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暁の魔術師
作:久浄要



忍び寄る悪意


14


時は巡り…。
事件を巡る舞台は一転して新たな局面を迎えようとしていた。
後に『赤魔女事件』と呼ばれるこの事件は、学校を巡る犯罪では最悪と呼ばれた、あの酒鬼薔薇事件と並ぶほどに日本の犯罪史上、稀にない残虐な展開を迎える事となるのだが、それはもう少し後の話である。
さながらトリオ・オーケストラの予期せぬ変調のごとく、事件はまたしても暮れなずむ夕暮れの学園で起こった…。


見られている…。
誰かの張り付くような視線を感じ、貴子は思わず俊敏に後ろを振り返った。
…ひんやりした涼しげな空気と共に、遠くから水の流れる音が聞こえる。
…気のせい…だよね…。
そっと胸を撫で下ろす。
もちろん不審な人影などあるはずもなく、放課後の学園は閑散としていた。
疲れた溜め息を一つして、貴子は歩き出す。
カツーン…カツーン…。
一人で歩いていると驚く程自分の足音が遠くまで反響するのがわかる。生徒達の声のしない学園はまるで廃墟か遺跡のようだ。
石造りのデコラティブな装飾が致る所に施された学園の校舎は、ロマネスク様式だか何だか、貴子も知らないような名前の大層な様式らしい。中世のロケーションの中に現代的な建築様式を盛り込んで建てられたという割には、学園の外側は形だけは綺麗だが無機質でひどく冷たい。
校舎の中にした所で、壁も床も天井も…、どこまでも平らで真っ直ぐで…、そして硬い。
鉄筋コンクリートの学校は何も吸収してはくれない。皆、跳ね返してくる。笑い声も泣き声も、音という音は皆反響してしまう。
衝撃も吸収しないから、走ろうが、歩こうが、滑ろうが、転ぼうが、負担は皆、己の身体にかかる。
叩いても蹴っても痛いのは自分の方だ。悲しい事も楽しい事も、辛い事も可笑しい事も、全部お前が自分で処理するんだとばかりに力いっぱい突き放される。
学校はちっとも優しくなんかない。由紀子の事件以来、貴子は何度もそう感じるようになっていた。
6月24日4時34分。
学園の西側『楽園の庭』、噴水広場…。
西門に程近い庭園の周囲は既に暮れなずむ夕日の中、真っ赤に染まっていた。
およそ学園という風景には似つかわくない、驚く程に広大な敷地である。
頭上の茜空を一際早く雲が流れていく。
天を貫くように高くそびえ立つ時計塔の細長い姿が、漆黒に浮き上がり、ギリシア数字の描かれた白い文字盤の部分だけが浮いているように見える。
雨が振り出す前触れなのか6月の終わりにしては冷たい、身を切り裂くような鋭い風が一瞬、貴子のショートの髪を散らし、制服のスカートをはためかせた。
寒い訳でもないのに、貴子は思わず身を震わせる。
自分でも臆病過ぎるとは思うのだが、どうもビクビクしてしまう。
理由はわかっている。
三日前…例の少女達の背徳的な会話を、はからずも盗み聞きしてしまってからというもの、貴子は生徒会長でもある、あの一条明日香に咎められた後ろめたさも手伝ってか、学園にいる間中はずっと気が気ではなかったのだ。
そして、もう一つ…
あの後ろ暗い会話を耳にしてからというもの、貴子の周囲ではおかしな事が立て続けに起こるようになっていた。
つい二日前の事だ…。下校時に玄関を抜けてすぐの事だった。いきなり貴子の頭上から何か固い物が落ちてきた。
ガシャン!という音が周囲に響き渡った。
一瞬、何が起こったのか判らなかった。
足元でバラバラに砕け散った鉢植えの残骸と思われる陶器の破片…突如自分を襲ったその物体を暫くの間、呆然と眺めていた。
あと2、3歩歩むのが早ければ間違いなく固い鉢植えは貴子の頭を直撃していた事だろう。
現実に立ち返り、慌てて頭上を見上げても校舎の開け放した窓には当然誰の影も見えない。
半ばどす黒い焦げ茶色をした土とバラバラに砕け散った鋭利な陶製のカケラ…。そしてそこには血のように真っ赤な薔薇の花が一本、黒い根を晒した姿で貴子の足元に転がっていた…。
顔面蒼白の貴子をよそに、何も見ていないか気付かなかったかのように、あるいは何事もなかったかのように、帰りの途へとついていく周囲の生徒達…。
貴子は目の前がぐらりと傾くような現実感の喪失と、総身が粟立つような恐怖がじわりと足元からやってくるのを、意識した…。
そして…今日の事だ。
午後の休み時間にトイレに立った貴子をまたしても不可解な事態が襲った。
