身体を売りたいとは思わないし、そんな事で始まる色恋沙汰など断固として嫌だ。たとえ貧乏でもそうした事が好きでも躊躇するだろう。
買う奴も売る奴も勝手だ。
この学園だけの話じゃないとわかっているだけに余計に腹が立つ。
「でもさ、なんで一条先輩が…?あの人まで関わってるっての?」
「うん…私も信じられないよ。でもね…最近一条先輩がちょくちょくB組の教室に来て由紀子を呼んだりしてた事あったじゃない?覚えてない?」
「うん…何回か見た事はあるよ。クラス中、騒いでたしさ。でも新聞部の事とかで来てたのかもしれないじゃない。相手は生徒会長なんだよ?」
奈美はあくまで懐疑的だ。無理もない。無理もないのだが…
「うん…わかってる。
自分が凄く馬鹿な事言ってるなって…。でも私、あの人どことなく怖い…。あんな綺麗な顔して何でも出来る感じなのに、なんか捉えどころがないっていうか…。うまく言えないんだけど出来過ぎてるっていうか…」
「そりゃ彼女をやっかみ半分で見たらそう思うかもしれないし、アンタを信用しない訳じゃないんだけどさ…。
…でもどうして?
一条先輩の家って大金持ちだし成績も優秀だし、モデル並みに美人だし、生徒会で何人も人を動かしてる将来有望、非の打ち所のない完璧な、作り物みたいなお嬢様なんだよ?だいたい彼女が売春する必要なんてどこにあるの?
よりによってそんな人を売春組織のリーダーだなんて言い出すの、アンタくらいよ」
否定されると自信がなくなる。貴子は力なく押し黙ったまま俯いた。
確かにこの2日間で貴子の身の回りに起こっている事はあの時、図書室で起こった状況から推察しただけの、いわゆる貴子の想像にしか過ぎない訳で真に彼女が誰かに下した指示によるものなのかどうか分からない。
事件にも、そもそも関わっているのだろうか?
あの時、由紀子と最後に会話したのが彼女だというだけの事で、事件へ直接どう関わっているのかとなると…。
だが貴子は思い出す。
図書室で聞いた、天使のような顔からは想像もつかない、ぞっとするようなあの声を…。貴子は彼女の内に、澱のように潜む悪意を確かに垣間見たような気がするのだ。
これも貴子のただの印象による直感でしかない。
しかし…。
学園でも目立った存在ではない、貴子のような平凡な女を彼女は名指しで注意してきた。貴子にとっては正に青天の霹靂…夢でも見ているとしか思えないような出来事だ。普通なら芸能人に声をかけられた、ぐらいのレベルに感じるだろうに…。
何もかもが突然過ぎて現実感が伴わない。
売春組織にした所で実際に何人いるのかは分からないし、貴子は声まで聞いているのだが相変わらず彼女達は姿なきシルエットのような存在だ。
それにしても…。
改めて事実関係を整理して並べてはみたが、由紀子の事件を契機にして、不意に貴子の周辺で様々な事が立て続けに起こり始めたように思える。
当たり前な日常から非日常の世界にいきなり入り込んでしまったような…まるでたった一つしかない時計の歯車が壊れて噛み合わなくなり、構造全体が徐々に歪み始めでもしたかのような…。
時計…?
時計塔。
あの気味の悪い時計塔こそ過去に忌まわしい事件の起こった場所ではなかったか?
七不思議にまつわる七つの禁忌だのキリスト教の7つの原罪になぞらえたかどうかは不明だが妙なタブーが存在したり、過去に何かしらいわくのある教師達が学園に存在したり、それを告発する悪意ある誰かがいたり、そもそものきっかけは過去の時計塔に端を発しているように思えてならないのだ。
まさかとは思うが由紀子や過去に死んだ女生徒がそうだったように、あの時計塔には本当に魔術師なる怪人が住んでいて関わった人間は生贄にされる場所(!?)だとでもいうのだろうか?
事件と前後するかのように突然なくなっていた由紀子の髪留め…。
自殺でしかないのに自殺とは到底思えないようなあの死に方…。
由紀子の笑い声…。
見下ろす時計塔…。
そういえば…
「そうだ!時計塔だ!」
俯いていたかと思ったらいきなり叫んだ貴子に、奈美はビクリと驚いて怪訝な顔を向けた。
「びっくりしたぁ…脅かさないでよ。…時計塔がどうしたってのよ?」
「ねぇ奈美、由紀子はどうして屋上なんかから飛び降りたりしたのかな?」
「そんなの私に聞かれてもわかんないよ…。けど自殺するつもりだったとしたら、やっぱり屋上なんじゃないの?」
奈美の当然の返答に貴子は即座に首を振った。
「違うよ。由紀子は自殺なんかしたりしない。
それに自殺だとしたら、尚更あんな場所から飛び降りるのは変だよ」
「どうして?だって屋上だよ?飛び降りるのには一番確実なんじゃ…
あっ!そっか!時計塔!…それで時計塔なのね?」
「うん…屋上みたいな、あんな場所で自殺するのは凄く変だよ。
近くにあんなに高い時計塔があるんだよ?