開け放した誰もいないドア…トイレのドアを閉め、カタリとカギを掛けてすぐに異変は起こった。
周囲に足音はなかった。
いきなり外側のドアに何か固い物がゴツッと当たる音がした。
…しまった!…と気付いた時にはもう遅かった。
…閉じ込められた!
貴子はパニックになって、狭く、暗い密室の中、力任せに何度も拳でドアを叩き、肘をぶつけ、膝で、足で蹴飛ばした。
『…開けて!助けて!』
その言葉が出ない。あらん限りの声を張り上げ、誰かに助けを呼ぼうとするのだが、喉から出かかった自分の声は、恐怖のあまり肝心な所で乾いたようにつっかえ、激しい吐息と共にひいひいとおかしな音をあげるだけ…。
華奢な自分の身体が恨めしくなる。懇願するように泣き顔になって幾度か体当たりを繰り返すと、ドアの外側からバキッという音と共に何か丸い物が転がる乾いた音がした。
ギイッと軋んだ音を立てて白いドアはあっさりと外側に開いた。
表のドアを見るとモップの柄の部分がつっかい棒になって斜めにドアを塞いでいた跡がある。折れた部分が引っ掻いたような白い筋になって残っていた。
地面に転がった、欠けたモップの尖った切っ先が、貴子へと向いていた…。
きわめつけは玄関だった。靴の入った下足棚に赤いマニキュアがぶちまけられていたのだ。
貴子は顔を背けた。
気が付けば内履きのズックのまま、訳もなく走り出していた。
行きたい所など、この硬いだけの校舎にはどこにもないというのに…。
寂しさや悲しみの感情さえ一緒に紛らわし、共有していた親友はもはやいないというのに…。
貴子は駆け出した。
何もかもから逃げ出したかった。
ここに至り、貴子は何物かの冷たい憎悪に彩られた、剥き出しの悪意を初めて実感した。
そして恐怖する。
触れてはならないものに触れた時…知ってはならない事を知った時…実害を伴った悪意と対峙した時に、人がいかに無力で何も出来ないのかを…。
そして…気が付けば貴子は由紀子が死んだあの場所へと来ていた。
…馬鹿みたい…。
止まった途端に一気に身体に負担が跳ね返ったように疲れ、貴子はとぼとぼと噴水の方へと歩いてきたのだった。
辺りには色とりどりの花が咲いていた。
真っ赤な茜空に浮かぶ、白とも赤ともつかぬ淡いピンク色をした雲間から覗く夕日の光が、キラキラと鈍く石造りの噴水の水面を輝かせていた。
時折さあっと噴水の流れが放射状に変わる以外は、動くものなどなく、辺りには人っ子一人とていない。
由紀子が死んだ日から数えて約一週間…。
学園側は結局、由紀子の死を完全に自殺と見做す、当初からの予定どおりに処理する方針を固めた。
生徒達には朝と放課後前のホームルームで…。教育委員会には校長と生徒指導部顧問が…。保護者には教師や学園関係者がPTA総会を設けて応対したらしい。
マスコミや警察には教頭が代表して声明を発表するらしい。
今回の事件は川島由紀子という一人の女生徒の予期せぬ自殺であり、遺書も存在せぬ以上、彼女は人知れず誰にも言えぬ悩みを抱えて自殺した。
これを受けてかどうかはわからないが、三日前まで放課後には何人も見かけた警察も今では数える程しかいなかった。
それでも生徒の何人かは、相変わらず校門をくぐれば週刊誌やテレビといったマスコミの取材を受けている訳で、状況的にはあまり変わり映えしていないのかもしれない。
公園などでよく目にする、備え付けの白いベンチに腰掛け、貴子は自分の携帯電話を取り出した。
啜り泣くような音を立てて6月の物狂おしい風が吹き去ってゆく…。色とりどりの花に満ちた庭園からむっとするような芳香が貴子の鼻をかすめた。
相変わらず学園を休み続けている勇樹にどう相談したものか、貴子は測り兼ねている。
例の放課後の件はその日のうちに連絡してもみたのだが、携帯電話の電波の届かない場所にいるものか、何度連絡しようと勇樹には繋がらなかった。協力関係にいるとはいえ、勇樹とメールアドレスの交換まではしていない。
…考えたくもない事だったが勇樹も何か事件に巻き込まれたのだろうか?
クラスの誰かや、まして学園側の人間である担任の山内には相談できる内容でもなかった。
由紀子の死…そしていきなり退学処分となった須藤の噂もあってB組は今やバラバラの状態だ。それもそのはず…同じクラスの仲間とて、学園を離れれば…制服を脱ぎ去れば、そこにいるのはただ一人の個人個人でしかないからだ。
隣人の顔さえ見えぬ、この黄昏時と同じだ…。
昼と夜を分かつ時間の境界は、著しく視認性をぼやけさせる。高校生という仮面を脱ぎ捨てた途端、属性は曖昧なものとなる。私服の趣味や、メイク一つでガラリと大人びた雰囲気を纏う女子高生がいるように。
学校の放課後に限らず、アフターファイブには自然と別人の仮面を被れるように現代人は出来ているのかもしれない。
由紀子や須藤のように…。貴子のような鈍臭い小娘には、そうした機微はわからない。今の貴子は、ついこの間まで隣にいた親友やクラスメートの顔さえ、ぼんやりとしか想起できないでいるのだった。
…これからどうする?
明らかに貴子は狙われている…。この二日間で身の周りに起きた事はけして偶然の一言や、まして冗談では片付けられない。
貴子はぶるりと身を震わせた。正直、怖くて堪らない…。しかし、次の瞬間には雑念を払うようにゆるゆると頭を振った。
落ち着け…!
…冷静に考えろ…!
なぜ自分が襲われなきゃならないのか。このままでは相手の思う坪だ。
彼女達の秘密を知ってしまったから…?
あるいは元々、由紀子に近しい人間だったから…?
あの図書室で起こった事を思い出せ…。
何かあるはずだ…!
思い出せ…!
この二日間で降って沸いたように、いきなり自分に身の危険が迫っているというこの事実…。
あの図書室という密室での彼女達の会話…。
ガーベラ…、リリー…そして彼女達の間ではローズと呼ばれていた由紀子…。
リーダー格と思われるダチュラという名の女…。
そして現生徒会長の、一条明日香…。
大事な人の前以外、絶対に髪留めを外したりしないと言っていた由紀子が、時計塔に上がり、あの髪留めを外したままで墜落したという事実…。
なぜ現場が時計塔でなければならなかった…?
思考は今や猛烈な勢いで演算と圧縮を繰り返し、貴子の頭を巡っていた。
………!
そうか…!
そして、貴子はついにその事実(!)に至る。
考えてみれば当然過ぎる程に簡単な一本道のロジックだ。…そしてそれは俄かには信じられない事だった。しかし、これ以外に明解な解答はない気がする。
つまり…
貴子が図書室の件以降に襲われたという事実は、取りも直さず一つの事実を指し示している。
…あの密室でリリーとガーベラは、貴子の存在に気付いてすらいなかった。
にも関わらず、貴子は別々の場所で、別々の人間に、別々の罠を、まるで狩りを楽しむように、何者かに仕掛けられているのだ。
貴子を襲った犯人は、おそらくは複数犯であるというこの事実…。これが彼女達の仕業ならば、必ず彼女達に貴子の存在を報せた内通者がいたのだ。
そして、あの図書室の死角に隠れた貴子の存在に気付いていた人物は、一人しかいない…。
その人物が現れた瞬間の、ガーベラとリリーの動揺ぶりを思い出す…。
そして、その人物は噂によれば、時計塔に行く前に由紀子が最後に会っていたであろう人物…。
間違いない…。
自らをヘブンズと呼んでいた、かの売春グループの頭目…。リーダー、ダチュラは…。
その時だった!
「危ない!よけてっ!」
女の声。
…ヒュン!と何かが風を切る異質な音がした。
体当たりでもするように、何か黒い塊が貴子にいきなりぶつかってきた。
刹那、衝撃に思わず顔を背ける貴子。
ベンチから転げるように、もんどり打って地面に倒れた。
背中に鈍い痛み。一瞬、息が止まる。
…ドカッ!
頭上のベンチに何かが当たった。次いで弦を弾いたような鋭い振動音。
気付けば、むっとするような草いきれと花の香り。
誰かが貴子に覆い被さっている。
貴子と同じ制服。
そいつはいきなりガバッと立ち上がると、貴子の腕を無理矢理引っ張って立ち上がらせた。
…痛い!
腕が引きちぎれそう!
「何してんの!立って!急いでここを離れるの!」
禀とした声でその女は貴子に命じた。
訳もわからず貴子は立ち上がる。
……!
白いベンチに何か細長いモノが突き射さっている。
それはアーチェリーに使われるボーガンの矢だった。「早く!急がないと殺されるわ!」
殺される!?
貴子はいきなり現実へと引き戻された。
女は貴子の手を取ると猛然と校舎の方へ駆け出した。半ば引っ張られるように貴子も後に続く。
風にそよぐ長いロングヘアーとポニーテール…。
夕日が一瞬、まばゆく目を眩ませた。
逆光の中…、振り向き様、一瞬だけ見えた女の顔。
そう…夕暮れはいつも得体の知れない悪夢を伴ってやって来るのだ。
「由紀…子…!?」
黒い影にしか見えない周囲の風景が過ぎてゆく…。
向こう側に時計塔のある校舎が見えた。












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