あそこは校舎の上っていうか外壁にくっつくように建ってるし、外側に階段が見える以外、中は見えないんだもん。飛び降りるとしたらできるだけ目立たないような時計塔の上の階とかで飛び降りると思わない?」
「ちょっと待ってよ!それじゃ、アンタ…まるで由紀子は誰かにおびき出されたみたいじゃ…」
貴子は頷いた。
暗闇に浮かぶ奈美の顔色が青白い。自分も多分、似たようなものだろう。貴子は焦りにも似た高鳴る胸を押さえながら慎重に続けた。
「私、ずっと考えてたの…。なんで由紀子はあんな時間に屋上にいたのかなって…。飛び降りるにしたってあんな街中からも目立つ場所で、しかも部活や下校中のあんな時間に…。
…けど、こう考えれば筋が通るんじゃない?
…由紀子は時計塔で誰かと待ち合わせてたんじゃないのかな?でなきゃ由紀子が理由もなくいきなりあんな所にいたりしないと思う。もしかしたらその時に誰かに…」
「貴子…アンタ本気で言ってるの?由紀子のアレはじゃあ、まさか…」
絶句したように後が続かない奈美。奈美もおそらく貴子と同じ事を考えたに違いない。
由紀子は殺された…。
考えた瞬間、貴子の背筋に凍りつくような悪寒が走った。背筋を何かが這いずり回ってでもいるような嫌な感覚…。
警察もおそらく時計塔の隅々までは調べていないんじゃないのか?
だとしたら由紀子の髪留めがある場所は…。
貴子は図書室での事を思い出した。
『アレを由紀子が持ち出したんだとしたら…』
『警察はまだ何も見つけてないんじゃ…』
『だからアタシ達に捜査の手が伸びてこないんじゃないかな』
リリーとガーベラが話していた内容だ。薄闇の中、妙に頭の芯が冷え切った貴子は急速に思考を巡らせていく。
彼女達の言っていたアレとは何だろう?由紀子が持ち出したモノとは?
彼女達が警察に発覚するのを怖れているからには、それは彼女達の決定的な弱みとなるものであり、逆に由紀子にとっては彼女達を告発する為の証拠となる何かだ。貴子にとって幸いなのは少なくとも由紀子は客をとっていなかった…売春などしていなかったという彼女達の言葉だ。
それはなくなってしまったモノが彼女達の手元にないか、あるいは足りないかが判明して彼女達が焦っている事からも容易に窺える。
あるモノとは犯罪性のある物であり、売春の際に利用する物…となると大方は想像がつく。
仮に由紀子がそれを隠し持っていたのだとして…彼女はそれをどこに隠しただろう?
…誰かに預けるには危険過ぎるモノだと取りあえず仮定してみる。
まず新聞部の部室や教室など人目につくような場所には置けない。誰かに探られる事を考えれば鞄や机の中などは論外。
自分も組織と無関係ではない以上、実家にも置いてはおけない。
…ではどうする?
一番安全な場所は?
自分が肌身離さず持っているのが一番安全なんじゃないか?

あのムスカリという赤い髪留めの偏光グラスの部分は亀の甲羅のような形をしていて、アクセサリーにしては大きいし、取り外せるようになっているのだ。中が空洞になっていてピルケースの代わりにしてる女性もいる…とショップの店員も苦笑いしていた。
もし貴子が由紀子の立場だったとして人知れず何かを隠すとしたら…。
もう一つ仮に…警察も押収していない遺留品がまだあるとする。調査していたら彼女達を摘発していてもよさそうなものなのに…未だにそんな気配がないのは見つかっていないからではないか?それは由紀子の隠し方が巧妙だからではないか?
厭な像が形を帯び始め、徐々に得体の知れない絵になって浮かび上がってくるのを感じる…。
仮に由紀子が誰かに殺害されたのだとしたら、なくなっていた物と無関係とは思えない。いや、それこそ人一人殺害されるだけの動機に成り変わるものなんじゃないか?
そして、おそらくは殺害の方法とも無関係ではないかもしれない…。
人一人が狂ってしまうようなモノ…。
もちろん全て貴子の想像に過ぎない。物的証拠など皆無に等しい。
しかし…。
「貴子…」
突然黙り込んでしまった貴子を気遣うように奈美は静かに呼んだ。
「さっき優樹が確かめてほしい事があるって言ってたでしょ?」
「うん…」
「それが妙な頼み事でさ…実はね、時計塔の資料館を調べてみてほしいっていうの…」
「勇樹が…?」
「うん。すぐに自分も駆けつけるから、その時に説明するって…」
どうやら勇樹も過去の事件を探りながら何かに行き当たったようだ。
それぞれに持ち寄った内容を今こそ比較検討してみる時が来たのかもしれない。そうした意味では時計塔は最適な場所かもしれなかった。
貴子の推理とも呼べない推理を裏付ける、物的証拠が存在するかもしれない…。
気持ちが徐々に逸る。
貴子1人だけでは不安だ。自信がない。
奈美という心強い味方を呼び出してくれた勇樹の英断には感謝だ。警察が引き上げた今こそチャンスかもしれない。
「勇樹ももうすぐ来るんでしょ?奈美、時計塔に…時計塔に行ってみようよ!」
後で思い返せば、この時の貴子はきっと由紀子と同じだったのだ。
ただ知りたい…。
たったそれだけの好奇心に突き動かされるように何かに導かれて…。
地面を打つノイズのような雨音と、誰かの悲鳴にも似た風の音が窓の外を吹き荒れている。
薄闇が黒々と、学園という名の閉ざされた世界に浸食してくる中、時刻は間もなく夕方の17時を迎えようとしていた…。












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